礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年2月27日

「なぜ、顔を伏せているのか」

井川 正一郎 牧師

創世記4章1-16節

中心聖句

4:6そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」

(4章6節)

アウトライン:

本日は創世記のカインとアベルの兄弟の物語を取り上げる。
 あるとき兄弟はそれぞれに神へのささげ物をしたが、神はカインのささげ物にだけは目を留めようとしなかった。そして、そのことを恨んだカインは弟アベルを殺してしまう。

 ここで注目したいのは、ささげ物が受け入れられなかったときにカインは「ひどく怒って顔を伏せた。」という点である。本日は1)何故彼は顔を伏せたのか、2)彼のささげ物は何故受け入れられなかったのか、3) 顔を伏せるとはどういう意味を持つのか、4)顔を伏せないようにするために心掛けることは何かなどについて考えたい。

 現代の職場や家庭においても、自分が良かれと思って一生懸命やったことが相手に受け入れられないことが往々にしてある。そのようなときに、カインのように怒って顔を伏せてしまったのではいつまでたっても相手に、そして神に受け入れられることは無い。

 受け入れられなくとも、起こって顔を伏せるのではなく、自分の行為が自己満足では無くて本当に相手の望むことであったのか、再度考え直そう。

 そして、顔を上げて主を仰ぎ、神は本当に必要なときには必要十分な助けを与えてくださる方であることを信じて、たとえどんなに辛くとも顔を上げて進もうではないか。

教訓:受け入れられなくても顔を伏せない


導入

まずは本日の聖書の箇所(創世記4章1〜16節)の中から、4章の3節から6節をお読み致しましょう。

4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。


 本日の箇所はカインとアベルの兄弟の物語です。この物語は「
エデンの東」の映画や、そのものずばり「カインとアベル」というタイトルのドラマになったりしてよく知られておりますが、その中では兄弟の違い、衝突、心の葛藤等のテーマが重たく扱われております。

 この話は人間が罪を犯して後、それが
夫婦、親子、兄弟の問題に広がり複雑化していく記事であり、また最初のささげ物と最初の殺人が行われた箇所でもあります。

 ここで、カインは自分の用意したささげ物は神に受け入れられず、弟アベルのささげ物は受け入れられたのを恨んで、弟を殺してしまいました。本日特に注目したいのは、カインがささげ物を受け入れられなかったときに、「
ひどく怒り、顔を伏せた」という点です。顔を伏せたカインに神は、「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」と問い掛けられました。「なぜ、顔を伏せているのか。」−これが本日のメッセージの中心です。




 本日はこのことに関して、次の4つの観点からお話したい考えております。

(1)なぜ、カインは顔を伏せたのか。その理由は何か。
(2)なぜ、カインのささげ物は受け入れられなかったのか。その理由は何か。
(3)顔を伏せるとは、いったいどういう意味を持っているのか。
(4)それでは、顔を伏せないようにするために心掛けることは何か。



(1)顔を伏せた理由

顔を伏せた理由として次の2つが考えられます。

1)受け入れてくれなかったから
2)憤ったから

1)受け入れてくれなかったから

5節に、「
カインとそのささげ物には目を留められなかった。」とあります。受け入れてもらえなかったから顔を伏せたのですが、これには次の2つの面があります。

ひとつには、自分なりに賜物をいかして一生懸命にやったにもかかわらず受け入れてもらえなかったということです。チャランポランにやって受け入れられなかったのなら文句は言えないでしょうが、彼は彼なりに一生懸命働き、汗水流して長い時間労苦を重ねて土を耕した結実を神のところに持って行ったのです。それなのに、「
目を留められなかった。」とありますように、関心も払われなかったので、カインは憤り、顔を伏せたのです。

 もうひとつの面は、自分なりに最高と思ったものをささげたのに受け入れてもらえなかったからであります。彼は、自分の得意な分野で、最も気に入っている方法でささげたのにと思っていました。土を耕すものとして、土から出た産物をささげるのは、最も普通で常識的なことです。与えられたと確信している賜物を生かしたつもりなのに、
何故神は受け入れてくれないのかと憤り、顔を伏せたのです。

2)憤ったから

 5節に「
ひどく怒り、顔を伏せた。」とありますように、怒りがこみ上げてきたから、腹が立ったからカインは顔を伏せたのです。

 腹が立ったときに人はどのように反応するでしょうか? 次の3つのタイプが考えられます。

a. 相手にかみつく
 感情をあらわにして反応する場合です。

b. 心の中で煮え繰り返っている
 反論したりできる相手ではなさそうなので、心の中で煮え繰り返っているだけでだまりこんでしまい、いつかチャンスがあったら復讐してやろうと恨みを持っている場合です。

 親が子供を叱ったときの反応で、最もやっかいなのは、何を言ってもじっと顔と体をこわばらせて黙り込んで陰湿な雰囲気になってしまう場合ではないでしょうか。

c.じっとがまんの子
 時間が解決すると思って、ガマンする場合です。

 カインは上のb.でした。心の中で納得せず、煮え繰り返っておりました。その
恨みは神にではなく、弟アベルに向けられたのでした。

 
憤りはしばしば本当に向けられなければならない相手ではなくて、自分に近いもの、自分より弱いものに向けられるものです。自分の夫や(夫が弱いかどうかは知りませんが)、妻や子供が不満のはけ口になること(domestic violence)が往々にしてあります。

