礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年3月5日

ガラテヤ書連講 (4)

「福音の真理のために」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ人への手紙2章1〜10節

中心聖句

5私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

(2章5節)

アウトライン:

 AD46〜48年、パウロは伝道旅行を行ない、その結果、多くの異邦人(非ユダヤ人)クリスチャンが救われた。しかし、一部の人々から、異邦人が救われるためには割礼が必要である、との非難がなされた。

 そのため、パウロはこの重大な問題を使徒たちと話し合うため、エルサレムへ上ることになった。

 パウロは、そのエルサレム会議で、割礼の問題に関しては一歩たりとも譲歩しなかった。

 それは、イエス・キリストにあって私たちが持つ自由であるところの福音の真理が常に保たれるためであった。

教訓:イエス・キリストによってもたらされた自由、
福音の真理は決して失ってはならない


導入

 前回はどのようにしてパウロがキリストの弟子となったか、その後どうしたかの証しを学びました。

 ガラテヤ1章16、17節に記されている「キリストとの出会い」はパウロにとって、彼の物の考え方、生き方、聖書解釈、の180度転換を意味するものでした。彼は、彼の内に顕わされた主イエス様に対して直接にその意味を問い、出会いの意味を思い巡らすためにアラビヤに行ったのです。そして、約三年、一人になって神の前に思い巡らし、祈り、聖言を学びつつ、彼は福音の真理を追究したのです。

 その後、エルサレムの教会指導者達と接触しました。それは、彼らに顔を売ったり、お墨付きを貰ったりするためではなく、ペテロやヤコブという教会指導者と面識を得、また、在世中のイエス様についての生きた知識を吸収するためでした。

 次にパウロは、シリヤおよびキリキヤの地方で伝道し、諸教会を確立しました。それを聞き及んだエルサレムとその周辺の信者達は、かつて教会の迫害者であったパウロが、今はキリスト教信仰を宣べ伝えている、と聞いて神を崇めたのです。そこから、「神の栄光をあらわす」とは私達の存在の目的であり、「神の栄光をあらわす」のは私を通してであり、崇められるのは神であり、神だけである、ということを結論として学びました。


 今日は一歩進んで、エルサレム会議と呼ばれる大切な会議がテーマです。

 AD44年頃キリキヤのタルソからアンテオケの教会の奉仕に移ったパウロは、46〜48年、世界宣教の大切な第一歩を画する第一次伝道旅行を行いました。その直後にエルサレム会議に出席したのです。このエルサレム会議については、「使徒の働き」15章に詳しいので、まずそちらを参照したいと思います。


エルサレム会議前の出来事(「使徒の働き」から)

 伝道旅行から帰還したバルナバとパウロはアンテオケ教会に戻り、報告会を開きました。その中心点は「異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」でした。(使徒14:26〜28)

 すると、ユダヤ教を福音の前提と考える人々が、救われて喜んでいるアンテオケの非ユダヤ人クリスチャンに対して割礼の必要を説いたのです。その問題性は後に触れますが、福音の根幹に関わる大問題でした。そこでパウロとバルナバは「この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」訳です。(使徒15:1、2)

 エルサレム会議でも、アンテオケで起きたと同じ論争が始まりました。

使徒15:4〜6 パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである、と言った。そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。


エルサレムでのパウロの活動

 次にガラテヤ書に戻って、パウロがエルサレム会議についてどうとらえ、どう活動したかを見てみます。

@福音の真理の提示

2:2 それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

 「使徒の働き」からは、やむを得ずパウロは上京した、という印象を受けますが、ここでは「啓示による」、つまり神の積極的な促しと目的意識を持っての上京であることが分かります。

 その使命は、「福音の提示」でした。エルサレム教会の指導者達に何故「福音の提示」なのでしょうか。これは信者ばかりの集会で伝道説教をするようなものなのでしょうか。否。これは、福音の広さ、深さが、狭いエルサレム社会に生きている人々には充分把握されていなかったという背景を考えなければなりません。

 彼らは確かに救われたクリスチャンではあったのですが、人種的偏見から全く救われていたとは言い難いのです。私たちもしばしば髪の毛を金色や茶色に染め、こんな形になっている人を見掛けますが、もしこの礼拝の場に席を占めていたらどう思うでしょうか。彼らユダヤ人にとって、異邦人(非ユダヤ人)が割礼を受けることなしに、そのままの姿で救われるということは、なかなか理解できなかったのです。そこでパウロは、福音は世界のどの人々にも有効であり、彼らの心と生活を180度変える様な大きな力を持つことを、彼の宣教旅行の実績から示威したのです。

 誰に示威したのでしょうか。教会の中で主だったと思われる人々、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ達にこの真理を確認して貰う必要があったのです。エルサレム会議という公の会議に先立って非公式の接触を持ったことがここに伺われます。これは実に効果のある方法でした。

