礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年4月2日

ガラテヤ書連講(6)

「キリストと共に死ぬ」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ人への手紙2章14-21節

中心聖句

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

(20節)

アウトライン:

 本日の中心聖句であるガラテヤ書2章20節は、きよめの信仰のよりどころとして多くの人に愛唱されているが、往々にしてその文脈から離れて味わわれているのが見受けられる。そこで今日は文脈に沿ってその意味するところを見ていきたい。
 この言葉は律法主義に妥協したペテロに抗議してパウロが語った言葉であり、律法主義との関係で語られた言葉である。つまり、律法を一生懸命守ることにより、自分の力で自分を救うことができるという自己義に満ちた、自己中心的な自分はキリストの十字架と共に死に、今生きているのはイエス・キリストの救いのみを信じる信仰による自分であると語っている。

 キリストの福音にふれ、救いの経験をしたクリスチャンは、本来は皆このようになっていなければならないのだが、多くの場合この死んだはずの自分が実は生きていることがある。そして、このことが本当に深く納得されるのは、「第二の転機」によることが多い。

 今、自己中心性に満ちた「死んだはずの自分」が本当に死んでいるかどうかを確認し、冒頭の聖句が本当に自分のこととして納得できるような信仰に立とうではないか。

教訓:死んだはずの自分が生きてはいないか


導入

 前回は「福音の真理」が正しく行われていないという事態に立ち向かったパウロの姿勢について学びました。それは「福音の真理」を知っているはずの使徒ペテロが、「福音の真理」に背く行動を取った時に、パウロが直接抗議して諌めたと言う出来事でした。

 今日もその続きです。パウロは、諫めながらも非常に大切で深い真理を述べています。それは、彼の個人的な十字架経験でした。今日と来週にかけて、今日はその
消極的な面−十字架と共に死んだ自分−を、来週はその積極的な面−生きている自分−について学びたいと思います。

 このガラテヤ書2章20節は、多くの人々にきよめの経験のよりどころとして愛唱されておりますが、往々にして前後の文脈から離れて、その真意が必ずしも充分理解されないままにこの言葉だけを味わっておられるのを見受けます。しかしこれは手紙ですから、全体の流れの中でこそその文章が生きてくるのです。そこで本日は、ここで紹介されているパウロの十字架経験について、まず文脈から観察し、次に内容を吟味し、最後に私達への適用を考えたいと思います。


A. 文脈からの観察

1. これはペテロに向けて語られた

 14節の途中から21節までは「 」の中に入っております。おそらくこの部分は、パウロがペテロとの論争の中で言葉として語った内容だと思われます。



 パウロは、ペテロが無意識的ではありましたが、せっかく始めた異邦人クリスチャンとの自由な交わりを途中で止めてしまったという行為によって律法主義者に妥協したことは、律法主義を助長する結果になると、激しく非難しました。

2. これは律法主義との関連で語られた

 この20節のパウロの告白は律法との関連で語られた言葉で、19節の「律法に死にました」という表現と、20節の「義は律法によらず」という言葉の間にサンドイッチされています。

3. パウロの論旨

 それでは、14節以下のパウロの論旨を私なりの意訳に従って見ていきましょう。

1) 律法を異邦人に強制する誤り

 14節「
ペテロさん。あなたは偏見の強いユダヤ人にしては開かれた考えを持っていて、異邦人と分け隔てなく突き合い、異邦人と間違えるくらいでしたよ。

 ここでパウロは、ユダヤ人のペテロがユダヤ人らしく振る舞わなかった事を責めているのではありません。むしろ律法主義の人達が来た時にユダヤ人としての振る舞いに戻った事に対して一貫性を欠くとして責めているのです。

 「
そのあなたが、何故異邦人との交わりを避けるようになったのですか。そのあなたの行動は、異邦人のクリスチャンよ、あなたがたが私達と交わりたいのなら、割礼を受けて宗教的にユダヤ人となりなさいよ、と言っているのと同じではありませんか。

2) 救いはキリストを信じる信仰だけによる、律法(を守ろうとする努力)ではない。

 15節、16節「
ペテロさん。あなたも私も、誠の神を知らず、律法を守らない、という意味では罪人である異邦人ではなく、ユダヤ人ですね。しかし、義人と思われている私達ユダヤ人でさえも、律法を完全に行うことは出来ません。私達はみんな罪人なのです。ですから、掟を一生懸命守ろうとする行いによってでは無くて、キリストの十字架による救いを信じる信仰によってだけ救われるのではありませんか。

