礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年1月30日

「堅い金剛石のようにする」

井川 正一郎 牧師

エゼキエル書3章1〜21節

中心聖句

8見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。

(3章8節)

アウトライン:

「堅い金剛石のようにする」の意味は、
(1)強い意思と揺るぎない確信であり、
(2)前へ突き進む力・突破する力・やり遂げる力であり、
(3)また、輝きである。
また、このみことばは、後の時代で明かにされる栄光の輝きを約束されたみことばである。

適用
(1)お互いの霊的経験を確かなものとしよう。
(2)立ち上がって前に進もう。課題に真正面に取り組もう。

教訓:霊的経験を確かにし、課題に立ち向かう


導入

旧約聖書のエゼキエル書、3章8節と9節を読みます。

エゼキエル書3:8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。
9 
わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

きょうのメッセージの中心聖句は、この8,9節、堅い金剛石のようにしてくださるとのご約束であります。 金剛石はダイヤモンドのことであります。ことし、伝道のご奉仕において、家庭やお仕事などで多くの難しい問題にぶつかり、対処して行かねばならないとき、今日の聖言は非常な励まし・チャレンジとなると思います。

預言者エゼキエルは、バビロン捕囚のひとりとして早くからバビロンへつれて行かれ、彼地で捕囚の5年後に、30歳位で神の召命を受けたといわれています。エレミヤと同じころでありますが、エレミヤはユダで奉仕し、エゼキエルは遠くバビロンで奉仕していたわけです。

でこのエゼキエル書は難しいと思われています。最初から、4つの生き物、4つの顔、4つの翼、そして話が出てきて、目がまわり、そのうちぐるぐる回ってわからなくなります。

最初にバビロンへ引いて行かれたユダの民は、ユダに残っている人よりも信仰的に良いものをもっていましたが、それでも多くは鉄面皮で、頑固でいうことを聞かない民でした。

彼らはこの捕囚の悩みを経験することによって、徹底的に扱われる必要があったのですが、まだ心砕かれずとのところがあり、耳障りのよい預言は聞くが、耳の痛いメッセージには耳を貸さないという鉄面皮のところがありました。その民に向かって、特に見張り人としての役目を持って預言せよ、という重たい任務がありました。

見張り人とは、ウオッチ・マンであります。つまり、見張りところに立って、敵の攻撃をいち早く察知し、見つけ、それを後方の味方に知らせ、警戒を与え、備えを十分にせよと知らせる役目であります。

まさに、神の救いとさばきのメッセージを伝えようとするエゼキエルでありますが、それを、鉄面皮で、心も額も堅い民に対して、どのように語ればよいのか。そのとき、神様は、みことばをもって励ましを与えたもうたのでありましたそれは、「堅い金剛石のようにする」というのであります。ちなみに、見張り人の具体的な意味ですが、
■ 一番最初に察知する・気付く役目(霊的敏感さが必要)
■ 2番目に、人の生命に直接に関わる役目
■ そして3つ目に、常時果たされる必要がある役目

であります。


では、「堅い金剛石のようにする」とは、どのような意味があるか、ともうしますと、3つの意味があります。
(1) まず第一に、「強い意志と確信、揺るがない確信」であります。おそれることがないように、神が強めてくださるであり、強い、堅いという意味であります。そもそも、エゼキエルという名前の意味は「神が強めてくださる」であります。金剛石とはダイヤモンドのことでありますが、ダイヤモンドは岩よりも堅いといわれます。ダイヤモンドより堅いものありません。まさに、岩でもこれを砕くことができないのであります。
 
 最近のことですが、ある聖日礼拝が終了した後、ある方が私のところにやってきまして、「前、先生がダイヤモンドより堅いものはない、と話していましたね」と話しかけられてきましたが、「それは堅い心と確信を意味しますね」とお答えをした記憶があります。実は、この日のメッセージとなるとは話しませんでしたが、なにか、神の導きを感じました。
 
