礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年1月23日

教会について (3)

「教会の原型(プロトタイプ)」

竿代 照夫 牧師

使徒の働き2章37〜47節

中心聖句

42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

(2章42節)

アウトライン:

 教会総会の朝、使徒の働き2章から、教会の原型(プロトタイプ)について考える。

 始めの教会について、「教会の構成メンバーがどのような人たちだったか」また「教会とは何をするところか」を見てみる。

 そこで見られるのは、彼らは、教えと交わりと聖餐と祈りに堅く継続していたということである。

 戦略的な方法というより、むしろ、この基本的なことを地道に継続することが、力となり、魅力となり、多くの人を吸収し、救いに導く結果に至ったのである。

教訓:基本(教え・交わり・聖餐・祈り)を継続することの大切さ


導入

 教会総会の朝、教会について引き続き考えたいと思います。昨週は「キリストの体」としての教会という視点から第1ペテロ4章を見ました。そこで勧められているのは、愛し合う群れ、仕え合う群れということでした。

 今日は「教会の原型(プロトタイプ)」、よせばいいのに英語で「プロトタイプ」と書かせていただきました。ご勘弁下さい。当たり前のことを書きますと目が覚めない感じが致します。ちょっとひねると、何か新しいことがあるのかな、なんて思っていただけると思うのです。

 難しいことはありませんけれども、教会というのは、時代と共に形を変えていきます。時代に効果的に働きをし、必要に合ったところの形を持たなければ、その時代に対するメッセージを持たない訳であります。私たちが21世紀に向かっている教会として、それにふさわしいメッセージを持ち、それにふさわしい体制を敷くことは大切です。しかし同時に、それがもともと、どのような形であったかを忘れてしまっては、実体のないものになってしまいます。

 今日はもう一歩原点に立戻って、教会の始めの姿を見て見たいと思っております。

 私たちがどこに教会の原型を求めるべきかと言いますと、一番最初に始まった使徒行伝の教会であります。

 今日は、この使徒の働き2章37〜47節において、2つのことを考えたいと思います。1つは、「その教会の構成メンバーはどういう人たちであったか」ということと、もう1つは、「教会とは何をするところか」、ということです。


T.教会の構成員(教会の構成メンバーはどういう人たちであったか)

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。」そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

@心を刺された人々

 37節に「人々はこれを聞いて心を刺され」と書いてあります。教会の構成メンバーの第1は、「心を刺された者たちの集まり」ということです。

 ここにいる人たちがどうして心を刺されたかといいますと、36節を見ればわかります。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

 イエス様が十字架につけられましてから、約50日後に、この36節のメッセージが語られたわけですけれども、このメッセージを聞いた人の多くは、慈愛に満ちた主イエス様を「十字架につけよ!」と叫んだその人々でありました。彼らの脳裏には、十字架にかけられたイエス様の姿がまだ生々しく残っていたのです。その主イエス様が甦って救い主となられました。

 「あなたがたが十字架につけた」という事実と「その主イエスが甦って救い主となられた」という事実は、彼らの大きな過ちを愕然と悟らすのに充分でありました。

 現代の私たちは、特に主イエス様をこの手で直接十字架につけた訳ではありません。しかし私たちの一つ一つの罪がイエス様の苦しみを増したということは、二千年前の方々と同じように覚えなければなりません。ですから「心を刺される」という経験は、この人たちの経験だけでなく、私たちの経験でなければなりません。私たちもこの人たちと同じ申し訳なさを持つべきであると思うのです。

A悔い改めた人々

 自分の過ちに気が付いた時がUターンの始まりであります。ペテロは「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と彼らから質問を受けた時「悔い改めなさい」(38節)と言ったのです。彼らはペテロの「悔い改めなさい」の言葉に応じて、悔い改めました。

 悔い改めとはUターン(方向転換)です。どこからでしょうか。罪すなわち、自己中心と、神への反逆から方向転換することです。「曲がった世」とその風潮に対してNOという立場を明確にすることです。40節でペテロは、「この曲がった時代から救われなさい。」と言っております。

B信じてバプテスマを受け人々

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。

 そして、悔い改めた時、信じてバプテスマを受けました。このペンテコステの日に、3千人の人がバプテスマを受けたのです。

 バプテスマとは、イエス・キリストと共に過去の生涯について死んだことを自分で認めること、そして、キリストが甦ったように、新しい人生に甦ることを信仰をもって受け入れることです。バプテスマの背後には信仰があるのです。

C聖霊を受けた人々

 イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた結果、どうなるでしょうか。ペテロは言っています。「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(39節)と。キリストを信じた者全てには聖霊が宿っています。

ガラテヤ3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。


U.教会の営み(教会とは何をするところか)

 私たちが悔い改めと信仰に確立した時には、御霊が働いて下さっておるのです。そのお方に従って歩み続けている時に、御霊の実を結ぶことが出来、成長が許されるのです。ここにその成長を助けるいくつかの教会の営みが記されています。

2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 この42節のみことばに、4つの営みが記されております。ここで、「堅く守り」は、「教え」を「堅く守り」となっていますが、この文章を丁寧に何度も読んでみますと、そうではなくて、「教え」と「交わり」と「パンを裂く営み」と「祈り」とに「堅く継続していた」となるのです。すなわち、この4つの営みを「堅く守り」となるのです。

@教え

 42節に「彼らは使徒たちの教えを堅く守り」とあります。当時の彼らは、このような1冊にまとまった聖書を持っていませんでした。使徒たちから教えてもらう他はなかったのです。彼らは毎日のように集まっては、ペテロ、ヨハネ、ヤコブといった使徒たちの語る主イエス様のお話に真剣に耳を傾け、十字架の物語を聞いたのです。