3) キリストは私達の罪を指摘なさる。だからといってキリストは罪の奨励者ではない。

 17節「
キリストによって義とされるという救いの恵みを求める過程で、自分の罪を認めるということは確かにあります。だからと言って、キリストが罪を助ける人だ、などという主張はナンセンスですね。

4) 律法はキリストによって無効なものとなった。

 18節「
私は、律法を守ることによって救われるという考えを強く持っていたのですが、キリストを知ることによって、その間違いが分かりました。その私が仮に律法が大切だという主義を振りかざしたら、私は大きな矛盾を犯すことになりますね。私はそんなことをしようとは思っていません。

5) パウロは、律法(を守って自分を救おうという自己義)についてはキリストと共に死んだ。

 19-20節前半「
実際の所はというと、私は律法主義を捨てました。それは律法そのものを不必要と言って捨てたのではなく、律法をとことんまで守ろうとする努力の果てに、これは救いのために有効ではないと悟って、律法主義的な生き方を捨てたのです。その意味では、律法の要求する刑罰をとことんまで受けて十字架にかかられたキリストと同じ道を辿ったといえます。実際、私はキリストと共に律法によって生きようとする自分の義に死んだのです。

 つまりパウロが「
私はキリストと共に十字架につけられました。」と言う時には、自分は正しいという自己義というものが非常に強く意識されているということです。

6) パウロは、律法によらず、信仰によって生きている。

 20節後半、21節「
自分の義に頼って生きようとする生き方から180度変わって、キリストを信じる信仰によってだけ生きる自分に変わりました。それこそが、神の恵みを活かす道だと信じています。ペテロさん。どうか、あなたもこの信仰の原点に立ち戻ってください。


B.内容的な観察

 ここまでは文脈に従って、全体を概観してまいりましたが、今度はズームインするように、その中心に近づいて見てみたいと思います。

1. (第一義的には)パウロの初時的経験

 これはクリスチャンとなったパウロが、初めてイエス・キリストと出会って十字架の救いにふれたときの経験についての告白であると言えます。

 同じような告白がガラテヤ書の5章24節にもあります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 また、ローマ人への手紙6章3〜4節には、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

とありますが、バプテスマを受ける、つまりキリストを受け入れてクリスチャンとなったときにキリストとともに葬られたという経験について述べられています。

 立場としては確かに、最初の救いの経験によって「
自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」はずなのですが、実際には必ずしもそうはなっていない場合が往々にしてあり、昔の歌謡曲のように「死んだはずだよ...さん」となっている場合があります。

 そして、このことが実質的に深く体験されるのは、いわゆる「
第二の転機」によることが多いのですが、少なくとも聖書を素直に読む限りにおいては、ここでは最初の救いの経験について語っていると思われます。

2. 死の告白

 これは死の告白です。死ぬことはある関係の断絶を意味しています。これを電気に例えると、大もとの電源から切れていることを示しています。

3. 死んだ自分

 それでは死んだのははどんな自分でしょうか?

1) 律法に生きようとする自分

 それは、律法に生きようとする自分、律法を守ろうと努力しているが結局それを果たす事ができずに罪の中に生きている自分です。

 「自己義」というのは自分が正しいという誇りですが、実際には正しくなろうと努力する程に逆の力が働くのが人間であり、そのことは努力をすればする程強く実感されるものです。

2) 罪に囚われた自分

 もうひとつは罪に囚われた自分です。ローマ人への手紙6章の6〜8節はこの内容を正確に説明しています。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」


 この1)と2)は本当は1つのことを示しています。

 アボット博士はきよめの本の中で、
罪の本質は「自己中心」(最近の若い人は「ジコチュー」と言うそうですが)であり、「自己が生涯の中心的な座を占めること、すべての事柄の中心に自己を置くこと」と説明したあとで、その特色は以下の四つであると述べています。

1. 信仰を持つ代わりに、自分を満足させる「自己充足」
2. 神に従う代わりに、自分の意志を押し通そうとする「自己意志」
3. 人々に分け与える代わりに、自分の欲求を満たそうとする「自己欲求」
4. 神の前にへりくだる代わりに、俺は正しいと主張する「自己義」

