礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年4月30日

「あなたにとって、難しくない」

井川 正一郎 牧師

申命記30章1〜20節

中心聖句

11まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

14まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

(30章11、14節)

アウトライン:

 カナン入国直前、モーセは民に語った。「神に従え。従うことはあなたにとって、難しいことではない。そうすれば大いなる祝福が注がれる。」

 これは、今日の私たちにも当てはまる。

 神に従うことが、難しいか否かは、私たちの心の性質が変えられているか、否かにかかっている。

 祝福の道は他にはない。どんな時でも神を信頼して、従おう。マイペースでよい。神様は、どんな問題にも解決を与えて下さるから。

教訓:神に従うことは難しいことではない


導入

11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

 申命記を改めて学ぶ機会が与えられ、感謝です。

 申命記は、カナン入国直前、モアブの地で指導者モーセが、いわゆる第二世代の者たちに向かって語った律法の再述が記録されています。出エジプトの後、ヨシュアとカレブ以外はみな荒野で亡くなります。指導者モーセも例外でなく、約束の地に入ることはできないのです。いわゆる第二世代が約束の地に入ることが許されるのです。

 しかし、モーセは、亡くなる直前、約束の地を目前にしているイスラエルの第二世代の者に向かって、お父さんやお母さんなどが犯した過ちにならわず、多くの異教の民の中にあっても常に神から与えられた律法・おきてに従うようにと、再確認の意味を込めて、また遺言のようにメッセージを語りました。加えて、そのように歩むならば、大いなる祝福が注がれると述べたのです。

 申命記は、モーセの三つの説教から成っています。大まかに、次の通りです。

@1〜4章: 今までの回顧、吟味。

 戦いとともに過ちをも記しています。そして何よりも大切なことは、神のおきてに従順に間き従い、行うことだと述べています。

A5〜28章: 基本的な教え、礼拝・捧げもの、実際生活の中での諸規定・きまり。

 これから、カナンの地に入ろうとしている、壮年男子だけで60万ちょっと、女・子供などを合わせると200万あるいは250万といわれる人数になる民です。他でもない、神に選ばれた、神の民としてふさわしく生活していくための、実際のきまり・規定が詳細に記されています。

B29〜34章: 契約の回顧・更新。


 今日の筒所は、その三つ目の部分。神との契約を回顧、更新・刷新の箇所です。モーセは力強くメッセージを語っています。29章は、祝福の契約とのろいについてです。そして、祝福か、のろいか、の分かれ目は、30章2節にあるように「聞き従うなら」か、「間き従わない」かです。

 で、聞き従い、生活の中で根づかせ、行なっていくとき、その結果としての神の祝福について、具体的にいくつかのことが、この30章に記されているのです。

 実はここにある祝福は、申命記のかぎとなる大切なものです。今日は開きませんが、他の箇所にも繰り返し繰り返し出てくる約束・祝福なのです。

 聞き従い、行なっていくとき(生活していくとき)、伴う約束、祝福は、

 1)長く生きる、生きる(30章6、16、18、19、20節)

 2)ふえる、多くされる、所有する(30章5、16、18節)

 3)幸せになる(4章40節、5章16、29、33節、その他、6章、12章、28章など)

 です。

 そして、もう一度確認しますが、このような幸せ、長く生きる、ふえる祝福の約束の条件は、神のおきて、規定に対し、主を心から愛し、従う心をもって間き従い、行なっていくこと、なのです。

 この短いひととき、この神のおきて、ことばに間き従うこと、行なうこと(生活していくこと)は、そんなに難しいことではない、これを行なうことができるということに心を向けたいと思っております。(11〜14節)

 「神のおきて、ことばに聞き従うこと、行なうことは、あなたにとって、難し過ぎるものではない」「あなたにとって、難しくない」一これが今日のメッセージです。

 今日の話の順序ですが、まず、「なぜ難しくないかの理由」を考えてみます。そして次に「なぜ難しいと感じるのか、その理由」もいくつか考えてみたいと思っております。


1.「難しくない」理由

 「遠くかけ離れたものでないから、近くにある=ごく身近にあるから」です。

 遠くかけ離れたものではなく、天や海の彼方にあるのでもありません。あなたのごく身近にあるのです。どれほど身近かといえば、あなたの口にあり、あなたの心にある、とあるとおりです。

 これらのおことばをもう少し分析して考えると、二つの面が語られています。

誰でもできる。つまり、人によって差があるとか、そういうものではありません。

「みことばは、あなたのごく身近にあり」とは、神の近き臨在があり、臨在に伴う力も付与されることを意味しています。神がおられるからこそ、そこにきよくされる力が示され、そこに神がおられるからこそ、人間の人格の変貌が示されるのです。

 今、述べたように、だからこそ、あなたはこれを行なうことができるのです。これは新約の神の民である我らにも向けられています。あなたはできる。難しくない。たやすいものである。これで説教が終われぱ、バンバンザイです。でも、でも、でも・・。5月1日のメーデ一のデモではありませんが・・(笑い)。

 この11節のおことばは、「やさしい」といわず、わざわざ「難しくない」といっているところに何かがありそうでうす。まさしく、そうなんです!。神のおきて、ことばに間き従うことが、人間に難しいと感じざるを得ない何かがあることが予想されているのです。「やさしい」といえばいいものを、わざわざ「難しくない」、否、「難し過ぎることはない」と書いてあるのは、意味深長です。

