礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年5月7日

ガラテヤ書連講(8)

「始めも終わりも信仰によって」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ人への手紙3章1-14節

中心聖句

3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

(3章13節)

アウトライン:

 パウロはガラテヤの教会の人達が、教会に入り込んだ律法主義の人達の「信仰も大切だが努力して律法を守る事もまた大切だ。」という教えに易々と迎合してしまったことを厳しく叱っている。

そして、救いの原点はイエス・キリストの十字架の救いを単純に信じる信仰にあったはずであり、その後の成長も、救いの完成も、全ては信仰のみによるべきであることを説いている。

日本のクリスチャンのイメージは「真面目」というもののようだが、真面目すぎて努力に頼りすぎることは、かえって自分の力で全てをなしうるという傲慢に陥りがちなものである。

もちろん努力や良い行いが悪いといっているわけではなく、それらは自分の弱さを認め、全てを神にゆだねた本当の意味での信仰を持ったときに、その結果として自然に現れるものである。

信仰の世界に頑張りは要らない。リラックスして神に全てを委ね、頼り切った信仰を持って歩もう。

教訓:全ては信仰による


導入
前回まではガラテヤ書の1章と2章でクリスチャン経験の消極面としてキリストと共に死ぬこと、積極面としてキリストと共に生きるとは、何を意味するのかを学びました。

1章と2章はいわば準備段階で、パウロは自分の伝えようとしている福音がゆるぎのないものであることを述べ、自分のうちに生きているイエス様を紹介しています。

そして、この土台の上に立って、3章から本題に入ってガラテヤ人の直面している具体的な問題に直接触れゆきます。医者に例えればいよいよ手術が始まると言えましょう。


ガラテヤ人の脱線について

その手術の最初の言葉が、「ああ愚かなガラテヤ人」となっています。皆さんもいきなり愚かだなどと言われたら愉快では無いでしょう。しかし、彼らはそういって叱責しなければならないような状態にあったのです。

3章の1節から5節までの部分では、5つの質問という形で機関銃のような叱責を浴びせております。

これらの5つの質問は、実は答えが明らかなものばかりです。パウロはこれらの質問によって「あななたたちは間違っています。考え直してください。」ということを言おうとしているのです。


1. 誰が十字架の恵から逸脱させたか?(1節)

「3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」

第1コリントの2章1〜2節には、

「2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」

とありますが、パウロの説教の中心は常に十字架につけられたイエス・キリストであり、ガラテヤの人々は、その十字架の物語に感動し、十字架に架けられた主イエスを信じる単純な信仰によって救われました。

ここには「ああそれなのにノ」というパウロの思いが込められています。それなのに彼等は、律法主義者達が入り込んで、「イエス様の十字架も大切だけれど、神の定めた律法を守り行うことは、もっと大切です。」という実質的には主の十字架の意味を全く否定してしまうような教えを広め始めた時に、その危険を全く意識しないで、「愚かにも」易々とその教えについていってしまいました。

ここで用いられている「迷わせる」という言葉は、文語訳の聖書では「たぶらかす」という言葉が用いられておりました。

また、私の持っている英語の聖書では

"Who has bewitched you?"と、魔法をかけるという意味のbewitchという言葉が用いられています。

生まれたばかりのクリスチャン達を魔法にかけて間違った方向に持っていってしまったのは、ユダヤ教を固く信じていてキリスト教とユダヤ教を結びつけようとした律法主義的な人達です。

彼らは、「イエス様を信じるというそんな単純なことだけでは天国には行けない。それも大切だけれど、掟をきちんと守ることはもっと大切だ。」と説きました。

パウロが冒頭で「愚かな」と言っているのは、正しい事と悪い事が見分けられない愚かさを指しています。


2. 聖霊の賦与は信仰によった筈?