 そして、その究極的目的は、パウロの宣教活動の過去・現在・将来の結実が空しくならないためであったのです。この配慮は、自分の福音原理が否定されたら、働きは無に帰してしまうという恐れではなく、エルサレムの指導者達に、福音の真理をしっかり捉えて貰おうという決意の固さを表わす言葉なのです。

Aテトスへの割礼の拒絶

2:3〜6 しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と見られていた人たちからは、----彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。----そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

 割礼論争は、抽象的な神学論争として始まったのではなく、パウロに同行したテトスに割礼を施すべきか否かという具体的な問題から始まったらしいのです。後に第二次伝道旅行で救われたテモテは、ユダヤ・ギリシャの双方の血を引いていたので、パウロはユダヤ人として積極的に割礼をさせています(使徒16:3)。ここに元来彼は割礼反対主義者ではなかったことが分かるのです。しかし、両親ともギリシャ人のこのテトスへの割礼には、断固圧力を排除したのです。

 さて、テトスの割礼に無形の圧力をかけたのは「忍び込んだにせ兄弟たち」で、その目的は異邦人(非ユダヤ人)クリスチャンに律法のくびきを負わせることにあったのです。

 彼等の主張を認めることは、異邦人クリスチャン全体の割礼に道を開くことになる。そうなると異邦人伝道が非常に難しくなるという実際問題があるだけではなく、救われるのは信仰だけによるのだという、福音の福音たる基本真理が損なわれる恐れがありました。福音は単純なものなのです。何故ならキリストが完全な救いを十字架と復活を通して成し遂げたからなのです

 その福音は受け取るのに易しい、信じるだけで良いのからです。福音は誰にでも及びます。条件は簡単だからです。福音は人を変える力を持ちます。それは福音の中に神の力があるからです。

 異邦人の割礼を認め、異邦人に律法の厳格な遵守を強いることは、この福音の真理への重大な挑戦なのです。だからパウロは一歩たりとも譲歩しませんでした。福音の真理が「あなたがたの間で常に保たれる(変わらずに止まる=直訳)ため」でした。

 エルサレム教会の指導者たちも、パウロのこの真剣な態度を見て、彼のメッセージに何も付け加えようとはしなかったのです。いや、そんなことは出来なかった、とパウロはいっています。

B指導者達との了解

2:7〜10 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

 さて、パウロは、このように戦闘的な態度ばかりを取っていたのではなく、協力的な雰囲気の中でエルサレム指導者たちと大切な合意を勝ち取ったのです。

 ここに、パウロは無割礼の者達に伝えられる福音のエキスパートとして、ペテロ、その他の弟子達は、割礼のユダヤ人に伝えられる福音のエキスパートとして、相互に認め合ったのです。

 その了解の基礎は、「働き給う神」でした。パウロ、ペテロがそれぞれ自分の縄張りを決めたというのではなく、神がパウロを異邦人への宣教師に任命し、用いておられ、同じ神がペテロをユダヤ人教会指導者として任命し、用いておられる、これが双方の共通認識でした。私達も立場の違いを互いに認め、優劣を競うのではなく、尊敬と理解をもって互いに助け合うならばどんなに幸いでしょうか。


福音の真理

 最後に、イエス・キリストにあって私たちが持つ自由であるところの、パウロが福音の真理と語っている事柄をもう一度まとめてみます。

@救いは誰にでも及ぶ

 人種、階層、性別、道徳性など全く関係ありません。

ローマ8:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

A救いは無代価、無条件で得られる(信じるという単純な行為によって得られる)

ローマ10:9、10 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 真面目な人間になってから救われるのではありません。よく真面目な生活が出来るようになってからクリスチャンになるという人がいますが、そうではありません。救われてから神様によってクリスチャンとしてふさわしい人間になるのです。この順序を間違ってはなりません。

B受け取るときに、人生を全く変化させる大きな力が働く

ローマ1:16 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 この「力」という言葉はドュナミスであって、これからダイナマイトという言葉が出来たのです。福音はこんなダイナマイト的な力を持っています。近々発行される伝道トラクトの「リーフ」には船橋教会の瀬崎さんとのインタビューが載っています。アルコール依存症で、自分も苦しみ、家庭も苦しんでいたのですが、福音の力によって、アルコールをきっぱりとやめるという、奇跡とも思える経験をしたのです。瀬崎さんを変えた福音は、あなたをも変える力を持っているのです。


結論

 この福音(=良き訪れ)を、単純に素直に喜びをもって受け入れようではありませんか。そして、既に福音を受け入れた者たちは、その福音の力の大きさを自分の生活にもっともっと経験し、周りの人に伝えようではありませんか。

 ご一緒にお祈り致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.3.6