礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年4月23日(暫定版)

イースター講壇

「何故泣くのか?」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書20:1−20:18


導入

イースターおめでとうございます。

主イエスの復活の事実はキリスト生涯の物語の付録ではなくて、クライマックスであり。キリスト教にとっては正にその中心であります。

最近刊行された宣教学の本の中に「福音書が書かれたのは、ただイースターの故であった。イースターが無ければそれらは無意味である。さらにはっきり言えば、これらはイースターの視点から書かれたのである。・・・イースターの経験が、初期キリスト教共同体のアイデンティティを決定したのである。」と記されてます。

イースターがなければ、私達 今日の教会はその存在の意味を失ってしまうのであります。


今日は復活のキリストに出会ったマグダラのマリヤの物語ですが、その前に、復活されたイエスが、どんな人々にどこで何時現れなさったかをみておきましょう。

1)復活の朝 マグダラのマリヤ エルサレムの墓
2)他の女達 エルサレムの墓
3)午後 クレオパと他の弟子 エマオ途上
4)ペテロ エルサレム
5)夕 10弟子 エルサレムの家
6)一週後の日曜夕 11弟子 エルサレムの家
7)暫く後 7弟子 ガリラヤの岸辺
8)11弟子 ガリラヤの山
9)500人以上の弟子 ガリラヤの山
10) ヤコブ
11)復活40日目 11弟子+他の弟子 オリブ山
12)数年後 パウロ ダマスコ途上

この殆どのケースは、悲しみの中にあり、落ち込んでおり、その落ち込みの故にキリストを見失いそうになった人々に主は特別な関心を示してご自身を顕わさました。


3.マグダラのマリヤの人となりについて

1)ガリラヤ湖南西岸マグダラ村の出身

2)イエスにより7つの悪鬼をおいだされた(ルカ8:2)

3)イエスの最も献身的な弟子の一人となった(ルカ8:2、3「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」)

4)罪ある女(ルカ7:36以下)→彼女のことかもしれません。

5)十字架(マタイ27:56「その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。」)と埋葬の目撃者(マタイ27:61「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」)

6)イエス復活の報告を天使から聞きペテロへ報告(マルコ16:1「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」)

7)イエスが現れた最初の人物(マルコ16:9「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」)


4. マリヤの心と生涯に起きた心の変化

A.感恩(かんおん−感謝ともいいかえられます)

自分の生涯が罪の深みにはまっていた所へ、主イエスが訪れ、人生を変えて下さった、この感恩が弟子の中で誰にも負けない献身をもって主に仕えさせる原動力となっていました。それは「始めに」の中で述べました。そして、それが復活の朝の出来事に も現われているのです。

1.朝早く香料を持って墓に出かける。1節a「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうち(他の福音書によれば明け方)に墓に来た。」

2.転び去った石を見る。1節b「そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」

3.ペテロへの報告(この辺りは、福音書記者の間にやや混乱があり、正確な出来事の順序は定め難い)

4.ペテロ、ヨハネの来訪と確認

5 そして、からだをかがめてのぞき込み(墓の入り口は小さかったようである)、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。

6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、

7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に(死体が置かれていたままの状態を示して)巻かれたままになっているのを見た。

(これらはイエスの体が泥棒などによって慌ただしく運び去られたのではないことを示す。もっと積極的には、蝉の抜け殻の様に、イエスが違う次元に昇華された事を示す。)

8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

(ウェスレアン注解は、少なくとも奇跡的な方法で体が取り去られたという事実を信じたと説明している)

9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

(彼らの無理解は甦りの必然性についてであって、その事実ではなかった。換言すれば、聖書の預言が復活の救い主を示すこと、その預言の成就がイエスによったことが理解できなかった。)

10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。


B. 悲嘆

この不可解な出来事に遭遇したマリヤの心を覆ったものは悲しみでした。

1.その悲しみは、飽くまでも自分の描いていた固定観念から来たものでした。

2.その固定観念が彼女の心を曇らせて、イエスの事実からも遠ざけてしまったのです。


C.誤認

 イエスを見ながら、認められないマリヤがその次にあります。
1.マリヤは振り返ってイエスを見ました。見たのですが、イエスを認識しなかったのです。イエス の姿が違っていたのでしょうか。そうは思えなません。いつもの主がおられたのです。