 ということで、これから、難しいと感じる理由は何かを分析したいと思いますが、これを考えると、そうだ、なるほど、うん、思い当たることがあるとうなずき、やっぱり難しいんだよと、変に納得してしまう可能性があります。それじゃ、困るわけです!。難しいと感じる理由を突き止めつつ、それを難しくないとするようにお互いとしたいわけなのです。


2.「難しい」と感じる理由

 一般的には、次の4つの理由が考えられます。

@能力的にみて、難しい

 私の能力・力からみて、私には出来ません。不可能です。

A性格的にみて、私の性格では向かない

 もう少し角度を変えると、趣味の間題といってもよいでしょう。心をひかれるものが違う、やる気がおこらない、好きでない、興味がわかない、やりたくない。性格・趣味・趣向の間題で、むずかしいのです。

B立場的にみて、私の今の立場を考えると、その立場にはない

 それは課長の立場が責任をもつべきもの。私のような平社員ではできない。むずかしい。

C経験的にみて、難しい

 これは初めての経験・体験という意味で言っています。今までそんなこと、やったことがない。今まで経験したことがない。出来るかどうかわからない。不安だ。まさに、今までの私の生活・人生を考えてみても、今までの生涯にはなかったことであり、初桃戦ともいうべきものです。


 民にとって、神のみことばに間き従うこと、みことばによる生活、今までの人生の中でやったことがありません。経験したことがありません。どうやればよいのか不安です。というわけで、難し過ぎると、民は感じたのです。

 言うまでもなく、人間のもって生まれた罪のそのままの性質を持ち続けるかぎり、神のみことばに間き従うことは、難しいのです。はっきり言って、出来っこないのです。おしきせといった、抵抗を感じるのが人間の本来の性質なのです。その性質が変わらないかぎり、根本的な解決はありません。

 難しいか.難しくないか、それは心の性質が変えられているか否かにかかっているといって過言ではありません。

 ですから、難しくないとするために、その第一歩は「主に立ち返り」(2、10節)にあるように、罪の問題の徹底的解決、即ち心の性質の交換・取換えをしなければなりません。救いの経験です。また、罪ゆるされていても、なかなか世的なことから心が離れられない心の姿があるならば、まさにきよめの経験を必要とするのです。そして、お互いのその土台にたって、成長・成熟・訓練が必要ということになるのです。

 「そこに心があるか(重要事として捉えているか)」。出来るか出来ないかの大きな分かれ目は、いつもそこにあるのです。徹底して、きよめかどうかの分かれ目は、常に時間の使い方、お金の使い方、肉体の使い方など実際面を見るとすぐわかります。『そこに心があるか』とは、すなわち、神のみことばに従うか、神の御旨に合わせることを喜ぶか、です。


終わりに

 最後に、神に従うことが「難しくない」と感じるために必要な実践的なことを3つ述べて終わりたいと思います。

@心の性質を取り替えていただこう

 主と1つとなることが出来るように、心の性質を取り替えていただきましょう。

A聖書に近づく努力をしましょう

 そのためには、段階を踏まなければなりません。

 まず、聖書の言っていることは言わば理想であり、現実はもっときびしいものだ、という考えは捨てて下さい。聖書こそが唯一の真理なのです。

 次に、正しいこと、正論を述べれば、人はついてくるかといえば、そうではありません。こうすればよい、こうしなければならない、正しいことだと分かっているのですが、正論は、返って冷たく感じ、人が離れて行ってしまうことがあります。心の間題には、心のこもった対応が必要なのです。

 一人の説教者がある時、ある婦人に言われたそうです。「先生の説教、聖書に基づいていて、正しいことであることはよくわかるのです。でも、礼拝が終わると、とても悲しくなります。説教を聞いて、恵まれたと思ったことがないのです。」

 受け手、すなわち、その女性の受けとり方・心の姿にも課題はあるのでしょう。でも、考えさせられる問題です。

 聖書の真理・正しさは常に強調されねばなりません。でも同時に、ある人にとっては、そこに至るまでの階段を付けてあげる必要があるのです。階段がないとき、その人は、私には無理、理想、困難・難しすぎる、否、不可能だとのあきらめ・寂しさが出て来るのです。しかし、自分でも登れそうな階段を見出した時、それを人が意識出来た時、そこに心の変化・信頼関係・温かさが加えられるものです。福音のメッセージはきびしい罪の現実とともに、それを解決するための温かさが必要なのです。

B「ふつう」を心がけましょう

 「ふつう」がよいのです。それ以上でも、それ以下でもない。平几がよいのです。肩肘張らず、良い意味でのマイ・ペースで、神の道を歩みましょう。急ぐことはありません。一歩一歩確実に前に進めばよいでしょう。

 一昨日、神学院である先生と短くお話ししました。「先生、ペ一スがつかめていますか。順調ですか。」と尋ねたら、その先生は「ふつうです。」と答えられました。「平几こそ、非凡ですね」(笑い)。

 そうです、ありのままでよろしいんです。「ふつう」の生活でよいのです。だから、難しくないのです。


 モーセは言っています。「あなたにとって、難しすぎることはない」と。

 これから締め括りの讃美を歌います。この527番(Trust and Obey、主のことばの光のうち)の折り返しの英語の歌詞は「祝福の道は他にはない。信頼し、従うことだ。まさにどんなときでも、キリストの神に信頼し、従うこと。」というものだそうです。

 皆さん、何に難しさを感じていますか。救いですか、きよめですか。お互いの人間関係ですか、仕事に対する自分の能力にですか。今日、神様はあらゆる問題に対して答えを与えて下さいます。「難しすぎることはない」。これが今日のメッセージです。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.4.30