 自分のものさしで正当か不当かと判断しているときに怒りは生じるものです。カインは自分なりに満足できる形で一生懸命やったのに、何故だと憤っているのです。


<良かれと思ってやったことが受け入れられない場合について>

 カインは実はその動機と行いに問題があったので受け入れられなかったのですが、ここで少し脱線して、
私達信仰者として良い心と動機を持ってやったことでも、相手に受け入れられない、理解されない場合がしばしばあるということについて私自身の体験も交えてお話ししておきたいと思います。

 聖書の中にもそのような経験を味わった人が少なくとも2人記されています。それは、
神様とモーセです。

 神は罪を犯し続けるイスラエルの民に対して、何度も預言者を遣わして悔い改めるようメッセージを語らえましたが、そのたびに裏切られました。そしてついには御子イエス・キリストを遣わされたのですが、人々はなお神を拒み続け、イエスを十字架につけてしまったのです。

 また、モーセの場合は奴隷であるイスラエルの仲間が乱暴されているのを見て、それを助けるためにエジプト人を倒したにもかかわらず、彼がイスラエルのために立ち上がろうとしたときに、当然理解してくれると思った同胞達に理解されなかったのです。そのことは、新約聖書「使徒の働き」の7章23〜25節に記されております。

7:23 四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。
7:24
そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。
7:25
彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 このようなことは過去に限らず、現在の私達が職場や家庭においてしばしば直面する課題です。その中で特に、現在多くの人が抱えている
老人介護の問題は私達に大きな課題をつきつけるものとなっています。

 実を言いますと私自身も同じような課題に直面しています。祈祷会でもお証し致しましたが、私の母は長い入院生活の後、いわゆる「
まだらぼけ」と呼ばれる痴呆症になりました。

 4分の3はボケていますが、あとの4分の1はまとも。始末に悪いのは自分がボケているという自覚症状が無いことです。一番大変だったのはこちらが善かれと思ってやったことをなかなか理解してくれなかったことです。

 
「まだらぼけ」の老人をどう介護していくかを、医者と相談しつつ必死に取り組んでおりますが、その中で一般論として注意すべきことを6つ程言われておりましたので、ご参考までにご紹介致します。

a. まだらぼけであっても自分の我があり、いろいろと自己主張するので、それに上手く対処すること。
b. 遠くにいる親族の理解を得ること。特に女の兄弟の理解を得ること。
 遠くにいて長い間親と一緒に生活していない親族は、親がボケていることをなかなか信じがたいものであり、またボケている本人が一緒に暮らしている息子や嫁の悪口を遠くにいる親族に訴えることがあります。そのような時だけはなぜか正気になったように、時には涙を流して訴えるので、往々にして長男と嫁は何をしているのかと誤解されがちなものです。
c. 米をとぐことでも何でも、少しでも自分にできることは自分にやらせること。一緒にやらなければ思い出さないならば一緒にやること。
d. 内にこもらないように、できるだけ外に連れ出す事。外に出て知った人に会うと、家では見せたことも無いような愛想をふりまいたりするものです。また、緊張感を与える事も大切なことです。
e. 「私の大事にしていたものが無い。誰かが取っていった。」と言い出したら医者に相談すること
f. 「あとは
忍耐することです。腹が立ったり、がっかりすることが多いでしょうが、井川先生は牧師だから大丈夫ですよね。」と医者に言われましたが、心の中で「大丈夫じゃないかもよ。」と思ったものです。腹は立たなくともがっかりすることが多いです。これがあの気丈だった母かと思って悲しくなることがあります。


 今、テレビで「
おばあちゃま、壊れちゃったの!」というドラマがあるそうです。「まだらぼけ」になったおばあちゃまを巡っての、周囲の人の介護の問題とその労苦がテーマになっており、おばあちゃま役の役者の演技が真に迫って、身につまされ、顔をそむけたくなるということです。

 そのドラマの感想が新聞に掲載されておりましたが、その人の経験でも年をとってボケた自分の母親が、連日のように交番に出かけていっては、筆者と奥さんの「いじめ」について悪口をいうので、最初は交番のおまわりさんも同情して、「もっと親を大切にしたらどうかね。」となじられたそうです。やがて事情が判明して理解してもらったそうですが、後になれば笑い話ですまされますが、
そのときは深刻でつらい問題です。また、他人にとっては目をそむけたくなる出来事でも、当事者にとっては目をそむけられない現実の問題です。

 私の母は、
介護レベルの1か2で、まだ楽な段階であり、もっと大変な中を通っておられる方がおられることを存じております。祈り、忍耐を持って共に戦っていきたいものです。

 「
カインとアベル」の話が老人介護の話になってしまいましたが、私なりにはつながっているつもりです。

 聖書には「
その労の主にありて空しからぬを知ればなり」(第1コリント15:58)とありますが、そのような労苦も神が受け入れてくださるささげ物だと思って、がっかりはしても憤ってはなりません。顔を伏せてはなりません。

