礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年2月6日

ガラテヤ書連講(1)

「曲げてはならない『福音』」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ人への手紙1章1-10節

中心聖句

1:4キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

(1章4節)

アウトライン:

ガラテヤ書の冒頭でパウロは、自分に福音が示されて使徒となったのは、人間によるものではなく、復活したイエス・キリスト自身によるものだと述べている。

 その福音の内容とは、イエス・キリストが十字架の死によって私達を罪の世界から救い出して下さり、またそのことを証明するために三日後に復活されたという事実を単純に信じる信仰によってのみ、私達は救われるということである。

 しかし、ガラテヤの諸教会に入り込んだ律法主義者達は、この福音の原理を勝手に曲げて、救われるためには律法を遵守することも必要だと説いたが、そのように福音に別な要素を勝手に付け加えることは誤りであり決して許されるべきことではないと、パウロは厳しく批判して、ガラテヤの人々が福音の真理に立ち返ることを祈り求めている。

教訓:福音の本質は単純な信仰のみが救いをもたらすこと


導入

 年末年始の諸行事を終えて、これからは通常の営みに入って行きます。年末年始の諸行事が特別なごちそうだとすると、通常の営みはふだんの食事にあたります。日本人が健康な理由は、ごはんと味噌汁を中心とした栄養的に優れた日常の食事をしっかりと食べているからだと言われております。それほど常食というのは大切なものです。

 本日から聖書の中の一つの書簡を対象とした
連続講解を再開致します。昨年は第1コリントの連講を行いましたので、次は第2コリントかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、今年は「ガラテヤ人への手紙」(ガラテヤ書)を取り上げたいと思います。その理由は、ガラテヤ書が福音の真髄を恵み深く説いていて、今日の教会にも役に立つ非常に大切なメッセージが含まれていると感じられたからであります。

 第一回目の本日は、前半にガラテヤ書の概要(別紙プリント・PDFファイル参照)について述べた後、序論にあたる1章の1節から10節までを読み進めたいと思います。


A.ガラテヤ書の概要

 まずは、ガラテヤ書1章の1節と2節をご一緒にお読み致しましょう。

1:1 使徒となったパウロ−私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者のからよみがえらせた父なる神によったのです。
1:2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。


本書は手紙(ガラテヤ人への手紙)ですので、差出人と宛先があります。

1.差出人

 差出人は「
使徒パウロ」です。「および私とともにいるすべての兄弟たちから」となっておりますが、実質的にはパウロ一人の手紙であると言ってよいでしょう。

2.宛先

 宛先は「
ガラテヤの諸教会」となっております。諸教会ですので、ひとつではなくいくつかの教会が対象となっています。

 
ガラテヤとはどこでしょうか?現在のトルコ半島中程のかなり広い地域がガラテヤ地方と呼ばれていました。そこにはイギリスの原住民であるケルト人が移住してきて特色ある地方を形成しておりました。

 本書で取り上げられているガラテヤの諸教会の位置については、次の2つの説があります。

南説:ローマ帝国の行政区としてのガラテヤ(トルコ半島の南部)で、パウロが第一次伝道旅行で開拓した、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベの諸教会を指すという説。これによれば著作年代はAD48年または49年となる。

北説:本来のガラテヤ地方(トルコ半島の北部)でパウロが第二次伝道旅行で立ち寄り、第三次伝道旅行でも安問した教会を指すという説。これによれば著作年代はAD56年となる。

 ガラテヤ書では、ユダヤ教の儀式であった「
割礼」が大事な問題とし取り上げられております。本書におけるパウロの激烈な調子からも、異邦人に対する割礼に関する議論がなされたAD48年のエルサレム会議の前後に執筆されたと考えるのが自然だと思われますので、私は南説を取りたいと思います。


3.動機

 パウロが本書を書いた動機は、パウロの伝道後に入り込んできた
律法主義的な教師の影響でガラテヤの教会が福音の本質からずれてしまった事にあります。

 彼らは
ユダヤ教の律法儀式である割礼は救いのために不可欠なものと説き、異邦人もまずユダヤ教に改宗すべきであると説きました。パウロはこの教えは福音の本質を歪めるものであると見抜き、福音の真理を明らかにしようとしました。また、同時に律法主義的な教師達によっておとしめられた彼自身の使徒としての権威をも証ししようとしたのです。