「3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」

パウロはガラテヤの人達に、「あなた方はどうやって救われたのでしょうか?一生懸命努力して、頃合を見て適当なところで、そろそろ十分だと判断して洗礼を受けたのでしょうか?そうではなくて、本来罪人である私達はただイエス・キリストを信じることによって救われたはずです。それをあなた達は、良い行いで信仰を勝ち取ったように錯覚してはいませんか?」と問うているのです。


3. 救いの完成は信仰による筈?

「3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」

車に例えれば、「信仰」というエンジンで順調に走り出したのに、途中でエンジンを取り替えてしまってはうまく走れるはずがないだろうということです。尤も最近はハイブリッドカーなどと言って、ガソリンエンジンとバッテリーの2種類のエンジンを走行中に切り替えて使用している車もありますので、車に例えるのはうまい例えではないのかもしれませんが。

ここで、「肉によって」といっているのは、ハムやソーセージや牛肉、豚肉のことではありません。また、私達の肉体のことだけを指しているのでもありません。それを私なりに定義しますと「神を抜きにした人間的な性質」のことを指しています。

それは悪い方に向かうと「罪」になり、良い方に行こうとすると「努力」になります。そしてここでは、律法を守ろうとする人間的な努力を指しています。

しかし「努力」によって天国に行こうとするのは、まるで足踏み飛行機で天国に行こうとするようなもので、大変すぎて到底できることではありません。肉によって完成するとはちょうどそのようなことを指しています。


4. 信仰の苦しみを無駄に?

「3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。」

「あれほどのこと」が何を指しているのかについてはいろいろな解釈があります。

新約聖書「使徒の働き」に記されたパウロのガラテヤ地方での伝道旅行では、神のように奉られたかと思うと、神では無いとわかると一転して迫害にあったりして、苦しみの連続でした。その中には、伝統的なユダヤ教の教えに反するという理由によるユダヤ人による迫害と、今まで聞いたこともない教えという理由によるユダヤ人以外の人による迫害の両方がありました。

同じように、ここで言っている経験とは、信仰をもった事から来る迫害、苦しみを意味しています。

つまり、「あなたがたガラテヤのクリスチャンはキリスト教信仰を持ったその事実の故に、ユダヤ人からもまた同郷の異邦人からも迫害されました。それ程までに戦ったあなたがたの苦労は、信仰を放棄することで無駄になるのですよ。信仰の故に迫害されながらもそれに耐えていたあなたがたが、その信仰を放棄したらその忍耐は無駄に終わることになるのですよ。」とパウロは警告していることになります。


5. 聖霊の働きは律法の遵守の故か、または信仰の故か?

「3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」

これは第2節の質問の繰り返しのようですが、一歩進んで、信仰のプロセスを記していま
す。

御霊を与えられるとは信仰生活の最初の経験である救いの経験を指しています。

「奇蹟」とは、単に「力」でありまして、信じる者の内面に働く力、そして、それが外面に現れるときは、奇跡となって現れる聖霊の力のことです。

新約聖書「ローマ人への手紙」10章17節には、

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

とありますが、救いは聞くことから始まります。誰も聞いたことの無い方をとらえる事はできないのです。

そして信仰を持ってイエス様の十字架の物語を聞いたときの反応は「わかりました。信じます。」というものであったはずです。

ローマ人への手紙の10章5節以降の部分で、パウロは申命記30章のモーセの記事を引用して、掟を守るという旧約聖書の真理と、それは実は信仰によってなされるという新約聖書の真理をうまく重ね合わせて説いています。

10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

以上の5つの質問の後に、信仰による救いが正しい理由として、アブラハムの例(6−9節)をあげ、律法の限界(10−14節)を説明していますが、この部分は来週以降に詳しく説明したいと思います。

3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
3:12 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」

以上をまとめますと、信仰によって救われ、信仰によって生かされ、信仰によって救いを完成させるのが正しいあり方であるとパウロは説いているのです。


B.まとめとして

終わりに、今日学んだ1−5節の質問を、肯定的な形で幾つかの項目にまとめたいと思います。

1. 真面目クリスチャンの落とし穴「傲慢」

昨年連講を致しましたコリント人への手紙第一におけるコリントの教会の問題は教会に世俗的な要素が入って来た事にありましたが、それとは対照的にガラテヤの教会の人達は真面目でした。しかし、その真面目さの方向が少し間違っていて、そこに落とし穴があったわけです。

