礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年1月16日

教会について (2)

「仕え合う教会」

竿代 照夫 牧師

第1ペテロ4章7〜11節

中心聖句

10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

11語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

(4章10、11節)

アウトライン:

 先週に引き続き、教会総会に向けてのメッセージである。

 ペテロは、キリストの体としの教会という視点から、私たちのなすべきことを2つ語っている。第1は、「愛し合いなさい」であり、第2は、教会の奉仕という面から「仕え合いなさい」ということであった。

 ペテロがこのように語ったときに、何を考えていたことであろうか。説教者が思うには、ヨハネ伝13章のイエス自らが模範を示して弟子たちの足を洗った出来事ではなかったか、ということである。

教訓:教会の奉仕として互いに仕え合おう


導入

 1月23日の教会総会に向けて、教会について引き続き考えたいと思っております。昨週はコロサイ書から「教会のかしらであるキリスト」について学びました。今週は「キリストの体」としての教会という視点から、教会において、私たちがどういう立場であり、どういう責務がお互いあるだろうかという角度から、ペテロの第1の手紙4章を選ばせていただきました。


個人としての信仰生活の確立の勧め

4:7 a 万物の終わりが近づきました。

 ここは、終わりの日の近さを意識した所です。この時代の物事の終わり、つまりこの時代を締めくくるキリスト再臨の時の切迫を物語っています。

 この4章で強調されている事柄を理解するために、ペテロの第1の手紙がどういう環境で、どういう人たちに書かれたのかを見てみます。1章1〜2節に戻ります。

1:1-2 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように選ばれた人々へ。

 ここから、まずこの手紙の宛先は、小アジア、すなわち今でいうトルコ共和国の中に散在している教会のメンバーに書かれたものであることがわかります。そしてその教会の人たちは、周りのほとんどの人が未信者という中で、きびしい迫害に遭っていました。その中にあって、ペテロが励ましと慰めを与えたのですが、そのテーマは何であったかというと「主は来たり給う」「主はもう1度来て、新しい世界を確立して下さる」というメッセージでした。

 この1章からこのメッセージを見てみましょう。

1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 苦難の中にいる小アジアの教会のメンバーに対して、試練を通して再臨の日に勝ち取る栄光を語っています。

1:13 あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 さらにペテロは、その日にもたらされる恵について語っています。

 4章に戻ります。ペテロがキリスト再臨を間近に感じていたとするならば、私達はもっと再臨の間近にいると言えます。ペテロはこの再臨の切迫感こそ、聖潔い生活と愛の実践への動力であると語っています。

4:7 b ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 ここで、「ですから」とは、再臨が近いことを指し、「身を慎み」はネーフォー(酔っていない、落ち着いた心をもつ)という意味です。人間は、再臨の切迫という状況に立つと、興奮し、浮ついてしまって、通常の義務を忘れ、普段の生活が疎かになる傾向があります。そこで、再臨を待ち臨む心構えとしては、健全で落ち着いた気持ちで臨むように、また祈りさないと勧めています。


共同体としての教会における信仰実践の勧め

 さて、以上は、個人についての勧めですが、ペテロは、8〜11節で、教会の共同体として「愛し合いなさい」「仕え合いなさい」と二つの面から勧めているのです。


T.愛し合いなさい

 最初にペテロは、「愛し合いなさい」と勧めています。

4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

@愛が第1

 何よりもまず」とは、愛の第一義性を示しています。他のどんな徳よりも愛が大切なのです。第1コリント13章1〜3節では、愛がなければ、信仰も奉仕も、たとえ殉教でさえも空しい、とまで言い切っているのです。

A熱心に!

 愛は「熱心に」実践されなければなりません。ギリシャ語ではエクテネーで「熱心に、力を出し切って」という意味です。私達も中途半端でなく、積極的に、力を出し切った愛が求められているのです。

B互いに

 愛は「互いに」向けられるのです。自己中心的な愛ではなく、他の人々の為に与え尽くす愛が必要です。どうか私たちが、お互いを見ることに鈍感でありませんように・・

Cアガペーの愛で!

 ここでは、「アガペー」という愛で、と語られています。すなわち、私達が愛するのは、人間的な愛ではなく、イエス様が私達を愛された愛(アガペーの愛)をもって、ということです。

 その愛とは、第1に、「愛する価値の無い者への愛」です。気に入る人、可愛い人、好ましい人への愛でなく、憎たらしい人、ウマが合わない人、自分を好んでいなさそうな人への愛なのです。どうしても、遅く歩く人にとっては、速く歩く人とうまく合いませんし、速く歩く人は、遅く歩く人を批判するものです。人間関係には色々ありますね。イエス様の愛というのは、敵である人、ウマの合わない人、その人に向けてイエス様は「愛しなさい」と言われました。それがイエス様の愛です

 第2に、イエス様の愛は「報いを求めない愛」です。たとえ感謝してもらえなくても、気にしないで与える愛です。第3に、「人の賞賛を求めない愛」です。これだけやったんだぞー、とラッパを吹いてはいけません。右手のなす事を左手に知らさない愛です。

 第4に、「他人と比較しない愛」です。私はこれだけやっているのに、他の人はなんて冷たいのかと、批判的な気持ちにならない愛のことです。マルタはマリヤのことを批判しました。他人と比較し、裁いてはいけません。第5に、「赦す愛」です。罪を犯した人を心から赦し、仲間として受け入れることを意味します。

D喜んで

4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

 愛は、家での接待という具体的行動で表されます。

 当時の社会では、旅人、迫害で家を逐われた人々を助けることが一般的風習でありました。それでも、突然のお客さんであったり、礼儀を知らないお客さんであったら、呟きが自然に出てしまうのが人情でしょう。ここでペテロはそれを意識して、「呟かないで」と愛の心から旅人をもてなすよう勧めているのです。