 そしてそれは、ぼけ老人だけでなく、まともと思われる人相手にも言えることなのです。神様は長い人生の中で、いろいろな困難をお与えになりますが、
そのたびに憤って、顔を伏せつづけていたのでは、神様は受け入れてはくれません

 4つのポイントがあるといっておきながら、最初の1つが長くなりましたが、後の3つは簡潔に述べたいと思います。


(2)受け入れられない理由

 カインは彼なりに一生懸命働き、自分なりに満足するものをささげたつもりなのに、何故神に受け入れられなかったのでしょうか。次にその
理由を考えてみたいと思います。

 一言で言えば、
神が願っておられる心と方法で無かったからです。自分の気に入ったやり方でそれを受け入れろと押しきせのようなところがあったから、また自分のプライドを満足させることが主目的となって神にささげる心・神を畏れる心が欠けていたからだと思われます。

 7節に「
あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」とありますが、実際には受け入れられなかったことからそのことが見て取れます。

 3節と4節にはカインとアベルのささげ方が記述されていますが、

4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。


 
アベルのささげ物は「初子」で、「最良のもの」で、「自分自身で」ささげられたものでした。

 ある聖書学者は
アベルのささげ物には血の犠牲が伴っているが、カインのそれには血の犠牲が無いのが神の願っている方法でない理由だと説明しています。

 難しいことは抜きにして、要は
カインはその心・動機・行いにおいて正しくなかったから受け入れられなかったのです。

 そもそも、神にささげ物をするという習慣はいつから始まったのでしょうか?註解書によりますと、この箇所は神にささげ物をささげた最初の記事であるとのことですが、いつから始まったかは書いてありません。アダムとエバが神の近くにいたときにはなかったのが、罪を犯して苦しい労働をして生活を維持するようになってから、神に赦しを請うために始まったと思われます。

 ここで言いたいのは、
ささげ物は習慣、義務、強制ではなくて、感謝と喜びをもって自発的にささげるものだということです。アベルについて「それも自分自身で」とあるのは、カインが他の人を通じてささげたということではないのでしょうが、アベルの自発性を強調する意味があるように思われます。

 教会における奉仕についても、カインのように自分の気に入ったもの、自分の得意なものだけささげてそれ以外はさけて通るのではなくて、
苦手なもの、つらいものであっても喜んでささげられるお互いでありたいものです。


(3)顔を伏せた意味

 カインは受け入れてもらえなかったときに憤り顔を伏せたのですが、
顔を伏せるとはどのような意味を持つのでしょうか。

 それは、
関係を断ち切ること、よい関係を失うことを意味します。ここでは、神との断絶を意味しています。

 9節で「
あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」との神の問いに対してカインは、「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。「私は知りません。」というのは罪の代表的な言葉です。

 そしてカインが顔を伏せたことは、世のさすらい人となる大きな刑罰をもたらしました。それに対してカインは「
それは私には重たすぎます。」「それでは弟アベルの子孫に殺されてしまうかも」と子供のように神にあわれみを請うています。神はそのようなカインであっても恵みを約束して、「そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」(15節)のです。


(4)顔を伏せないために心掛けることは何か

 顔を伏せないために必要なことは、主から与えられた
「一つのしるし」に気づくということです。その「一つのしるし」とはいったい何でしょうか?ひたいに刻印された印でしょうか。それともノアの箱舟で有名なノアに与えられた虹のような自然のしるしでしょうか。少し飛躍するようですが、聖書全体から見てそれはイエス・キリストの十字架を指していると考えられます。

 このしるしは
人を生かすために与えられたしるしです。その意味するところをもう少し分析すると次の3つの意味があると思われます。

1)殺させないためのもの
 生きる機会の保証、命の保証であって、その間に心を吟味して整え、神に立ちかえるチャンスが提供されたということです。

 7節に「
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」とありますが、罪は獣のようになたに食いつこうと狙っているけれども、あなたはそれに打ち勝つべきだと神はうながしております。たとえ世のさすらい人になっても、まだそのチャンスはあると言わんばかりの神であります。

2)顔を上げさせるもの
 神を仰がせるもの、主の十字架を仰がせるものです。神はそれを人間の自発的な意思にまかせて見ておられます。

3)折あるごとに主の必要十分な具体的な助けがあること、仰ぎ見るとそこにある助け
 家庭や職場での様々な試練や悩みに対して折あるごとに行き届いた神の具体的な助けがあるとのしるしでもあります。

 16節に「
それで、カインは、主の前から去って、」とありますが、残念ながらカインはチャンスが与えられたにもかかわらずそれを逃してしまい、新約聖書で「カインの道」といった表現をされる反面教師とされる人物となってしまいました。

 現代の私達には今なお神の豊かな恵みがそそがれており、「
一つのしるし」も与えられています。そのことを覚えて、たとえどんなに辛くとも忍耐をもって主を仰ぎ、顔を伏せないで、顔を上げて進もうではありませんか。

ご一緒にお祈りしましょう。

Edited and written by T. Maeda on 2000.03.01