礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年1月2日

「備え給う神」

竿代 照夫 牧師

創世記22章1-19節

中心聖句

22:14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

(22章14節)

アウトライン:

 アブラハムは神の言うとおり、ひとり子イサクをいけにえに捧げる決心をし、モリアの山に登った。

 アブラハムは神が与えられた試練=テストに信仰を持って答えたのだ。

 このアブラハムに対して主は、モリアの山で代わりの羊を備えられた。

 アブラハムのように神の愛と信仰のテストに答えるとき、神は我々が考えもしなかったような備えをされているのだ。

教訓:備え給う神を信じ、年を始めよう


導入

昨日の新年聖会における藤本総理のメッセージの題名をプログラムに見たとき、私は心臓が止まるような思いがすると同時に、どうしようかと思いました。なぜなら、総理のメッセージは私の今日のメッセージと全く同じ場所・テキストからであり、内容もそっくりであったからです。しかし、メッセージは同じ箇所のものを扱っても、人により見る角度が異なりますので、今日は私の角度から同じ場所のメッセージをさせていただきたいと思います。

人間は将来に対していろいろな備えをするものです。今年の正月の2000年問題でも多くの備えがなされました。また現代は予測よりもはるかに速く変化が起きる時代です。これは、インターネットの普及などの最近の世の中の流れを考えていただければ、皆さんもすぐおわかりになると思います。

聖書のこの部分のイントロダクションもいろいろ「備えて」あったのですが、思いも掛けず昨日話されてしまいました。ですからここははしょって、いきなり本論の方に移らせていただきたいと思います。

冒頭の聖書の箇所では、私たちが備える以前に主が備えてくださることについて書かれております。ここで確認できることは、「主は生きておられ、このお方が将来をしっかり握っておられ、私たちを一歩一歩導いておられるという事実」です。今日はそのことを示すアブラハムの行ったイサクの献納の記事から学んでみたいと思います。


I. 神が与えられたテスト

22章は、アブラハムに対する神による一連の信仰訓練の仕上げの段階が記されている箇所です。言い換えますと、神の霊的学校の卒業試験について書かれている場所なのです。

これらの出来事(100歳でイサクを生み、ペリシテ人の土地に寄留したごたごたの経験)の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、アブラハムよ。と呼びかけられると、彼は、はい。ここにおります。と答えた。

ここで記されている試練とは「テスト」と言う意味合いが強いことばです。ではそのテストとはどんなものだったのでしょうか?

1.愛のテスト

1)問題1:

第1の問題は愛のテストでした。すなわち

アブラハムよ、あなたは自分の子供のイサクを偶像視してはいないか。イサクと私とを両天秤にかけたらどちらを取るか

これが第一のテストだったのです。

神は仰せられた。あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。

この中で「あなたの愛しているひとり子」に力点があるように思えます。アブラハムにはイシュマエルという妻以外の女性との間に産まれた子がありましたが、イサクは長い祈りに答えられて100才を越えてアブラハムとその正妻の間に与えられた子供でした。全焼のいけにえとは動物を殺した後、すべてを焼き尽くすと言ういけにえのささげ方ですが、その大切な子供をそういうかたちでささげ物にせよという、にわかには信じがたい神からの命令が与えられたのです。

文字通りイサクは神の賜物であり、それ自体は善です。その良きことですら、神よりも大きな愛を注ぐ対象となれば、それは偶像であるというのです。アブラハムはこの時、無意識的であってもイサクに夢中になっている自分を深くえぐられた思いを持ったのではないでしょうか。私たちも、子供のことに関わりすぎて大切な毎日のディボーションがそっちのけになっていたりはしないでしょうか?そのような場合も、子供が偶像になっているといえるのです。

2)1に対する答え:

それに対するアブラハムの答えは明確、単純、即刻的なものでした。アブラハムは神に従い、神を愛することを選んだのです。その様が3節に書かれております。

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

皆さん、このことを自分のことに置き換えて見て下さい。アブラハムはその晩眠れない夜を過ごしたかも知れません。しかし、その翌朝から彼は何の躊躇逡巡の後を見ない行動をとったのです。彼は刀を振り上げて自分の子イサクを屠ろうとしたその瞬間まで(心理的な葛藤が全く無かったとは思えないが)その決意に変わりは無かったのです。つまり、神を選ぶという姿勢を、徹頭徹尾行動で示したのです。


2.信仰のテスト

1)問題2:

第二のテストは信仰についてでありました。あなたの正統な子供イサクから子孫を殖やすというのが神の約束であったわけですが、そのイサクを全焼の生け贄として捧げるということは、その約束の実現を自ら断つ事を意味しております。

アブラハムよ、それでもあなたは神の真実さ、神の約束の確かさを信じられるか

これが第二の、しかも重たいテストだったのです。

2)答え:

神の言われたことをどう信じるのか?常識的に考えれば大きな矛盾であり、大きなパズルであります。しかしアブラハムは神を信じ、このテストにも驚くべき信仰の飛躍で合格したのです。ヘブル11:17−19は、この信仰のプロセスを解説して「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」と記しております。

アブラハムはベエル・シェバから80kmさきのモリア山へむかいました。モリヤ山はエルサレム東側にあり、多くのパレスチナ人が住んでいるところです。彼は山に登る際、従者とロバを麓に残しましたが、この時に注目すべき発言をしております。

それは「戻ってくる」という動詞が複数形扱いになっていることです。行きは二人ですので、複数形で良いのですが、帰りはイサクを捧げた後ですので一人のはずです。ところが複数形になっていたのです。ここから、神がアブラハムに課した第2のテストへのアブラハムの応答が見て取れます。

