礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年4月9日

ガラテヤ書連講(7)

「信仰によって生きる」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ人への手紙2章14-21節


中心聖句

2:20-21 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。


始めに:

随分長いことガラテヤ書2章を扱っているようですが、いよいよ2章も今日で終了いたします。来週は主許さばイースターを前に特別講壇を持つ予定です。今日は今一度、20節を中心とした箇所を扱わせていただきたいと思います。

前回は、大変有名な箇所である「キリストと共に十字架につけられた」と言う聖句を文脈を大切にして読み解きました。そして、クリスチャン経験の消極面である「キリストと共に死ぬ」という経験を学びました。

今日は、その後半のキリストへの「信仰によって生きる」という積極面に焦点を当てたいと思います。ある意味、死ぬのは一瞬ですが、生きるのはより長く継続するものであり、むしろこの面の方が大切だと言えます。

さて、キリストと共に生きるとは、何を意味するのでしょうか。聖書のことばに従って、今日はこのことについて以下三つの側面から学んでみたいと思います。


A. キリストと共に死ぬ事が前提

前回は「キリストと共に死ぬ」というパウロの個人的な十字架経験、特にその消極面を学びました。

復習いたしますと、キリストと共に死ぬとは、

律法に生きようとする自分の義」を放棄すること、

罪(その核は自己中心主義)に囚われている自分自身を、キリストと同一化させる信仰に明確に、決然と立つこと

と学びました。


さて、今日は十字架経験の積極面である「生きること」を取り上げます。

ローマ書6:5では

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と書かれています。

このOHP の絵は洗礼について象徴的に描いたものです。ここには二つの大切なことが象徴されております。

まず、洗礼はその人を水の中に浸けるわけですが、これは自らが罪の中にあって死んだ者であると告白する事を象徴しております。洗礼は浸礼、灌礼、滴礼などの種類があり、使う水の量はさまざまですが、いずれもこのことを象徴している点ではかわりありません。

私は中途半端なものより、しっかりしたやり方がよいと思っておりますので、教会ではできる限り全身を水に浸ける浸礼を適用させていただいております。私が宣教師をしておりましたケニヤでは、かなり多数の人が全身水に浸かった経験がありません。あるご婦人(この方は密造ビールを造っていましたが)を洗礼するときには、なかなか水の中に入ることが出来ませんでした。罪深い人生を送ってきたと言いますので、出来るだけしっかりとした洗礼経験をしてもらおうと、このご婦人に浸礼を試みたのですが、何度やってもうまくいきません。私は半ばあきらめかけておりましたが、ある人が「膝を柔らかくした方がいい」とアドバイスしたお陰で、何とかうまく浸礼をすることが出来ました。

話はそれましたが、洗礼にはこのように水の中に入って「キリストの死」に与るという重要な象徴的意味(葬りの儀式としての意味)があるのです。

また、浸礼では水の中に全身を浸けた後、すぐさま身を引き上げます。このことは何を意味しているかと申しますと、「キリストの甦り」に与ることを象徴しているのです。

かくして洗礼を通じて、「罪に死ぬ」事に徹底するとき、始めて「キリストと共に生きる」ことができるようになるわけです。すなわち、死ぬ事に徹底する時始めて、豊かな生が得られるのです。


では、死んでしまった自分は一体どのような者に変えられ、キリストと共に生きることになるのでしょうか?その新しい自分とは、生まれ変わった自分です。

ローマ6:5には、「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる。」と記されています。

前出のローマ6:5の前後には、その命の性質が以下のように記されています。

いのちにあって新しい歩みをするため」(4節):新しい生まれ変わった自分となります。

もはやこれからは罪の奴隷でなくなるため」(6節):クリスチャンは真の意味で、自由な生を持ちます。

キリストとともに生きる」生活(8節):キリストにある平安が与えられます。

神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」(11節):これは神の栄光をあらわすために生きると言うことです。

なんと豊かなクリスチャン生活が描かれているではありませんか。あれもだめ、これもだめのくらーい人生ではなく、神の恵みを讃えつつ、快活に生きる人生がはじまるのです。

その意味では、死んだという十字架経験は本当の意味で生きるためのステップであると言い変えられます。死ぬことが終りでも目的でもなく、死ぬことのよって古い自分とさよならし、新しい自分に生きる事が目的となるのです。