 ところで、現代の私たちは、このように聖書を持っています。私たちは聖書のみことばから神様の御心を知り、それに従った歩みをしなければなりません

A交わり(コイノーニア)

 もう1つの営みは「交わり(コイノーニア)」です。これは、「共有する(コイノス)」から来ています。「同じ目的を共有している」「同じ御霊を共有している」「同じ救い主を共有している」、そのことの故に与えられるところの交わりであります。自然と発生して来るところの交わりです。

 所有物、喜びや悲しみを共有する本当の交わりです。神様の家族としての雰囲気なのです。単なる社交的なおつき合いでない家族としての交わりが、教会には存在するのです。主イエス様も「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3章35節)と語られました。同じ価値観、同じゴールを共有している者同士が持つ連帯観、それが交わりでなのです。

Bパンを裂く行為(聖餐)

 42節「パンを裂き」は、単にパンを裂くことを言っているのではありません。最後の晩餐の夜に主イエス様が、これを行って「私のことを覚えない」と言った、あのことを彼らは昨日の出来事のように思い出しながらパンを裂いていたのです。彼等はこの聖餐の儀式を毎週日曜日に行っていたのです。使徒20章7節に「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とある通りです。

 パンを裂く行為(聖餐)は、私たちの時代にはかなり儀式化されたものとして伝わって来てはいます。しかし、その原始的な意義を覚えて、イエス様のことを思い出しながら、喜びをもって「パンを裂く」群れとなりたいと思うのです。

C祈り

 第4は、「祈り」ということです。ここでは複数で書かれています。多くの祈り、たくさんの祈りということです。2つの意味があると思います。1つは多くの「種類」のお祈りをしていたということです。もう1つは多くの「回数」のお祈りをしていたということです。

 お祈りの種類とは何でしょうか。ただ「お願いする」ことだけがお祈りではありません。「神様、あれをして下さい」「病気を直して下さい」「受験に合格させて下さい」だけでは、神社仏閣で行われている絵馬とあまり変わらないではありませんか。しかし、私たちが教えられている祈りは、もっと種類の深いものです。感謝、賛美、神を崇める礼拝、私たちがいたらなかったことのための告白、他の人のためのとりなし、社会のために祈ることなど多くの種類が含まれています。

 また彼らは毎日決まった時間に神殿においてお祈りを捧げていました。儀式的な神殿でのお祈りの時間と共に、信徒間での自発的な祈り会が持たれていた雰囲気も伺えます。使徒12章5節を見ると「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」という祈り会が自発的になされていた様子が伺えます。

 このあとの教会総会で、教勢の話がなされます。今から申し上げておきます。色々のことで激励はされますが、祈祷会の数だけは落胆させられます。減少傾向にあるということです。何とかこの年、祈祷会が盛り上がるように祈っております。いろいろな事情はあるでしょうが、月に一度でも出席出来るよう、どうかベストを尽くさせていただきましょう。

 どんなに時代は変わっても、神の営みは「祈り」から始まるというのは変わらない原型です。


終りに

 42節のことばをもう1度、ご一緒に読ませていただきたいと思います。

2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 竿代訳を述べさせていただきます。「そして、彼らは教えと交わりとパンを裂く営みと祈りにおいて堅くしっかりと継続をしていた。」

 ここで強調したい点は、「堅く継続をしていた」という点です。「継続は力なり」という言葉がありますけれども、私たちは派手な営みは出来ないかも知れません。けれどもどんなことをして人々を集めるかということにまさって、そこに集まった人たちが、地道ではありますが、教えを学び続けること、交わりを持ってお互い助け合うこと、パンを裂いてイエス様を崇めること、祈り合うこと、このベーシックな基礎的な営みをずっと継続していたところに彼らの力があり、魅力があり、人々は吸収されていったのだと思います。

 伝道の戦略については書いてありません。けれども、結果として「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(47節)のです。その前には、「すべての民に好意を持たれた。」(47節)とあります。

 私たちが生けるキリストを中心とした営みである時、ほんとうの意味において、私たちの心の中に御霊が働き、愛が生まれ、躍動してまいります。そのことを未信者は感じるのです。引き付けられるのです。そこに集まって来るのです。その営みを私たちのものとさせていただきたいと思います。

 締め括りに1つのエピソードをもって終わりたいと思います。

 イギリスに、ある貴族のきれいな芝生の庭がありました。観光の名所となっていました。そこにまだ歴史の浅い、しかし、お金持ちの国からのお客さんがやって来ました。そしてその庭を一生懸命に面倒を見ている庭師に向かって言いました。「この芝生は実にすばらしい、何か秘訣があるのですか?」庭師は答えました。「毎日、水をやって芝を刈るだけです。」

 彼はその答えに満足しませんで、チップが少し足りないのかなあ、と思って小銭を握らせました。「ほんとうのことを教えてくれ。どうしたら、こんなに芝生がきれいになるのか。」「さっき言ったとおりです。毎日、水をやって芝を刈るだけです。」彼はまだチップが足りないのかなあと思ってもう少し出しました。「ほんとうのことを教えてくれ。こんなに素晴らしい芝生だ。何か秘訣があるに違いない。」庭師は言いました。「旦那さん、毎日水をやって、芝を刈るだけです。それを300年繰り返すとこうなるのです。」

 お分かりですか。「それを300年繰り返すとこうなるのです。」ここに庭師の、歴史の浅いお金持ちの国から来た人に対する皮肉があったんですね。

 私たちが何でもないことに対する営み、当たり前のことでしょう。みことばを読むこと、お互い交わりをすること、お祈りすること、いつも言われています。それを、まじめに、ずっと継続するかしないかによって、結果が違ってまいります。どうぞそのような群れとして、主が祝福して下さることを、お祈りしようではありませんか。

 ご一緒にお祈り致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.1.24