 
強い意思と何物にも揺り動かされない、不動の確信を与えて強めてくださる。だから、怖がることはない、ひるむこともない。立ち向かって行くという力を与えてくださる励まし・チャレンジにみちたみことばなのであります。

 で、このダイヤモンドのような堅い意思・確信を持つことができるのは、このような神の約束・保証からでありますが、私たち信仰者の側からでも、いわゆる霊的経験の確かさ・堅さから不動の確信が生まれてくるものでありまして、霊的経験とは、救い、きよめ、献身、私に与えられた召命(しょうめい)経験−神の道−をいいますが、それが何の心配もない、大丈夫なのであります。
 
 「この道でよい、この道こそ神の道、私の道・使命なのだ」という思いが、揺るがない意志、確信を生み出し、あなたを堅いダイヤモンドにするのであります。


(2) 第二番目に、それは「前に突き進む力、突破する力、やり遂げる力」を意味するのであります。

かたくなな民の額より堅いものとするのであります。彼らの額より堅いものとして、立ち向かい、突き進む力、神様のお仕事をやり遂げて行く力を意味するのであります。

少し前でしたか、ロシアの船が釧路沖で流氷の中に入って閉じ込められてしまい、SOSを海上保安庁に出したというニュースを聴きました。日本から氷を砕いて前に進む力を持っている巡視船が助けに行き、やっとの思いで流氷から逃れたということでありましたが、困難に直面するエゼキエルの相手は堅くて堅くて、カチカチの心であり、それを氷を砕くかのように突き進む力、やり遂げて行く力を与えると、神様は約束しておられます。

で、この8節・9節を読むたびに、不謹慎かもしれませんが、いつも、プロレスラーのグレート東郷とボボ・ブラジルを思い出します。

「何だ、それは」と思われる方がいらっしゃるでしょう。 戦後、まもなく生まれた団塊世代の男の子達は、ほとんどといってもいいくらい、野球とプロレスが好きです。

野球は長島(=長嶋茂雄・現巨人軍監督)、プロレスは力道山(=りきどうざん・日本のプロレスの創始者:1925−1963)、そしてジャイアント馬場(=アントニオ猪木と並ぶトップレスラー:1938−1999)が人気者でした。彼らは少年達にとってヒーローでありました。でも、主役だけでは、野球もプロレスも盛り上がりません。

脇役が必要なのであります。 プロレスでは,豊登(=とよのぼり)、吉村道明(=よしむらみちあき)、そして、グレート東郷などがいました。 悪役では、フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジルなどがいましたでしょうか。で、その東郷とボボ・ブラジルの得意技が頭突きでありました。

二人とも堅いのなんの。「ゴツン、ゴツン」と音が聞こえてきたくらいであります。その二人が戦ったのですが、どちらも倒れない。どっちの頭が堅いか、というくらいであります。

脱線してしまいましたが、この聖句では,エゼキエルが堅いというのであります。脱線のついでに、「矛盾(=むじゅん)」ということばをご存知でしょう。 その言葉の由来は、いままでどんなに堅いと思われる盾であっても、すべて砕くことのできる強い矛と、今まで一度も打ち破られてこない、絶対に打ち破られないほどの堅い盾とがぶつかり合ったらどうなるか、というのであります。

エゼキエルの堅さは,民に立ち向かえる堅さを持っています。突き進むことができるのであります。やり遂げようとする力が約束されているのであります。


(3) そして、第三番目に、それは「輝きを意味する」のであります。
ダイヤモンドの輝きは,他にはないものがあります。

エレミヤは堅固な青銅の城壁を意味しますが,エゼキエルは神の輝き・栄光を指し示し、エゼキエルがその栄光の輝きの証詞者・奉仕者であるということであります。

ところで、実は、ダイヤモンドはインドが原産地とのことでありますが、あのように特有の輝きが出るようになったのは17世紀からで。固有の屈折率を生かしながら、切削加工技術ができてからであります。といいましても、あまりに堅いので,面を平らに仕上げるだけなのでありますが、それでも輝きます。