しかしここで注意していただきたいことがあります。クリスチャンとして新しい生まれ変わった自分になると言うことは、自分を全部捨てて個性のない人間になってしまう事を意味しているのではない、と言うことです。自分を自分たらしめる個性の存在そのものは失われないのです。

捧げ切った、譲り切ったものとしての各個人の個性を、神様は尊重されます。

自分が「死んだ」筈なので、傷つくこともないし、誘惑にも反応しない、自分の好みや計画を一切持たない、等と言ったら言い過ぎです。こういう風に聖書を解釈すると、一種の不思議な神秘的な人間が出来上がってしまうことになります。または、「私はそんな風にはならなかった」と言って失望を与えるかです。

聖書が言っていることはそのようことではありません。救われても「自分」はあり続けると主張するのです。しかし注意すべきは、その自分とは、自分が王様であることを止めて、キリストを王座として迎え入れた自分になるということです。

野田秀先生が「きよめと人間性」の中で、この「自我に死ぬ」という教えの行き過ぎを警戒しておられます。私も同感でありますので、ここでちょっと引用したいとおもいます。

「きよめが説かれるときに、『自我が死ななければならない』というように受け止められやすい語り方がある。

正確には<わがままな自我>が死ななければならないのであって、自我そのものが死ななければならないわけではない。

自我そのものが死ななければならないとすれば、人間が人間でなくなってしまう。いや、人間であり、クリスチャンでもあるのだが、自分で考えず、健全な感情と意志を持たない人になりかねない。

<わがままな自我>とは、自分を第一とし、主の前に砕かれない性質のことである。考えることも、感じることも、意志することも、正に自分中心なのである。

しかし、全てを主に明け渡し、きよめられた人は、あらためてきよめられた自我にいきるようになる。そうすると、その人に与えられた気質も能力も、時には欠点さえも、主の栄光のために生き生きと用いられるようになるのである。

<自我に死ぬ>ということばによって、生きていてもよいものまで死なせてしまうかのような説き方は、型にはまった信仰者は作っても、人間性豊かに生きる主の証人を生むことに失敗するのではあるまいか。」(19ページ)

野田師の言は非常に注意深い言い方ながら、「キリストと共に十字架につけられた」と言う言葉が意味するものは、神よりも自分を第1とする生き方を捨て神第一の生活を送ることである、と主張しております。すなわち、「十字架に死ぬ経験」をしても個々の人間的個性が存続するということが、この文章からおわかりになると思います。

キリストが心に宿るということは、自動車のエンジンをそっくり取り替えて別のクルマに仕立ててしまうようなものではありません。個人の感情や個性が生きている上で、自我の「自己中心・わがままな部分」が死ぬのです。


B.キリストと共に歩む

コロサイ1:27でパウロは、

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」と語っています。

キリストが内におられるということは、勿論目に見えたり、感覚的に捉えたりできるという意味での存在ではありません。

また聖霊は、目に見えたり、においを感じたりできるような存在ではありませんが、私たちの慰め主として、助け手として、教師として心に宿って下さります。

ここで、実際心に宿られるのは主イエスかそれとも聖霊か、と言う疑問をお持ちになる方もいらっしゃるかも知れません。その答えは、聖霊によって甦ったキリストは心に宿り給うというものです。

心に宿り給う聖霊様は謙虚なお方で、いつでも主イエスをお立てになり、「あの方は貴いすばらしいお方だ」と崇められます。


聖霊・主イエスはまた人格として存在されます。私たち個人もまた人格を有します。

人格と人格の間には対話、交流が生まれます。すなわち、私たちと主イエス・聖霊との間にも交流があり、私たちが主イエスと聖霊を崇めるとき、イエスは私たちをなぐさめ、取りなして下さるのです。

これはちょうど幼子が「お母さん、何処にいるの助けて」と泣き叫ぶとき、「私はここにいるから心配ないのよ」とやさしく答えて下さるようなイメージと捉えていただいてよいと思います。

このようなイエス様に"I love you" と率直に言えるようになりたいものです。どうも日本人はこのような外国的な直接的愛情表現に慣れておらず、なかなかこのようなことを面と向かって言えないものです。私もかつて外国の集会で「最近いつ奥さんに花束をプレゼントされましたか?」と言うクイズに出くわしたことがあり、自分は答えなくてもよい場面でしたが、我が事ながら大変冷や汗をかいたものです。伴侶に対してもそうですが、イエス様にも遠慮なくI love you. と言えるようになりたいものです。

