礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年6月4日

召天者記念礼拝に臨んで

『天の故郷』

竿代 照夫 牧師

ヘブル人への手紙11章8〜16節



16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

(16節)

アウトライン:
 今日は我々の教会で信仰を持って天に召された人々をしのぶ「召天者記念礼拝」に臨んで、ユダヤ人の先祖であり私達の信仰の先祖でもあるアブラハムの人生から、いくつかのことを学び、私達の人生の糧としたい。


導入

 ふるさととは良いものです。一人一人の胸に大切な思い出があり、忘れがたいものです。またそれは、「ふるさとは遠きにあって思うもの」という風に理想化され、そこにやがて錦を飾って帰る目標ともなりましょう。「志を果たして何時の日にか帰らむ。山は青きふるさと、水は清きふるさと。」という歌こそは、日本の国民的讃美歌とも言えるような人気を今でも保っています。実はこの曲の作曲者はクリスチャンだったとうかがっております。

 そのような故郷を天国に持っている人種をクリスチャンといいます。新約聖書「ピリピ人への手紙」3章20節には、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあるからです。

 こうした生き方を如実に示したのが、今から4千年前に生きていたアブラハムでした。彼は、選ばれた民であるユダヤ人の先祖であり、信仰的な意味では私達クリスチャンの先祖でもあるのです。本日は新約聖書「ヘブル人への手紙」の11章8〜16節から、彼の生涯の3つの特色について学び、私達の人生の糧としたいと思います。


A.神に従う生涯

「8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 この地図はアブラハムの旅の足跡を示しています。彼の生まれ故郷はペルシャ湾岸のカルデヤ地方のウルという都市でした。そこはメソポタミヤ文明発祥の地として長い歴史と文化を誇っており、水道設備など当時の近代文明の恩恵に浴していました。一方で、そこは道徳的には退廃した街であり、偶像礼拝の盛んな土地でもありました。アブラハムは神に従うために、生まれ育ったこの地での一切を捨てて約1000キロにも及ぶ、行く先を知らない旅に出たのです。

 その旅で彼が学んだのは「神に従う」ということでした。神がいわば旅行のガイドであり、地図はありませんでしたが、彼にとってはそれで十分だったのです。

 都市に育ったアブラハムにとって、旅先での遊牧生活は大変なカルチャーショックであったろうと思われます。先日テレビで「アフリカポレポレ」という番組でアフリカの未開の部族の生活の様子が紹介されていましたが、ちょうど我々がそれを見たときと同じくらいのカルチャーショックを彼は感じたであろうと想像されます。

 そんな冒険旅行を75才を過ぎてから敢行したところに、彼の神に対する絶大な信頼を見て取ることができます。まさにアブラハムは神に従う生涯を実証した人でした。


B.地上のものに固執しない生涯(テント生活で貫く)

「9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」

 現代のイスラエル人がカナンの地に固執する理由は、そこが彼らの繁栄の地として神によって約束された「約束の地」だからです。その是非については本日は敢えてふれません。

 一方アブラハムは、カナンは彼にとっての約束の地であったにもかわわらず、土地所有には固執せず、野原にテントを張り、牛や羊を飼って転々とした生活を送りました。

 私達は昔の人は、特に中東にいた人々は皆テント生活をしたと簡単に考えがちですが、そうではありません。パレスチナにいた人々の多くは頑丈な家に住み、それを更に城壁で囲むといった安全性に考慮した住み方をしていました。アブラハムの甥のロトはその例です。ソドムの町に住み、入り口も分からないほどの大きな家を建て、しかもロトは町長のような役割まで持っていました。

 それに比べてアブラハムは、妻のサラの埋葬のために象徴的な意味を交えて小さな土地を買った以外には、一切土地を所有しないで遊牧の生活を続けました。それは彼の時代や民族がそうだったというのではなくて、彼の人生の哲学であり、選択の問題だったのです。アブラハムは地上においては、安定した生活よりも、旅人、寄留者としての意識を強く持ち続けたわけです。


C.天国の喜びを待ち望んだ生涯

「13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

 一言で言えばアブラハムは天を故郷と考えて、地上の生活は仮のものと考えて寄留者としての生活を営んでいたということです。

 では何故彼は目に見えない天国に故郷を求めることができたのでしょうか?

