礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年4月16日

受難週講壇

「彼の打ち傷によって・・・」

竿代 照夫 牧師

イザヤ書52章13〜53章12節

中心聖句

4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

(53章4〜6節)

アウトライン:

 受難週講壇の朝、イザヤ書53章を思い巡らしてみる。

 彼(しもべ)が刺し通され、砕かれたのは、彼の罪のためではなく、実は私たちの罪のためであった。私たちが神を離れ、自分勝手な道を歩んだためであった。そのため神は、私たちの罪を、彼に負わせたのである。

 現在、私たちは多くの癒しがたい傷をもって生活している。そのため、今日、一番求められているのは「癒し」なのである。

 主イエスキリストの打ち傷こそが、私たちに本当の「癒し」をもたらすものなのである。

教訓:主キリストの打ち傷による癒し


導入

 今朝は受難週講壇です。今から1800年も前、ある教会指導者が、第五の福音書と名付けたイザヤ書53章は、キリストの苦しみとその意味をとてもリアルに描写しています。今日はその全体を眺めながら、特に4〜6節に焦点を合わせた思い巡らしをしたいと思っております。


A.この章句の位置づけ

 イザヤ書後半(40〜66章)の主題は「贖い」或いは救いです。

 それを三つのブロックに分けると、

 ◇40〜48章: 救いの型としての出バビロン
 ◇49〜57章: 救いをもたらす主の僕
 ◇58〜66章: 救いの完成としてのシオンの栄光

 となります。

 その第二ブロック(49〜57章)をさらに細かく見ると、

 ▽49章: イスラエルを回復する僕
 ▽50〜51章: 神に従う僕
 ▽52〜53章: 苦難を通して贖いを成就する僕
 ▽55〜57章: 祝福の拡大

 と分けられます。いずれにせよ、53章が心臓部となっています。


B.テキストの流れ

1.苦難の僕の紹介(52:13〜15):神の立場から

13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

14 多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――

15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

 ここでは、語り手は神です。僕(しもべ)とは「神の計画を完成するために、特定の使命を帯びて遣わされた人」のことです。この場合はメシヤです。苦痛で歪んだ僕の表情を見て、人々はこれが人間だろうかとさえ疑いを持ったほどです。15節の「驚かす」は意訳であって、直訳は多くの国人に注ぐ、です。53章10節との関連から見て、贖いの恩沢を注ぐ、と考えられます。

2.僕への人々の評価(53:1〜3):人間の視点から

1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 語り手はイザヤです。僕のメッセージは受け入れられませんでした。また、僕の生い立ちは平凡そのもので、これといった魅力は何一つ備えていませんでした。若枝、根ともひ弱さの象徴ですが、若枝にはメシヤ的な意義も含まれていました。

 僕は人々の支持を失い、悲しみを生涯の特色とした人であり、肉体と精神の悩みを彼の経験の一部としていました。イザヤは、一般人の理解に立って、私達も彼を尊ばなかった、と痛恨を込めて述懐しています。

3.贖いの苦しみ(53:4〜6)

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 この「まことに」という言葉の中に、僕が自分の罪の為に苦しんでいるという因果応報的な観念でしか彼を見ていなかったイザヤが、神の啓示に触れて愕然となったことを示しています。

 預言者は僕を外見で蔑視していました。しかし、僕の心臓近くに寄って観察すると、彼の苦難は私達の「病を負い」「痛みを担い」、そむきの罪のため、咎のため苦しまれたのでした。僕の苦難は罪の代償でした。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」のです。

 癒しとは現在一番求めれている経験です。癒しの音楽、癒しのテラピー、癒しのためのカウンセリング、癒しの言葉、等が流行っています。それを裏返して言えば、私達現代人の心は、様々な事によって傷ついているのです。幼稚園の母親同士の何気ない会話で傷を受け、殺人事件に発展したという出来事は例外とは思えません。人々の求めている、本当の癒しは十字架の主キリストから来るのです。罪を徹底して自覚し、キリストの徹底した苦しみを知るとき、私達の心に徹底した癒しが与えられます。これは完了形であり、既得のものとして受け取って良いのです。

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 罪は贖いを必要とします。贖いを必要とさせたのは、私達の罪なのです。私達は皆、そう、例外はありません。羊のように牧者なる主から離れて、自分勝手な人生の道を歩きました。神よりの離反、自己中心、これが罪の本質です。その赦すべからざる道からの逸脱の責任は、あたかも僕が張本人であるかのように、彼の上に課せられました。そこで贖いが完成したのです。

4.僕の従順と忍耐(53:7〜9)

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

 彼が口を開かないのは、諦めのためではなく、神の御心に従って敢然とその苦しみに立ち向かう様を現しています。小羊と雌羊は罪の為の生贄をあらわしています。

 不法の裁判によって、かれの命は地上から取り去られました。同時代の人々はその死の重大さに心を向けなかったのです。

 僕の死を辱めるために、かれの墓は犯罪人と共に設けられたのです。しかし、死の時には富める者と共になりました。この様な逆転劇は、彼の正しさの反映でした。

5.僕の究極的勝利(53:10〜12)

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころでした。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 僕を砕くことは、主の計画、御心でした。その計画は、僕が自らを咎の生贄として捧げた行為で完成されたのです。その使命を終えた僕は、その子孫の繁栄を見、その生命は長く保たれます。彼は死んだ筈ではなかったのでしょうか。しかり、死んだが、生き返ったのです。