U.仕え合いなさい

 次に、ペテロは、教会における「奉仕」について語っています。

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

@各々の様々な賜物で

 「賜物」とは主から与えられた能力、持ち物、立場の全てを指します。特に聖書では、聖霊の賜物として教会の建て上げの為に、聖霊によって一人一人に与えられた能力を指すのです。私達の持っているものは、全て神の賜物という認識を持つべきです。

 「各々」とは、誰も賜物の無い人はいない、何かの賜物を主は与えておられる、ということです。つまり教会のすべての人が何らかの奉仕が出来るということです。

 「さまざま」とは、異なる賜物を指しています。つまり皆が同じではないということです。ですから、私はあの人のように素晴らしく歌を歌うことは出来ない、だから何もしない、ということではありません。私には別の賜物が与えられているのです。語る奉仕、仕える奉仕、教える奉仕、病の方々を訪問し、励ます奉仕、・・、さまざまな奉仕があります。

 賜物は、神様が各々に与えてくれたものです。ですから、感謝して、誇りに思って、十分に活用することが大切ではないでしょうか。

A管理者として

 また、ペテロは、「管理者として」と付け加えています。管理者とは、預かったものを大切に保管し、活用することが出来るマネージャ−のようなものです。私達は賜物の管理者としてそれをどの様に使ったかについて報告義務があり、責任を問われる立場にあります。

 マタイ伝25章のタラントの例えにあるように、賜物は死蔵してはならないのです。神様は、私たちが天国へ行く時、与えられた賜物をどのくらい活用したかを問われることでしょう。私たちは、最大限の活用を目指すべきなのです。

B互いの益の為に

 私達のすべての能力は、互いに仕えることに用いるべきです。私達がキリストの体と呼ばれているのは、異なる肢が互いに仕え合って一つの有機体を動かすからです。もしこの肢たる自覚を失ったら、教会は教会でなくなってしまうのです。

C神の力で

4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

 語る者は神の言葉を語るにふさわしい威厳のある態度と内容と心構えをもって語るべきとペテロは言っています。受けても受けなくてもよい勧めではなく、受けねばならぬものとの力が込められているのが神の言葉でなのです。

 またペテロは、奉仕は、自分の力ではなく、神の力によってのみが可能と言っています。。自分の力で奉仕をするのではありません。

 今年の総会(1月23日)でどのような持ち場・立場を与えられようとも、このへりくだりのスピリットをもって主に仕えたいものです。

D神の栄光の為

 こうした奉仕の行為が自分の力ではなく、その背後にある神の力によって実行されることによって、人々は私達の偉大さではなく、その愛の行為をなさしめた神を誉めたたえるのです。私はこれだけやったんだ、とか、自分の名前が主都中央教会70周年記念誌に載るためではありません。それはどうでも良いことなのです。

 それよりも、こんな無力な人間を通して神が大きな業を為して下さった、あんな自己中心で我利我利亡者だった人間が、何と麗しい愛の行いをしているだろう、といった評判によって神が崇められることが私達の願いなのです。

 今年、色々な奉仕が発表されたり、皆様にお願いがあるかも知れませんが、どうぞ、主の御体である教会のために、神の栄光が現れるために、労していただきたいと心から願う者です。


終りに

 終わりに、ペテロはどういう気持ちでこの手紙を書いたことでしょう。私の得た結論は、イエス様がどんな風に彼(ペテロ)にしてくれたかということをイメージしてこの手紙を書いたのではないか、と思うのです。この手紙が書かれたのは、紀元64、5年です。イエス様が十字架に架かられたのは、紀元30年です。34、5年たっているわけです。

 彼が「互いに愛し合いなさい」「互いに仕え合いなさい」と言った時、何を考えていたことでしょう。私は、あのヨハネ伝の13章の出来事を心の中に描きながら、この手紙を書いていたのではないかと思うのです。

 ヨハネ伝の13章を開いて下さい。

ヨハネ 13:1 さて、過超しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された

 主イエスさまが十字架にかかる前の日に、「最後まで」愛された、と書いてあります。「最後まで」とは、「とことんまで」、「最後の瞬間まで」、「愛するに値しない人間を含めて最後まで」の3つの解釈がありますが、私は、3つとも当っていると思います。イエス様は、ユダをも最後まで愛されました。自分が十字架にかかるというそのことで精一杯であったはずなのに、他の人のことまで考えていたのです。

 その後、順番に弟子たちの足を洗われたのです。そしてぺテロの処に来たのです。「主よ。あなたが私の足を洗って下さるのですか。」「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」この出来事というのは30数年たっても忘れられない出来事だったのではないかと思うのです。

 イエス様がどんなに人々を愛していたか、どんなに仕えるものの姿勢をとりなさったか、そして、14節でこう言われたのです。

ヨハネ 13:14 あなたがたもまた互いに足を洗うべきです。

 すばらしいことだと思います。

ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ 13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 私たちが伝道というものを考えるときに、色々な方法、戦略を考えることですが、このみことばには、それ以上のことが含まれているように思います。

 教会にこのような愛がある時、人々は私たちの中に神の恵みを認め、そして引き寄せられて行く。私たちが願っておりますのは、このギスギスとした世の中、自分のことしか考えない愛の乏しい時代に、教会に行ってごらんなさい、あそこにはほんとうの意味で愛し合っている兄弟姉妹がいる、私もあの仲間に加えてもらいたものだ。これがほんとうの伝道ではないでしょうか。

 最後にもう1度、4章10、11節をご一緒にお読みしましょう。

4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

 お祈り致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.1.17