神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と考えました。それで彼は「死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と語っています。

すなわちアブラハムはイサクを捧げる前に、たとえイサクを殺したとしても、神はこれを復活させなさる、という信仰の論理的飛躍をしていたのです。復活という思想を信仰を持って受け入れたのです。


II. 神の備え

以上のテストの仕上げが、モリア山頂でのアブラハムの行ったイサクの献納です。この時のアブラハムとイサクの会話は昨日藤本総理が実にリアルに話されておりました。とてもマネ出来ないと思いますので、今日はそこはスキップさせていただきます。

しかし、ここで言っておかなければならないことは、とにかく彼が本気で刀を振り上げ、その瞬間に主が彼の心を受け入れ、全焼の生け贄のための代わりの羊を備えられた、と言うことです。

13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

ここでアブラハムは痛切な経験を通して「主が備えて下さる」ことを知ったのです。ここで3つのことをまとめてみたいと思います。


1.神のタイミングに従って与えられる

14節を見てみますと、「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、主の山の上には備えがある。と言い伝えられている。」と書かれております。

アドナイ・イルエアドナイとは主=神であり、イルエとは見るという意味です。従って直訳すると「神は見ておられる」と言う意味になります。

もっと言えば「予め先まで見ておられる」ということです。予め見ておられるから、その時その時の必要の為の備えがあることになります。予め物を備えておられるとは書かれてはいません。予め見ておられて、その時に備えられるのです。

これは丁度ウエイターが客の様子を見て、時々に客の必要を満たすことにたとえられます。高級なレストランでは、ウェイターは客の動きを見ていないようでしっかりと観察しており、例えばスプーンを落としたりしてみますと(わざとやらないで下さいね)、すぐやってきて取り替えてくれたりするものです。

この年の始め、いや千年期の始めに当たって、私達はとても変化の速い時代も流れの中で、たとえ先が見えなくても、予め見ておられ、知っておられる神様を私達のボスとして持っている事を確認させていただきましょう。私たちが備えをしなくとも、主が必要なときに必要な備えをして下さると言う強い信仰を持とうではありませんか。それは私達に大きな安心感を与えるものです。


2.神様の備えとは、人間の予測や期待を越えた方法と内容をもつ

第一コリント2:9で学んだ

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

という聖言を思い出してみてください。コリントのこの文脈では、神の救いの計画は、キリストの十字架のあがないを信じる信仰によってユダヤ人だけではなく、全ての人が救われるという壮大なものである、と言うことが示されております。また、将来の再臨後の新しい天と地についての約束についての意味合いも込められております。これらはそれまで隠されていた真理(奥義)の備えであったものですが、今やキリストによって全ての人に知られている備えなのです。

このように救いは人知を越えたすばらしい備えですが、しかし神様の備えというのは、救いの計画にかぎられないのです。同じ聖言の後半には「神の備えてくださったものは、みなそうである。」と書いてあります。

今年私たちを何が待ち受けているのかわかりません。しかし、どうかみなさん、主が備えてくださるものはすべて人知を越えたものでることを確信していただきたいのです。

私達の想像を超えた素晴らしい事が私達を待ち受けている、という大きな期待をもってこの年を始めようではありませんか。私達を待ち受けているその素晴しい永遠的な将来を知ることは、私達にこの世の旅路を進み行き、困難に耐え、誘惑に打ち勝つ望みと勇気を与えるのです。


3.それは、主を愛する者に備えられる

主の備えが与えられるためには、主を愛することが条件になります。さらに、この主を愛するというのは漠然と愛するのではなく、アブラハムのように具体的な行動になって現れるものをさします。すべてのことにまさって主を愛することを、本当の意味での「主を愛する」というのです。

たとえば、時間の用い方一つにもそれがあらわれます。神を愛していれば、ディボーションよりも睡眠を優先したり、礼拝よりも仕事を優先したりする事はありません。多くの日本人のように、一年に一度初詣をして願を掛けるというような愛し方では話になりません。献金でも、余ったお金の中から捧げるのではなく、まずその初穂をもって捧げるのが、神様に対して愛を持っている人のやり方です。主を決して試してはなりませんが、十分の一を捧げて食べるのに困るかどうかやってみれば、主が大いなる経済的祝福をもって答えて下さることがわかるでしょう。

アブラハムはこの「神を愛する」という厳しい選択の試験に合格したので、神様は備えを示されたのです。

13「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

更に16−18節には

「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

とその祝福の内容まで記されているようになるのです。

一方で神への愛は、その祝福を求める手段として、いわば交換条件のように解釈してはなりません。祝福があろうと無かろうと、私達は神様が神様である故にこのお方を敬い、従い、愛するのです。神様は私達の動機と関わりなく、祝福を注ごうと待っておられるお方なのですから。

ローマ8:28にも「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と記されてある通りです。

みなさん、神様よりも愛している「イサク」がないでしょうか?ある人にとってそれは自分の地位であり、これまでの実績であり、経済力であり、誇りであったり家系であったりするかも知れません。こういう事をみな捨てて神様の前に裸で出ていける人にこそ、神様の人知を越えた恵みが与えられるのです。

人生には私たちのアイデンティティーを揺さぶるような試練が待ちかまえていることがあります。しかしその時にすべてを神様にお捧げし、神第一の行動を取ることで、神様は私たちに備えをして下さるのです。

備えて下さる神を信じ、期待をもって、年を始めようではありませんか。


Edited and written by K. Ohta on 2000.1.3