 涙で目が曇ってい たのでしょうか。そうかも知れません。心が動転していたからでしょうか。そうかも知れません。でも最大 の理由は、イエスがそこにおられる筈がないと頭から決めてしまっている先入観であります。

2.如何に屡々私達は、この先入観で信仰の目を曇らされてしまうことでしょうか。こんな所 にイエスがおられる筈がない、と思えるところにイエスはおられるのです。

それは、良い意味でも悪い意味でも、であります。私達が病の友を訪ねるとき、主はその友の姿でおられます。牢屋を訪 ねるとき、囚人の姿でおられます。私達のどんな小さな愛の業についても、それを忘れ ない受け入れ手として主はおられるのです。

 主は多分悪い遊びの場所にもおられます。見られ ては具合の悪い場所にもおられます。絶体絶命のピンチに立って、誰も私達を振り向い てくれないという孤独のただ中にも主はおられます主が一番近くにおられるのは砕か れた魂に対してであります。

 詩篇 34:18に、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、た ましいの砕かれた者を救われる。」とあります。イエスの現れなさった一人々々とその状況を見る と、ほぼ例外なく、砕かれた、失望した魂に対して主は自らを現しておられます。

 二人 の弟子もそう、ペテロもそう、7人の漁師達にしてもそうであったのです。

 このイースターの朝、私は一番淋しくて、問題が多くて、厳しい状況にある、と考えている方がおりますでしょうか。その方にこそ、主は近くにあってご自身を示し給うのであります。


D.喜び

イエスを認め、喜びに溢れ、更にその喜びが彼女をして証しの生涯へと駆り立てて行ったのです。

1.何故泣くのか、と問われる主であります。復活の預言があり、徴があり、その知らせもある ではないでしょうか。何故、それを信じないのか。厳しくその不信仰を責める訳ではなく、優しくその不条理を責めておられるのです。

2.マリヤよ、と優しく励ます主。(16節「イエスは彼女に言われた。『マリヤ』」彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ』(すなわち、私の先生=この場合の先生は、人間的なものではなく、神的な先生である、という注釈もある)とイエスに言った。」主は、私達一人一人を名をもって呼び、励まして下さいます。十把ひとからげでは なく、個人に関心と愛を示されるのです。

3.信仰を高めようと導く主であります。

私達の信仰が肉につく物 ではなく(目に見える物、手で触れる物に従っての信仰ではなく)霊的なもの(感情 に囚われない、確固とした神の事実にもとづくもの)に昇華されるために主はさわる なと語られたのです。

4.証しの生涯へと変えられました。(18節「マグダラのマリヤは、行って、「私は主に お目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子た ちに告げた。」)


終りに:

今日も復活された主は心の傷めるもの、病めるもの、苦しんでいるもの、嘆きの中にあるものに向かって、「○○さん、何故泣くのですか。」と問うておられます。

1.まず、私達の理解者として:責める為ではないのです。「あなたが泣く気持ちは充分に分かりますよ。」

そして、真の解決者として:「でもあなたが泣かなければならない理由は私が十字架において全部引き受けて終りにしたんですよ。何故それを単純に信じませんか。」と迫っておられるのです。

2.私達はそれを聞きつつも、悲しみの大きさの故に、或いは、イエス様はこんな場所におられる筈はないと言う不信仰のゆえに、泣き続けてはいないでしょうか。小さな 子供が何かの拍子に泣き始め、その理由が去ったにも拘わらず、泣きやむきっかけを失って惰性的に泣き続けているように、です。

でも、私達に語りかけ給う主に、私達は心か らの感謝と愛を込めて「私の先生」ラボニ、と呼ぼうではありませんか。主はいと近く在っ て応答して下さいます。

3.更に私達はマリヤのように、イエスにその復活の事実を多くの人にのべ伝えることを委託されているのです。

私達の内に生き給う主を、生活と言葉とをもって証しようではありませんか。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by K. Ootsuka on 2000.4.25