4.テーマ

 本書のテーマは「
福音の真理」であります。そのことは、2章の5節に書いてあります。

2:5 私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

 ガラテヤ書の概要の説明はこのぐらいにして、次に本日の聖書の箇所である1章の1節から10節までを順に見て行きましょう。



.曲げてはならない「福音」

 先程お読みした1章の1節でパウロは「
私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」と、自分に与えられた福音と使徒としての立場は、人間的な細工による地位ではなく、神に与えられたものだと宣言しております。

 普通の手紙と違って、冒頭からいきなり本題に入っているわけです。普通の手紙では、「拝啓 梅の花もほころび、...」と時候の挨拶から入ったり、「お元気ですか?」、「いかがお過ごしですか?」と相手を気づかう言葉を並べたりするでしょう。他のパウロの手紙はそういう調子で、ゆっくりとした挨拶から順に入っていくのですが、この手紙はよほど急いで、どうしても書かなければならない状況で書かれたものと思われます。

 といいますのは、パウロのあとにガラテヤの諸教会に入ったユダヤ主義的な人達は、彼らの教えを正当化するために、「
パウロは亜流の指導者で、始めから使徒であったペテロやヨハネの様なキリストと一緒に生活した直弟子ではない。彼の言うことを、全て信用することはできない。」と説いて異なる教えを広めようとしていたのです。

 これに対してパウロは、
自分はキリストの直弟子である使徒であり、しかもそれは人間によって与えられたものではないと宣言しているのです。



1.その由来


1)
人に出所を置かず   (from)
人を通して伝達されず (through)
人の真似をせず    (according to)


 ここでパウロは、「
〜にあらず。」という言葉を3つならべて、自分に対する福音は人によって示されたものではないと述べております。

 1章1節の2行目の「人間から出たことでなく」の「人間」は原語では複数形になっております。これは、彼が伝道旅行に出発する際に按手を授けたアンテオケ教会の長老達を指していると考えられますが、彼の出所はその長老達では無くて神様ご自身であると言おうとしています。

 3行目の「また人間の手を通したことでもなく」の「人間」は原語では単数形になっており、おそらく彼が一番最初に手を置いて祈ってもらったアナニヤをさしていると思われますが、彼によって伝えられたものでも無いと述べています。

 さらに、本日の箇所に続く1章11節では「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。」と述べられておりますが、この「...による」は英語ではaccording to 〜に相当し、誰かの真似をしてしゃべった福音でもないことを示しております。

2)
復活の主イエス・キリストから与えられた

 使徒となる前のパウロがキリスト教を迫害するためにエルサレムからダマスコにのぼった際に、復活のイエス・キリストに出会って、直接キリストから福音を示されて使徒となったのだとパウロは主張しています。



2.その内容

 「福音」とは「良い訪れ」、”good news”ですが、その内容は1章の4節に示されております。

1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

 その内容を絵にしてみると、このようになります。

 悪の世界をさまよっていた私達を、ちょうど親猫が子猫の首をくわえるようにつまんで永遠の生命の世界に移し変えてくださるのが、キリストの十字架の救いです。

 
イエス・キリストはそのために、十字架の上で私達人間の全ての罪を一身に背負って、私達の身代わりとなって刑罰を受けてその罪を帳消しにして下さり偽り、貪欲、疑い、悲惨、残酷さが満ちている悪の世界から、聖き世界、永遠の生命を持つことのできる世界私達を移して下さったことこそが福音なのです

 
私達に要求されているのは、そのことを単純に信じる「信仰」だけであって、それ以外の何物も付け加えてはいけないのです。

エペソ人への手紙2章の1節から9節にはそのことが詳しく記されています。

「2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。−
2:6
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 ここには、悪の世界について詳しく表現されています。「罪の中に死ぬ」とは神との断絶を表しています。「肉欲のまま」、「ほかの人たちと同じように」は神が生きて働かない人達の行動原理です。その結果は「御怒りを受けるべき」とありますように神による刑罰を受けるに値するものであると述べられております。

