礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年1月9日

教会について(1)
「教会のかしらなるキリスト」

竿代 照夫 牧師

コロサイ書1章13-25節

中心聖句

1:18また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

(1章18節)

アウトライン:

 
教会の頭はイエス・キリストである。

イエス・キリストは、教会だけでなく万物を創造され、保持している全宇宙の頭でもある。

そのようなイエス・キリストが教会の頭であるという事実は、私達にへりくだり、勇気、服従、神第一の生活、慰めを与えてくれる。

教訓:イエス・キリストが教会の頭であるという事実が私達に与えてくれる多くの恵み


導入

 本日の聖書の箇所はコロサイ書1章の13節から25節ですが、その中の18節をご一緒にお読みしましょう。本日はこの18節が中心聖句です。

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

 「
御子」とはイエス・キリストのことですが、そのイエス・キリストが教会の頭であり、全てのものの上に立つ第一のお方であると記されております。

 1月23日の教会総会に向けた準備講壇の第一回にあたって、
教会とは何かという言い古された問題ではありますが、しばしば原点に返って考える必要のある問題についてお話したいと思います。

 新年聖会の3日目の朝、私はこのテーマを与えられて聖書講義を行いました。

 新年聖会の聖書講義ではこれをかなり広く聖書から扱いましたが、本日はもう少し狭く、キリストの体としての教会というテーマに限ってお話したいと思います。

 コロサイ書というのは
パウロがローマで捕らえられたときに獄中で執筆したものです。それまでのパウロは忙しく教会建設や牧会に従事しておりましたが、捕らえられて何もすることができないいわゆる幽囚生活の中で、彼はそれまで一途に建設してきた教会というもののあり方について深く考える機会を得ました。そのような中で書かれたのが、コロサイ書であり、エペソ書であり、ピリピ書であったわけです。そういう意味で、ここに書かれている教会の姿は教会の本質を十分に示した素晴らしい論述であると言うことができます。

 パウロがここで描こうとしている教会の姿は、
キリストを頭とする人間の体のようなものです。

 本日は、まず本日の聖書の箇所のコロサイ書1章の内容について、本日のテーマに従ってそのアウトラインをご紹介し、次に教会はキリストを頭とする体であるということの意味するところを5つの点から私達の教訓として捕らえさせていただきたいと思います。


1.全宇宙の頭キリスト(15-17節)

 15節以下のところにはキリストは教会の頭である以前に、
全宇宙的な頭であるということが記されております。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 ここでは御子=キリストについて以下の4つのものであると述べています。

1) 神ご自身
2) 先に在すお方
3) 創造者
4) 保持者


 「
見えない神のかたち」とは神ご自身と変わらないお方、否、神ご自身であるということです。

 「
造られたすべてのものより先に生まれた方」、一番最初に存在しておられた方ということですが、ここで間違わないでいただきないのは、一番先に「造られた」のではないということです。キリストは神によって造られた被造物ではありません。先に生まれたというのは時間的なものではなくて、立場的に父の御力を受けておられるということです。

 次に「
万物は御子にあって造られ」とありますように、全宇宙の創造者であると記されています。

 創世記の1章を見ると父なる神が先頭に立って全てを創られたような記述がありますが、一方
ヨハネの福音書第1章には「ことばは神とともにあった」と書かれておりますが、そこにはキリストが神とともにあって全てのものを創られたことをうかがわれる記述があります。

 さらにそこに霊が満ちていた、聖霊によって全てのものが生けるものとなったとありますから、
創造は父である神、子であるイエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神の共同作業によるものと考えられます。創造にあたって神は「私達の形に従って(according to our image)人を創ろう。」と述べられたことが創世記に記されていますが、「私達」と複数形で表されていることからも、三位一体の人格を持つ神と、キリストが創造に関わられたお方であることを知ることができます。

 
キリストは創造者であり、そして我々は「御子によって造られ、御子のために造られた」とありますように、キリストのために、キリストを愛するように、キリストの栄光を顕すように造られたのです。

 さらに、「
万物は御子にあって成り立っています。」とありますように、キリストは宇宙の保持者でもあります。

 ある物理学者でクリスチャンでもある人が、このキリストの力を説明して、全てのものが遠心的な方向に進んでいる中で、それを
求心的な方向にしっかりと留めているのはこのキリストの力によるのだという説明を加えております。