 つまり、罪の本質は「自己中心」であり、そのひとつのあらわれが自分は正しいと主張する「自己義」なのです。

 そしてパウロは、そのような自己中心性はイエス様によって完全に終わりにされることが可能であると述べています。

4. 死んだと言っている自分は、自分を自分たらしめる魂のことではない。

 ここでつけ加えさせていただきたいことは、死んだといっている自分は、自分を自分たらしめる魂のことではありません。自分らしさや自分の好みがすっかり無くなってしまったわけでは無いのです。

 自分の意志というのはすっかり無くなってしまって、全てはイエス様の意志ですというのは、神秘主義と申しますか、少し行き過ぎのように思います。

 例えば蕎麦屋に入ってきつねにしようかたぬきにしようか迷ったときに、それをいちいちお祈りしてイエス様に判断を委ねるようなことは普通しないでしょう。どちらが良いか決めるのは自分自身です。

 
あくまで私は私でありますが、自己中心性を神に明渡して、神ご自身の願いに自分の願いを従わせるように変えられることを示しています。

5. キリストと共に十字架に−信仰によるキリストとの一体化

 キリストと共に十字架についたという表現は、文字通り十字架に釘付けにされたということでしょうか。今月は16日が棕櫚の聖日、23日がイースターですが、この季節になりますと、世界の新聞で文字通り十字架についた人の記事が写真入で報道されます。

 そうではなくて、これは信仰によって罪と律法の支配が完了したということを頷くことです。信仰によってのみ、人はキリストの十字架を自分のものとして捉えることが出来ます。その目的は神にあって生きるため、律法から解き放たれた自由をもって、自由に神に仕えるためです。

ローマ人への手紙6章の11節には、

6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

とありますが、このことをもう一度確認しなさいとパウロは言っているのです。

 私はガラテヤ書2章22節が、「第二の転機」を直接さしているという説を否定するようなことを最初に申しましたが、最終的にはそこに帰ってくるのです。

 といいますのは、私達の生活の中で、つらい目にあった時やいじわるをされた時などに、むくむくと「
死んだはずの自分」が出てくることは無いでしょうか?

 そのようなときにどういうふうに反応するかによって、その人が「死んだ人」であるか「生きている人」であるかがわかるのです。



C.私達への適用

1. 死んだはずの自分が生きている

 このことが本当に納得できるのは福音にふれた救いの初期のころよりも、もう一歩進んだ段階でなされる場合が多いようです。それは、死んだ筈の自分が生きているという現象が多くのクリスチャンに見受けられるからです。

2. きよめの信仰

 そのように立場としては死んでいるはずなのに、どっこい死んでいないという矛盾を解消するのがきよめの信仰です。

 ローマ人への手紙の6章11節には次のように書かれていて、この方向の勧めがなされています。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 この「思う」という言葉はギリシャ語では「計算する」という会計上の用語です。虚構の思い込みではなくて、目には見えないけれども実際になされている取引を現実のものとして受け止めて、帳簿に記入しなさいということです。この中には決然たる信仰的な計算が含まれています。

 ここに”
died, 2002.4.2”と絵にしましたように、今日死ぬべき自分が確実に死んでいることを確認していただきたいと思います。そしてそのことを毎日確認しながら歩むのが信仰による歩みです。




結論

 ジョージ・ミュラーはある人に「あなたは素晴らしい聖徒だ。」と賞賛され、その秘訣を問われたときに、こう答えたそうです。

私には死んだ日があるからです。私はジョージ・ミュラーに死にました。ジョージ・ミュラーの意見に、ジョージ・ミュラーの選択に、好みもに死んだ日があったからです。世が誉めようが、けなそうがそのことに対しても死にました。私の友が私を誉めても、けなしても、それに死んだ日があったからです。その日以来、私は神の前に自分が喜ばれるように生き続けてまいりました。

 私達には「
あの日、あそこで十字架について自分は死んだ。」といえる日があるでしょうか?

 どうか今日この時、
そのような信仰に立っていただきたいと思います。

 
最後に、もういちどガラテヤ書2章の20節を、「私」というところに自分の苗字を入れて読んでみて下さい。

 そうして、それが本当に自分の頷きとなって、自分で自分を救おう、自分にはまだ望みがあるという自負をすっかり取り除いて、イエス様の十字架にだけ私達のよりどころがあることを再確認して、その信仰に歩み続けましょう。

 ご一緒にお祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.04.07