日本社会でのクリスチャンのイメージは、「まじめだ」というもののようです。これは良い意味と、少し硬すぎるという意味で悪い意味の両方であるようです。

ガラテヤの人達はまじめに一生懸命努力して神の掟を守ろうとしました。それは一見素晴らしいことのようですが、実際には真面目であればあるほど自分は誰よりも正しいという傲慢な心が強くなってしまうのが問題なのです。

パウロはそのような人達を指して「恵みから落ちている」とさえ言っています。普通恵みから落ちるような人とは不真面目な人のことを指すように思われますが、真面目であるが故に自分の力だけで何事も全うしようとする傲慢さを指して、恵みから落ちているといっているのです。


2. 救いの全ての過程は信仰による

ここに図にしましたように、初めてイエス・キリストの救いにふれた時から始って、その後の霊的な成長の全ての段階は信仰によるのです。

私達は信仰によって救われ、罪を帳消しにしていただいて義と認められます。全ては人間の力は無であり、全ては神の力によるという事実を認める「信仰」によって始まります。

信仰生活のスタートがそうであったとすると、その途中である聖化の経験も同様です。一生懸命努力してたどりつくのが聖化ではありません。

使徒の働きの15章9節には、

「私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」

とありますが、努力によって少しずつ聖められるのでは無いのです。そうではなくて、しつこい罪の力から解放されるためには、信仰によってイエス・キリストの力に頼る以外にないと信じることなのです。

ローマ人への手紙の1章17節には、

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」

とあります。また、ペテロの手紙第一1章5節には、

「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

とあります。

救いは、信仰によって始り、信仰によって加速され、信仰によって完成します。全ては信仰によるのです。

つまり、人間側の弱さを徹底的に認めつつ、神の全能を100%頼って生きていくのがクリスチャンの生き様であり、それしか無いのです。


3. 本当の信仰は良い行いに現れる。しかし良い行いが信仰(救い)をもたらすのではない。

そうすると、「ではいったい努力はどうなるのか?」という質問が出てくるでしょう。ヤコブは「信仰、信仰と言いながら行いを伴わない信仰は死んだものだ。」と言っています。

これは、パウロの言っていることと矛盾しているように思われますが、そうではありません。良き行いに現れてこないような信仰だったら、その信仰自体を見直して見なさいといっているのです。信仰と行いとは非常に密接な関係にあります。

いずれにしても根本は、頑張って信仰を維持していくのではなくて、神の全能に頼りつつ生きていくことなのです。

人間というものは何か目標を欲する性質があります。

ある船が嵐に遭った時、乗客の一人が、「船長、私に何か出来ることはありませんか。」と甲板をぐるぐる回りながら、しつこく尋ねました。あまりうるさいものですから、船長は、「そうですね。そこ、そのロープをしっかり引っ張って下さい。」と頼みました。その乗客は張り切って、嵐の間中そのロープを引っ張り続けました。嵐が終わって「船長、良かったですね。船が助かって」と声をかけた所、船長は「お客さん。どうも有り難うございました。本当に有り難う。」と声を掛けました。でもその後に小さな声で「静かにして頂いて本当に有り難う。」と呟いたそうです。

信仰の世界に頑張りは要りません。リラックスして神に全部を委ね、頼り切った信仰を持ちましょう。主はそれに答えて下さるお方です。

「私は信仰がどうもうすい、信仰が乏しい。」とぼやく人は、実はどこかで自分の力により頼んではいませんか?どうか、「信仰が乏しい。」ということを言い訳にしないで下さい。

どうか「よし頑張るぞ!」ではなくて、「私は無力なものです。どうか、一歩一歩、神の助けによって支えて下さい。」というくだかれた心をもってこの一週をスタートいたしましょう。

ご一緒にお祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.05.13