 私は科学者ではありませんのでビッグバンがどのようにして起こったのか、、宇宙がこれからどうなっていくのか詳しい事は知りませんが、偶然論によってこの宇宙の全てを理解することは私にはできません。そこには、支配者、創造者であり、保持者であるイエス・キリストの力が働いているのを感じます。

 このことをサッカーに例えると、例えば日本代表のトルシエ監督が、自分達の高校のサッカー部のコーチをしてくれるようなものです。全宇宙の監督イエス・キリストが私達の教会の監督もしてくれるのです。なんと心強いことでしょうか。


2.教会の頭なるキリスト(18-26節)

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。


 ここではどういう面でキリストが頭となられたか、ということについて次の2つのことが書かれています。

1) 復活によって

 
復活によって生まれ変わった新人類の初めの方がキリストです。

 新人類という言葉は何年か前に流行った言葉で、大人にはその考え方や行動が理解できない若い人達という意味で用いられましたが、私達クリスチャンはキリストの救いによって生まれ変わったという点で新人類に属しているのです。

2) 十字架の和解によって

 私達は元々は神と敵対しているものであったのですが、キリストの十字架の死によって神と仲直りをして友達になることができたのです。

 その
和解の努めをキリストは十字架で果たして教会の頭となってくださったのです。



3.キリストの体(21-23a節)

1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
1:23
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

 ここではキリストの体である教会はどのようなものであるかについて、
「かつては」、「今は」という言葉で過去と現在の対比を行っています。

1) 神と離れていた

 まず「
かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのです」と過去の生涯におけるキリストと関係の無い生活を振り返っています。

 神を知る前の私達は「
神様なんて知らない、私は自分の考えで、自分の意思で、自分の力で生きていくのだ。」という哲学にたっておりました。その結果として悪い行いの中にあったのです。

 それはいわば
電源が止まってしまった冷蔵庫のようなものです。2000年問題対策で、皆さんもいろいろと対策をなさったことと思います。私も乾パンや缶詰などを買って万一電気が止まってしまった場合に備えました。電気がちゃんと通っていることのありがたさを再確認したわけですが、神の恵みに満たされていない人間は、電気の止まった冷蔵庫のように腐敗が始まってしまいます。

2) 神と和解して

 次に「
今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」と神と仲直りをして罪を赦してもらい、神の子供となった様子が記されています。

 さらに単に立場がそうなったというだけでなく、過去の生涯がどんなに醜く自分中心のものであったとしても、それらを「
聖く、傷なく、非難されるところのない者として作り変えて下さるのがキリストの救いなのです。




4.教会に仕えるパウロ(23b-25節)

 次にその教会に仕えるパウロがどのような態度で仕えているかが記されております。

1:23(後半)この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。
1:24
ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
1:25
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

1) 福音を述べ伝える

 パウロはこの素晴らしい
福音を全世界に述べ伝えるために労しているのだと述べています。

2) あらゆる人をキリストの成人として立たせる

 さらにこの後の28節には「
すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」とあります。成人とは成熟したクリスチャンのことですが、きよめの中に成長していくクリスチャンとして立たせていくために私は仕えているのだと述べています。

3) キリストの体の欠けた部分を補う

 そのために私はキリストの悩みの欠けているところを補っていくのだと自分を位置付けております。




終わりに−教会の頭、キリストが私達にもたらすもの

 本日はコロサイ書の解説はこのぐらいにします。キリストが教会の頭であるということが、この文章で良くおわかりいただけたと思います。

 それでは次に、教会の頭がキリストであるという事実が、実際に私達に
どのような恵みや考え方と生き方をもたらすのかということについてお話して終わりたいと思います。


1. へりくだり

 確かに人間の組織としての教会にはいろいろな責任者が立てられますが、その
責任者は本当の意味での教会の頭ではありません

この絵のように法王様がどんなに偉くて、どんなに高い帽子をかぶっていても彼は教会の頭では無いのです。

 
教会の頭はあくまでキリストです。

 それが、教会と世の中の会社や役所や学校やスポーツのチームとの根本的な違いです。会社のボスは社長でしょうし、学校のトップは校長先生であり、野球のチームならば選手は皆監督の命令で動くでしょう。

 しかし、教会の頭はキリストという目に見えないお方であります。そのことを本当の意味で実現するためには、単に頭でうなずくだけでなく、神を第一としてその御心に熱心に従う姿勢が必要です。

