礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年3月26日

第55次インマヌエル総合伝道団合同年会礼拝

於 青山学院講堂 (東京・青山)

「神の恵みの働き掛け」

河村 襄 総理

詩篇67篇1節

中心聖句

1どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ

(67篇1節)

アウトライン:

 聖宣を追求することはインマヌエルの根本理念であると同時に、聖書全体に通じるメッセージである。

 聖宣は、1)献身者の興起を祈る、2)目前の魂の救いのために祈る、3)救いを求める者を聖徒線に生きる姿に導く、と言う3つのことなくして為し遂げられるものではない。

 このような働きのためには「御顔を私たちの上に照り輝かせること」、すなわち神の臨在が必須である。

 御顔が照り輝くとき、救いの御業が真の意味で拡大していくのであり、私たちはまずこのことを祈り求めたい。

教訓:神の臨在を祈り求めよ


導入

 今朝は第55次年会を締めくくる年会合同礼拝を迎えました。このように人数やメンバー、場所の違いはあれども、いつものごとく週の初めを聖別して、礼拝を守ることができることを感謝いたしたいと思います。

 年会前の総会ではスパン博士をお迎えして、新しい力をそのメッセージから頂きました。また改正された条例に従いまして、3人の候補者から投票によって総理が選出されました。総理職の任期は3年であり、また定年が70才ですので、私の再任はあり得ません。

 これまでに何度となく21世紀のリーダーを選出すると言う表現が用いられてきましたが、私自身は「21世紀のリーダー」などという意識はなく、たまたま21世紀になるときにリーダーの職を頂いた者と言う認識であります。

 私自身、これまでに条例改正審議委員として働いて参りましたが、この仕事を最後のご奉仕と考えておりました。ですから総理に選出されたことは、ある意味神様からこの職を押しつけられたと言うのが偽らざる気持ちであります。

 まず、3人の候補者に選ばれた時点で私は「大変なことになった」と思ったものです。と言いますのも、条例改正委員としてこれまで総理の近くでその働きの大変さを目の当たりにしておりましたからです。

 実際、これまで総理を務められた方々は、その激務の故にか、頭部が薄くなるか或いは白髪が増えるかのいずれかでありまして、私も自分の頭もそうなるのかなぁなどと、なんだか不思議な気分がしております。

 このように果たして自分に総理の重責がつとまるのであろうか、と考えることもあったのですが、マタイ16:24の「神の御心であるならおのが十字架を負え」ということばを頂き、神様の励ましを得てその御旨に従うことにいたしました。この時の支えは「神の御心によってこの職が与えられた」と言う確信であります。

 「主よ御力を起こしてください。主が力強くのぞんで下さるように。」ということばと共に歩んでいこう、また主の力をお借りしつつ私の微力も尽くしていきたいと思っております。


 聖宣を追求する問いのはインマヌエルの群の基盤理念であります。しかし、聖宣というものは単に我々教団の理念であるだけでなく、聖書全巻を通じて流れているメッセージでもあるのです。

 この聖宣を追求するに当たり、まず以下の3つのことを行っていきたいと思っております。

1)群全体で献身者の興起を祈ること。

これは教団として最大の課題であり、これ無くして教団の将来像は描けるものではありません。若々しいイメージを持った牧者が溢れるような教団となって欲しいと思います。献身者の興起のために皆さんお祈り下さい。

2)目の前の魂の救いのため、地道に忍耐強く祈ること。

このよう地味ではあっても継続的な努力がなければ、リバイバルなど起こりようもありません。

3)救いを求める者を聖と宣に生きる姿に導くこと。

ここの「生きる」ということばに注目して下さい。これは単に口にするだけでなく、経験的事実として自分のものにし続ける事を意味しております。口先だけで「聖と宣」と言っていても、言っていることと実際に行っていることでギャップが大きければ、周囲の人への証などできることはありません。この点について今年、皆様の協力をお願いいたしたいと思います。