昔のユダヤ人の家には奴隷がおりましたが、一定期間を過ぎると自由にしてやる決まりがありました。ところが、奴隷の自由な意志によって、そのままの奴隷の身分でその主人の家に残ることもできました。これを「愛の奴隷」と言います。

私たちは、愛情をイエス様に示すつつ、主イエスに対して「愛の奴隷」となるのです。これが救われた私たちのあり方です。神様への服従というのは嫌々するのではなく、このような愛の上に立つ自然な服従であり、また一方的な命令/服従という関係でもありません。

そして、その交流の結果として「聖霊の実」を結ぶこと、言い換えれば、キリストの中に持っておられた品性が私達のものとなるのです。それこそが「いのちにあって新しい歩みをする」(ローマ6:4)ということであり、「きよめ」の継続的側面なのです。


C.信仰によって生きる

20節後半に戻りましょう。

ここでパウロは、「・・・信じることによって生きる」と言っています。

その信じる
対象は自分を愛し、命を捨てて下さった御子、私の内に生き給うキリストのことです。

来週からイースターに備える受難週となりますが、聖書はイエスの苦しみと辛さをよく記しております。主は、私たちが本来負わねばならない咎をひとり子イエスの上に置かれたのです。イエスは私たちを愛していて下さるゆえに、喜んでその供え物となったのです。それ故に私達は罪からの赦しきよめを受け取ることが出来るようになったのです。

また、そのお方が甦り私達の心に生きていて下さる事、これも信仰によって頷くしかないことです。

信仰とは、これらのことを自分のために行われたことと受け取ることです。また、生きるとはこの信仰によって以外ないと、パウロは語っています。


信じるとは、あらゆる事について、あらゆる場合に、主イエスに依りすがり、徹底的にすがり、助けを信頼し、他の助けを信頼しないことです。

これに反したキリストへの信仰以外に頼る生き方は、神の恵みを全く無駄にした生き方であります。たとえますと、誰かからイオカードとかテレホンカードをもらっておきながら、全く使わないで置くようなものです。これは愚かなことではないでしょうか?また、神様の側から見ると、このような態度は自分本位の傲慢な姿勢に見えるでしょう。

アボット博士を再び引用したい。

「信仰生涯の基礎は、始めから終わりまで『信仰』であります。これこそキリスト教を、他の宗教と区別するしるしです。

キリスト教は業を強調するところの宗教ではありません。自己の努力によって救いをかちとる宗教ではありません。

それは、イエス・キリストに対する信仰によって特色づけられる宗教です。

もちろん信仰に続いて、良き業は伴います。しかし、私達が何かをなすことが神に喜ばれるのではなくして、イエス・キリストを信じることが神に喜ばれ、受け入れられるのであります。」

キリスト者としての生き方は、自分の弱さを徹底的に自覚したときに始めて見えてくるものです。これは「神頼み」に他なりませんが、ご利益追求のいわゆる日本流神頼みとは異なります。

ご利益追求の神頼みは、試験勉強もせずに良い結果が得られますようにと祈るようなものです。何でも祈りさえすればよいと言うものではなく、そこにはやはり個人の努力も必要になってくるのです。

ヤコブが言っているように、行いなき信仰は死んだも同然です。

ヤコブ2:26「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

ヤコブの真意は、信仰だけでは駄目だといっているのではなくて、行いに現れるような本物の信仰でなければ駄目だ、という事なのです。

しかし、神無き自分だのみの努力は捨てるべきです。人事を尽くしながら、自分に頼る心を捨てきって、すべてを神に委ねて恵みを信じ切ることです。

どうか神様を信じることによって生きる生き方を徹底して下さい。そして、自分の努力で何とかしようという態度を捨てていただきたいのです。

神様の導き無しにものごとを選択したり、自らの知恵に頼っていきる生き方を改めて下さい。神に祈ってからすべてを為す。そのような謙虚な姿勢を神は愛され、助けと導き・恵みを下さいます。

これを我々の生活全般に当てはめますと、キリストの信仰の上に徹底的にリラックスすることです。つまり「頑張り」と反対の立場です。すべてが主の御手の上にあるという平安な心を持って生きることです。

おぼれている人はえてして、水の中であがきもがいているものです。その無意味な頑張りを捨てると、リラックスし、平安が訪れます。

どうか頑張らなくっちゃと言う突っ張りを捨て、すべてを主に導いて下さいと祈る毎日を送らせていただきましょう。


Written and edited by K. OHTA on 2000.04.12