 それは彼にとっての天国は単なる作り話では無かったということです。彼にとって神は近しい友でした。

 16節に「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。」とありますが、これは重い言葉だと思います。もし悪い事をして新聞に載った人がイエス様のことを「私の神」と言ったとしたら、イエス様の方で「ちょっと待ってくれ。それでは私の名前がけがれてしまう。」と言って遠慮されることでしょう。しかし、アブラハムは神に近い聖い性格を持っていたので、神は彼の神と呼ばれることを恥とはされませんでした。

 アブラハムにとって神は、遠い星の彼方のお方では無くて、現実的な導き手であり、相談相手であり、良き友達だったのです。従ってそのような神と一緒に暮らす天国を故郷と考えるのは彼にとっては当然のことであったと思われます。そのことは神が近しい存在であったことの延長線上にあったのです。

 その期待の故に、機会はあったにもかかわらず、彼は生まれ故郷に帰ることを一生しませんでした。それは故郷が嫌いだったからではなくて、より素晴らしい希望があったからです。

 昨年亡くなられた飯島姉妹は、亡くなられる前に病院で「天国は素晴らしいところですよ。」といって看護婦さんや周囲の皆さんを誘っておられたとのことです。

 私達もアブラハムや飯島姉妹のように地上のものにこだわらない生涯を送りたいものです。


D.私達の生き方

 私は地上の生活はどうでも良いといっているのではありません。地上の生活を余り陰遁的、否定的、消極的に考えることは良くないことです。しかし、それに固執してもなりません。地においては旅人、寄留者としての意識は大切です。どんな富も、広い土地所有も、名誉も、肩書きも、全部それらは過ぎ去ってしまうことではありませんか。それらに囚われたり、追い求めたりする人生は愚かです。ある目的を実現するための富、地位、土地等は必要かも知れませんが、これらは飽くまでも手段にしか過ぎません。

 二十世紀、二十一世紀は大量生産・大量消費の時代で、多くの人が「物」に埋もれ、「物」にとらわれて生きている時代のように思われます。その中にあって、地球環境の点からも物にとらわらない生活、「シンプルライフ」を考え直す必要があるのではないでしょうか。最小限のもので豊かに生きていくことは大切なことだと思います。

 私達がケニアにおりましたときに、あるお金持ちから50エーカーほどの土地を持たないか、と話しを持ち掛けられました。50エーカーは6万坪以上となるでしょうか。条件はただ一つ、「家内の皓子が手に豆を作って耕すならば」というものでした。でも有難くお断りしました。理由は二つ。私達は外国人だからということと、もう一つは、家内が手に豆を作るのはしのびないから、ということでした。今から思うと、ちょっとあっさり断わり過ぎたかなと思えなくもありませんが。(笑)

 ただ少ないだけではなくて、心の中に豊かさが培われることによって、私達は最小限のもので生きてゆくことができるのです。その豊かさを与えてくださるのは、キリストご自身であります

 物の代わりに私達の求めなければならない事は、アブラハムのように、確かなもの、動かないもの、永遠に続くものであるべきです。それをアブラハムは神の現実と、その都である天国とに見い出しました。私達もそれに沿って生きたいものです。

 「慈しみ深き友なるイエスは」という賛美歌がありますが、社会にあって様々な逆境や苦難や誤解と戦っている私達にとって、すべての醜い罪を背負って十字架にかかられたイエス様が友人としていて下さることは、どんなものにも勝る素晴らしい宝です。そしてこの方を心の中にお迎えした人には、やがて死の川を越えたときには、もっと豊かな人生が待っているのです。さらに、その豊かさを心に持った人達との交わりが地上の人生をも豊かにするのです

 私も50才代になって、人生の半ばはとうに過ぎましたが、天国にいる友人の方が多くなったように感じています。そのことは一面寂しいことではありますが、一面ではにぎやかな天国入りができるという喜びでもあります。

 クリスチャンにとって、天国でイエス様とお会いすることが最大の喜びでありますが、先に亡くなられた愛する方々と再会することも大きな喜びであります。

 地上生活はその準備と思って、豊かな人生を過ごして欲しいと思います。


終わりに

 ここにご出席の皆様は、先に天に帰られた方々の良き思い出を心に抱いてお集いと思います。私達は敢えて冥福を祈るという言葉を使いません。神はその方々には既に豊かな冥福ならぬ天福を与えていて下さるからです。

 私達の関心は私達自身です。この先達の例にならって、神を仰ぎ神に従った人生を辿ること、この先達の既におられる天国に私達もふさわしい入国をすることが、彼等の喜びではないでしょうか。

 天の故郷を私達の故郷とさせて頂きましょう。

 お祈り致します。


Edited by T. Maeda on 2000.6.7