さて詩篇67篇1節を、この一年を始めるにあたって今朝取り上げたいと思います。この箇所は誰が書いたかは明かではありませんが、収穫や刈り入れの時の感謝・祈りの歌であると考えられます。

この部分は細かく見て参りますと6つの祈りから出来ております。そのエッセンスは主が収穫や産物を私たちにもたらすということが、主が私たちを祝福する事の象徴であると言うことになります。今朝はこの祈りの中で、「御顔を照り輝かす」と言う1節の祈りにポイントを置いてお話しいたしたいと思います。


この「御顔」ということばは「神様の象徴」であり、実際聖書には「御顔を向ける」「御顔を背ける」「御顔の救い」などと言ったように、よく「御顔」と言う表現が登場いたします。では、冒頭の詩篇の箇所で出て参ります「御顔を照り輝かす」ということばがどのような意味を持っているか、またそれが何をもたらすのかについて簡潔にまとめてみたいと思います。

1)その意味

日本には「顔を貸す」「顔を出す」などという「顔」にまつわる表現が多々存在いたします。このような表現を私たちが用いるとき、えてして「顔」は「人格」を意味しております。たとえば「顔を貸してくれ」と言うときに本当に顔の部分だけ出して貸すわけではないでしょう。そこには、「顔」で代表されるその人の「人格」が登場して欲しい、と言う気持ちが込められているのです。

これと同じように、聖書で用いられる「御顔」ということばには、「神様の人格」が象徴されているのです。すなわち、「御顔」は「神様ご自身」と言うことになるのです。

したがって、「御顔を照り輝かすように」ということばの意味は、まず「神様ご自身が乗り出して下さるように」と言う意味を持っているのであります。我々は日々さまざまな境遇や状況にありますが、どのような状態にあっても真に必要なことは、神の御顔の乗り出しであり、これ無くしてこの世を乗り切ることは不可能でありましょう。

毎朝主と顔を合わせ、祈りをささげ、主の無したまえる事を信じて、一日を歩み始めることが我々にとって必要不可欠のことなのです。

これは信徒一人一人の話だけでなく、教団全体の活動についても言えることであります。総会で伝道に関してさまざまなアプローチが必要であることが真剣に討論されました。しかし、どのような現代の最新技術・整った組織・経済力の力をもってしても、そこに神様の直接的な関与が無ければ、教団の活動も無に等しいものなのです。

教団が本当に価値ある働きをするためには、どうしても神様ご自身の臨在が必要であり、またその恵みと働きが伴わなければならないのです。そのためには、「神の御顔を照り輝かせて下さい」という全員の真摯な祈りが必要になってくるのです。

神無くして人間の努力や方法によって成し遂げられることもこの世に多いのは事実です。しかしそれらのことはどんなに立派に出来上がっていても、神の前には何の価値もないし、何ものでもないのです。それはバベルの塔の出来事を思い起こしていただければわかることでしょう。神の関与無くバベルの塔を築き上げても、それ自身が不信仰であるので、その塔は崩れ去り罰さえ与えられるのです。

ところが私たちは、神の哀れみとその贖いのゆえに神を信じることのすばらしさを教えていただきました。そして何事を為すにも神様の恵みと助けを祈り求めることができるようになったのです。これはそれ自身大変な恵みなのです。わたしたちはもはや神の御顔無くしては、おじ惑うことしかできません。

現代の世にあって「伝道の壁」があり、これの打破に向けてあらゆる努力が為されるべきでしょう。しかしその前に、「御顔」の臨在がなければならないのです。

またここで「御顔が照り輝く」のが「私たちの上」であることに目を留めていただきたいと思います。これは、他の誰でもない「私」の上に神様の臨在がなければならないことを意味しております。すなわち、私たち一人一人が神様の臨在と恵みを求めて祈る必要があるのです。