 私が若い頃「あなたが兄弟を憎んだなら、それはその人らを殺したのと同じことだ。」ということが聖書に書かれているのを知って大きな衝撃を受けました。

 本来ならそのような大きな罪に対する刑罰を受けなければならない私達が救われるためには、神の大きな愛と恵み、それはイエス・キリストの十字架の死と復活によって示されたもので、神が用意してくださったものですが、それに加えて、そのことを単純に信じる信仰、それも他の人や神様が代わりに信じてくれるのではなくて、自分自身の信仰が必要なのです。

 私は大学時代に葉山の海で泳いでいたときにおぼれかけたことがあります。自分では一応泳げるつもりだったのですが、ボートから飛び込んで自分が足の立たない深いところにいると意識したとたんに自身が無くなって、あたふたとして浮いたり沈んだりの状態になりました。それに気がついた友人がボートからオールを投げ込み、私はそれにつかまって助かりました。友人の投げたオールは神の恵みに相当し、それにつかまるのは私達の信仰に相当するのだと思います。その2つがマッチしたときに私達は救われるのです。

 良い事を積み重ねて救われるだけの力や気高さを自分は元々持っていないことを認め、神にすがる信仰によってのみ救われるのが福音の本質です。

 十字架につけられた強盗でさえも、イエスを信じると言った瞬間にその場で救われるのが福音です。

 1章の6節以降には、その福音の本質を歪める律法主義者達について述べられています。

1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」


3.それに対するユダヤ主義者の挑戦

 単純に信じる信仰だけでは不十分で、それに加えて
掟を守る努力も必要であると説くのがパウロの後にガラテヤの教会に入り込んだユダヤ主義者達の教えです。

 それはまことしやかな教えであり、人間に訴える教えです。日本の宗教風土でも、同じように滝に打たれて厳しい修行を積むような努力が大切とされております。そのほうがいわゆる「やった感じ」がするでしょう。

 「信じれば救われる」というのでは単純すぎて拍子抜けするかもしれません。そのすきをついてきたのが、律法主義者達だったのです。



4.ガラテヤ教会の変心

 ガラテヤの人達は律法主義者達の教えによって、福音の本質からずれてしまいました。その彼らについて、パウロは「移って行く」というやさしい言葉で表現しています。つまり、既に堕落してしまって救いようが無いとは言わずに、まだ移っていく途中であって、福音の本質に立ち返る望みがまだあるという表現をしています。



5.パウロの応答;福音に何かを付け加えることは福音を台無しにする。

 パウロは律法主義者達のように
福音に他のものを付け加えることは、福音を台無しにすることだとの考えを示しています。

 1章の7節、8節、9節でパウロは、そのような違う教えを述べる人達は呪われるべきであると、強い調子で批判しております。

 「呪われるべき」という暗い言葉が繰り返されて本日の箇所は終わっていますが、何か慰めになるものは無いのでしょうか?

 実は3節に、「1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とあります。

 パウロは意図的に福音をかき乱す人達には容赦無い批判を行っていますが、そこからガラテヤの教会の人々が福音の真理に立ち返ることを本当に心から祈っているのです。


終わりに

 それではしめくくりましょう。

 私達は、ただ信ずることによってのみ救われるという福音の原理原則をしっかりと自分のものとして、今週一週間その信仰に立って歩み続けたいと思います。

 しかし、私は全く努力をしないで良いといっているのではありません。そうではなくて、信じるときに、自然に努力する力も与えられるのです。

 学校の試験に臨んでは、捩り鉢巻をしてただ頑張るのではなくて、「主よ、私は弱いものですが、ベストを尽くす事ができるよう、必要な力をお与え下さい。」といって祈りましょう。

 また、聖書を読むことやお祈りすることに関しても、それが義務なのではなくて、それなくしては正しく生きられない力無い者であることを認め、神の導きを求めているからこそ、自然に熱心に聖書を読み、祈るのです。

 また、私達は人に批判されたときにも、自分の愚かさを素直に認め、その批判を謙虚に受け止められるなら、何があっても負けないでしょう。

 単純な信仰に立って、この週主と伴に歩もうではありませんか。

 ご一緒にお祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.02.08