 彼は、その労苦の結果を見て満足します。僕が神の計画を知って、それを実践したことが、多くの人々を義に導いたのです。

 僕の献身的な行為の故に、主は戦利品を分かち取らしめました。その献身的行為は、己の血の最後の一滴までも注ぐ姿勢から出たものでした。また、罪人と同じレベルに立ち、彼らと同化する謙遜からきたものでした。


C.十字架と私

 この預言は、100%主イエスによって成就したのです。イザヤは、映画でも見るような現実感をもってこれを見たことでしょう。ただ、そのキリストの姿との距離が、大きな見方の違いをもたらすことは否めません。

1.「関係がない」という態度

 3節にあるように、尊ばない態度がそれです。「何だ、キリストか。聖人ではあるかも知れないが、惨めな最後を遂げた哀れな男ではないか。私には関係ない。」と大部分の日本人が考えています。それは彼を遠くから見ているからなのです。4節の後半は、神に打たれ、責められている、という理解です。「大変な苦しみだ、可哀相に。」と同情はするのですが、「何か、とても悪いことをしたに違いない。」と突き放してしまう人々です。

 十字架の話をすると、多くの人がこういう、「確かに理屈としては分かるのだが、どうもピンと来ない。二千年も昔の外国での出来事が、どうこの21世紀の私達の傷と関係があるのかがよく分からない。」。これはある意味で仕方がないことです。でも、次のステップに行けば、見方が変わってくるのです。

2.「私のため」という自覚

 十字架を至近距離のズームで見ると、「彼の苦しみは、自分の罪の為の罰ではなさそうだ。しかも、それは自分の意志をもって受けているもののようだ。そうか、キリストの苦しみは、他でもないこの私の罪を担っての苦しみなのだ。」と分かるのです。

 イザヤは真面目人間でしたが、彼も含めて、全ての人は神の前に癒しがたい罪人であるという自覚を持っていました。1章6節を見ると「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」と言っています。この章でも「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」と言っています(6節)。

 6節の咎とはヘブル語のアウオンで、道からの逸脱ということです。神が私達の幸福の為に定められた道を、そんなものはいらない、私は私の道を行くんだ、と自分勝手に生きるその生き方が罪なのです。

 だから「私達の不義のため、私達すべての咎のため、多くの人々の罪を負い」という言葉となってあらわれたのです。まさに彼は身代わりの羊として十字架にかかられたのです。6節の描写は、贖いの日の儀式がその背景となっています。祭司が生贄の山羊の上に手を置いて、民の一年の罪を告白することによって、その罪を(儀式上ではあるが)赦して頂くのです。

 キリストの場合は儀式上ではなく文字通り罪が置かれたのです。キリストは私達の罪を一身に背負って十字架にかかられた。これこそが、神の定められた唯一の救いの道でなのです。

3.「癒された」経験

 キリストの苦しみを見ているイザヤは、その打ち傷によって私達は癒された、と確信したのです。これをもたらせたのは、信仰でした。イザヤは、信仰によって預言のキリストを見ただけであったが、それを恰も既に起きたかのように受け取って、「癒された」と過去形で言い切ったのです。とするならば、既定の事実を持つ私達はもっと単純に十字架の救いに頼って良いのではないでしょうか。


終りに

 チャック・コルソンの回心の物語を昨年の特別伝道会でしたことがあります。実は、そこで話さなかったその後の物語があるのです。彼はウオーターゲート事件で有罪となり、服役しました。ある時、彼と共に有罪となった他の三人に恩赦が与えられたのに、彼一人は残りました。悪いことに、その頃彼の息子がマリファナに手を出して逮捕されました。

 その事を知った友達で、元の国会議員が彼に電話をかけてこう言ったのです。「昔の法律を調べて見たら、他の人が自発的に刑期を身代わりとして勤める事が出来る事が分かったよ。あなたの家族はあなたを必要としている。でも私は一人住まいだ。私が大統領に頼んで、あなたの代わりに残りの刑期を勤めてみようと思っているんだ。」

 それを聞いたコルソンは、こう述懐しています。「こんなにも素晴らしい隣人愛は、想像に絶するものであった。・・・これこそ福音の核心ではないか。・・・私はその日、これまでになく鮮やかに主を知った。今まで、主のお臨在を感じることはあったが、今度は友人のひたむきな愛をとおして、キリストの力と愛とを知った。」そして彼は刑務所でひざまずいてその恵を感謝し、釈放か否かも含めて一切を主に委ねたのです。

 「それはまさに山頂の経験であった。私の周囲も、天上も、すべてのものが喜びと愛と美しさでみなぎっていた。自分の行く末が暗黒そのものであるにも拘わらず、正真正銘の自由を味わったのである。」(実はその二日後に、彼は恩赦で釈放された)。看守が「自由になっておめでとう」と言ったとき、コルソンは「ありがとう。でも主は三日前に私を自由にして下さっていたんですよ。」と証したといいます。

 罪の故の傷も含めて、私達には多くの癒しがたい傷を持って生活しています。他人の悪意ある言葉によって受けた傷もあるでしょう。失恋の傷もあるかも知れません。肉体の弱さ、疲れ、失望、人々からの誤解等々、多くの傷を負っているのが人間の現実でなのです。それを全部背負って下さったキリストを自分の救い主として新しく仰ごうではありませんか。そして、もっと進んで、他の人々の傷を癒すべく、キリストの愛を示そうではありませんか

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.4.18