2)何をもたらすのか

「御顔を照り輝かす」と言うことは私たちにどのような結果をもたらすのでしょうか。同じ表現がでてくる聖書の箇所をいくつつか開きながら、学んで参りましょう。

1. 詩篇4:6-7には、「あなたの御顔の光を、私たちの上に照らして下さい。あなたは私の心に喜びを下さいました。」とあります。つまり「喜び」が与えられます。

2. 詩篇31:15-16 には「敵の手から...救い出して下さい」とあり、「御顔の照り輝き」によって私たちが世の敵から救い出されることが判ります。

3. 詩篇80:3では、「私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせて下さい」とあります。また、同じ祈りが7節と19節にも繰り返されております。ただ、3節では「神よ」、7節では「万軍の神よ」、19節では「万軍の神、主よ」と呼びかけることばが変化しております。

ここでは「霊的な刷新・回復」が表現されております。「私たちをもとに返し」ということばの中には、私たちが折々に霊的に刷新されること、また信仰の王道に立ち返る事が求められている、と言う意味が込められているのであります。

今日お互いが主イエスの十字架に立つ信仰を持っているか、確認していただきたいと思います。具体的には、果たして毎日聖書に接しているか、また集会に参加しているかなどを吟味していただきたいのです。

そして、今日これを確認したら、さっそく信仰の王道を歩み始めていただきたいと思います。聖書を1章ずつ読んだり、祈りの壇を築き直したり、集会出席を守ったりして下さい。これらのこと一つ一つが「霊的刷新」につながるのです。

また、隠れて行っている罪があるときは、それを悔い改め、主に立ち返って下さい。私たちの主は折々に私たちに光をお与えになり、私たちの心の罪を明るみに出され、「それはいけないことだから直しなさい」と小さくささやいて下さいます。この時私たちはきちんとその問いかけにお答えし、悔い改めているでしょうか。

このような問いかけに答えることで、私たちの人格は神の光に導かれてより高いステップへと到達していくのです。従って、この光に応答することが「聖潔」を得ることにつながります。逆に来れなくして「聖潔」を得ることなどあり得ません。

4. 詩篇119:132-134では、「御顔を向け、私をあわれんで下さい...戒めを守れるようにして下さい。」と書かれております。

つまり、神様の臨在により私たちは神様の教えを理解できるようになると言うことです。この力は、世に勝つ力であり、また信仰の源でもあります。

同じ119編の97節には「一日中思いとなっている」とあります。この思いとはmeditation であり、熟考することを意味しています。神様は御言葉に思いを寄せ続けるとき、恵みとしてその解決策と教えを私たちに授けて下さるのです。

普段の生活の中で窮地に陥ったとしても、まじめにかつ継続的に聖書に学んでいれば、「どうしてこういうしのぎかたが出来たのだろう」というような切り抜ける知恵が自然と与えられるものです。

こういう場合ほぼ例外なく、本人はそんなにスゴイ事をやっているという意識はないものです。本人が気付く前に周囲の人間がその尋常でなさに気付くのです。

モーセがシナイ山に出向いて戻ってきた記事を思い起こして下さい。モーセは自分の顔が輝いていることには気付いていませんでしたが、周囲の人間がそれに気付いたのです。

このように継続的に御言葉に触れていると、イザと言うときにまるでマジックのように危機に対応する知恵矢悟りそしてわきまえが与えられるのです。


67章1節の言葉に戻りましょう。2節に「それはあなたの御救いが、すべての国々の間に知られるためです」と「御顔を照り輝かせる」事の目的が書かれています。この2節と1節の順序を入れ替えてみるとよりわかりやすいかも知れません。

すなわち、「御顔が照り輝く」その時、救いの恵みのわざが拡大していくのであります。7節に「神が私たちを祝福して下さって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」とありますように、救いが地の果て果てまで証しされるのです。そして地の果て果てで、主をほめたたえ、喜び歌い、また神を恐れるようになると言うのです。

このように神の御救いの恵みが広く深く拡大していくために、この一年私たちの群は神様の「御顔が照り輝く」ように祈り求めて参りましょう

ご一緒にお祈りいたしましょう。


Editied and written by K. Ohta on 2000.3.29