2. 勇気

 私達はいわばすばらしい監督を持っているのであります。
全宇宙の指導者が我々のチームの監督なのです。

 このことは私達に大きな視野と世界観を与えてくれます。

 表面的には神を信じない政治の指導者達が世界を動かしているように見えますが、実は彼らは大きな歴史の中では神の計画を果たすために使われている人形にすぎないのです。例えると、子供の頃遊んだように、紙の上におかれた砂鉄がその下の磁石の動きに合わせて動かされているようなものです。この磁石のように目に見えないところから、大局的に世界をある方向に導いているのがキリストです。

 日本ではクリスチャンは少数派で、その中にあってクリスチャンとして生きるのは大変なことかもしれません。しかし、我々の頭は全宇宙の指導者キリストであることに勇気を持って日々の社会生活に邁進したいものです。


3. 服従

 頭は体に命令を与え、体はその命令に従って動きます。

車を運転するときは、目が物体を捉えて頭脳に伝え、それを脳が察知して、ブレーキを踏むよう足に命令を出します。酒に酔っていたり、高齢になったりすると、その命令がわずかに遅くなるので危険なことになります。頭脳の命令が迅速に手足に行かず、手足が命令どおりに動かないというのは大変なことでしょう。

 私達は教会の体として、親分である
頭に相談して、その指示に従って動くという姿勢が大切です。

 第1ペテロ3:15には、「
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と書かれていますが、いつもイエス様を主としてあがめる姿勢が大切です。

 また、コロサイ3:16には、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」と書かれています。

 イエス様の命令とはすなわち聖書に書かれた御言葉のことです。
御言葉の中にはクリスチャン生活の全ての状況において必要なことが蓄えられています。ですからそれを、ひとつだけでなく、豊かに心にすまわせ、従っていきなさいと書かれています。


4. 神第一の生活

 新年聖会のメッセージで河村先生が「
マタイ6:33が単なるスローガンになってはいませんか?」という問いかけをされておりました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:33

 この素晴らしい言葉を単なる標語としないで、本当の意味でそういう心の姿勢と生活を得るためにはどうしたらよいのでしょうか?

 ひとつには
時間の使い方において、神第一となるよう心がけましょう。一週間の計画、一日の計画を立てるときに、神を第一にして、神の喜ぶことは何かを静まって考える習慣を身につけましょう。

 まったく計画を立てずに行き当たりばったりに生活してもなんとなく人生は過ぎてゆくものです。

 しかし、私達はどうしたらその
生涯、思い、言動を通して神の栄光を顕すことができるかを思って、御前に静まる時間を持ちたいと思います。

 そうでなければ私達の活動は、教会の活動でさえも
「私がやりたいこと」の延長となってしまいます。そうなってはいけません。

 聖書の詩篇には、「
朝ごとに私は神のために供えをして待ち望みます。」と書かれていますが、私達もこのような姿勢を持ちたいものです。

 また、
金銭の使い方、趣味の位置付け、職業の選び方、伴侶の選び方、学校の選び方などの一つ一つの決定の時において、神第一の姿勢を持ちたいものです。


5. 慰め

 教会の頭はキリストであるということは
私達に大きな慰めを与えてくれます。

 先ほど体は頭脳の命令に従って動くというお話をしましたが、同じように
体の痛みを真っ先に知るのは頭脳です。

  足を踏まれたときに、痛いと思うのは足ではなくて脳なのです。

 パウロがキリストの体であるという比喩で教会を捕らえるきっかけになった第一のできごとは、パウロがかつてクリスチャンの迫害をしていたときに、復活のキリストに出会って次のように言われたことです。

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。」(使徒の働き9:4)

 サウロとはパウロのことですが、「何故教会を迫害するのか」ではなくて「
何故私を迫害するのか」、というキリストのことばによって、パウロは自分は生意気なクリスチャン達を迫害していたつもりであったのに、実はキリスト自身を迫害していたことを知り愕然としました

 
クリスチャンの苦しみはキリストの苦しみです。

 世の中にあって、人の知らない苦しみや、試練を持っておられたとしても、
イエス様は私達の苦しみを伴に担って下さるお方です。このことはなんと大きな慰めと力を私達に与えてくれることでしょう。

 キリストは教会の頭であるという事実が、単なる観念では無くて、勇気、服従、神第一の生活、慰めとなって、この1年、そして一生の間保たれることを心から祈りたいと思います。

 ご一緒にお祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.1.9