ということは、エゼキエルの時代のダイヤモンドは輝いていないことになります。おかしいのではないか、となりますと、まさにおかしいのですが、ここで申し上げたいのは、このことばが、神のことばであるということであります。

神のことばは,時代を超えて、永遠に生きていることばであります。ダイヤモンドの輝きは、その当時はそんなに輝いていないかもしれませんが、宝石の一つには違いありませんし、そして、特に新約(=新約聖書)の時代、現代の光をあてて理解してよいのが、神のことばであります。後の時代になればなるほど、その言葉の意味が明らかにされることは多くあります。時がたてば立つほど、輝きが増してくるというのは、何か、人間のできあがるプロセスを見るようであります。

難しいことはともかくとして、「エゼキエルよ、あなたをダイヤモンドにしてあげる」というのであります。つまり,輝きの働き人・信仰者とするというのであります。

で、その輝きについて。あなたの額をダイヤモンドのようにするという点について、もうすこし考えてみたいのであります。輝かせてくれるのが、どうして、わざわざ「」なのか、という点であります。といいましても、別の意味にとってはいけませんが…。額を輝かせると言っていることには其れなりの意味がありまして、そもそも額に関するみことばをいくつか思い出します。

あの大祭司アロンがかぶる被り物の額の上につけるものは、"HOLINESS UNTOTHE LORD"であります(注:教会講壇の上に掲げられている)。

黙示録には、神のしもべたちに、その印が額に押されるとあります。また、同じ黙示録に、獣の名が刻まれるのも額に、とあります。あの"666"であります。神に逆らう獣の印であります。

また、申命記には、主の教えを額に刻み込めとあります。また、別のメッセージがふつふつと涌き出てくる思いがするのであります。

きょうは細かく学びませんが、「エゼキエルよ、あなたをダイヤモンドのように輝かせてあげる」というのは、一言で言えば、額という言葉から全体をあらわし、象徴するのであります。

もう少し分析すると、4つの意味があります。すなわち、
a) 所有・所属
b) 意思(支配・コントロール)
c) 性質・本質
d) はっきりさせる、明示する。あかし。

であります。

エゼキエルよ、あなたは神に所有・所属し、神の支配の中にあり、神の性質を持っている。そして、そのような神の栄光・輝きを明らかにする。あなたの存在をそのものが神のダイヤモンドの輝きとなる。その輝きをもってはじめて、その堅さ・突き進む力などが生かされていく」ということであります。

わたしはあなたを堅い金剛石のようにする」−誰にも打ち負けない強さ、力、堅さを与えるとの幸いな約束であります。と同時に、それはそのときは誰も気付かないかもしれませんが、後の時代でさらに明かにされてくる栄光の輝きをも約束されているみことばなのであります。


さあ、メッセージがはっきりして参りました。

このメッセージを実際の生活に具体的に度のように当てはめればよいか、箇条書き的に二つだけ取り上げます。

まず、お互いの霊的経験を確かなものにしよう、ということであります。

救い、きよめ、私たちの進むべき道はどうか。献身、召しがたしかなものであるかどうか、それを不動のものとさせていただきたいのであります。グラグラしないものとなるとき、堅いダイヤモンドのような確信がうまれ、神の保証もあるのであります。

もう一つは、立ちあがって前に進もう、課題に真正面から取り組もう、ということであります。

ダイヤモンドは、逃げたり、隠していたら.宝の持ち腐れになります。明らかにし、身をあらわすから価値があるのであります。立ちあがって前に進む、はじめの一歩を踏み出したいものです。そのとき、神はダイヤモンドとして私たちを形作り、用いてくださいます。恐れず、めげず、何回失敗しても、何度尻込みしても、また立ち上がって進もうではありませんか。

勇気を持とうではありませんか。

「堅い金剛石のようにする」、これがきょうのメッセージです。ごいっしょにお祈りいたしましょう。


Editied and written by K..Ootuka on 2000.2.4