礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年6月11日

五旬節講壇

「御霊に満たされなさい」

竿代 照夫 牧師

エペソ書5章15〜21節

中心聖句

18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

(5章18節)

アウトライン:

パウロはエペソ書4〜5章で、クリスチャン生活がいかであらねばならないか、について述べているが、その中心は、「御霊に満たされなさい」である。

今日は、この「御霊に満たされなさい」について、4つの角度からコメントしたい。

@ 「御霊に満たされ」れば、酒でもって自分を楽しませる必要がなくなる。

A 「御霊に満たされなさい」は受け身形である。すなわち、満たすお方は神であって、私たちは努力(行動)するのでなく、受け身的に明け渡し、待ち望むことが必要である。

B 「満たされ続けなさい」(継続的な命令)というのが直訳である。

C 「御霊に満たされなさい」は、当時のクリスチャンのみならず、現代の我々を含めたすべてのクリスチャンへの命令である。

今、私たちの心を満たしているのは何であろうか。世の快楽か、憎しみか、嫉妬か、それとも常に喜び、常に祈り、感謝するところの御霊であろうか。

教訓:御霊に満たされるとはどういうことか


導入

 今日はペンテコステ、教会のお誕生日であります。ロウソクもケーキもありませんが、教会の誕生をお祝いしたいのです。教会がどのように誕生したかについて使徒の働き第2章1節から4節まで、見てみたいと思います。

使徒2:1 五旬節の日になってみなが1つのところに集まっていた。

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。

 この説教によって、この時1日に3千人がイエス・キリストを救い主として受け入れる決心をし、その固まりが教会となったのであります。

 今読みましたところに「五旬節」と書いてあります。これは、ペンテコステ、ギリシアの言葉では、「第五十」という意味でありまして、ユダヤの三大祭の一つです。

 ユダヤ教では、1年に3回、大きなお祭りがありました。

@1月(今の太陽暦の3、4月):過越の祭

A3月(同5、6月):7週の祝(五旬節)

B7月(同9、10月):仮庵の祭

 となっています。

 五旬節は余り目立たないお祭ですが、モーセが律法を授与された事も記念する大切なお祭です。

 過越の祭で葬られた主イエスは三日後に甦り、その40日後に天に昇り、その10日後即ちペンテコステに約束の聖霊を注ぎ、教会を誕生なさったのです。

 一番大切な出来事というのは風でも火でもなく、4節の「みなが聖霊に満たされた」という出来事です。


 それでは、エペソ人への手紙に移りたいと思います。

15-17 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

19-21 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 ここでは、ペンテコステに起きた出来事が、クリスチャン生活の中に保たれ、繰り返されなければならない、ということをあらわしています。

 今日は、司会者に読んでいただきました個所から、5章18節、この1句だけに絞りたいと思います。

18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 中心は、「御霊に満たされなさい」です。今日は、このことについて4つの角度からのコメント申し上げて、終わりたいと思います。


1.「酒に酔う」と「御霊に満たされる」の対比

 御霊に満たされることは、この文章では酒に酔うこととの対比で述べられている、ということです。人間の心は丁度おもちゃ箱のようにいつも何かに満たされている訳ですが、聖霊に満たされるというあるべき姿を失ってから、それを違ったもので満たそうとしている、その代用品の一つが酒なのでしょう。

 酒によって、聖霊が本来与えるべき喜びを与えようとしている、とも言えますし、逆に、聖霊による喜びを知ったものにはアルコールは不用なものとなりうるのです。チャドウィックは言いました、「アルコールこそは、聖霊を失った人間が求めた危険な代用品である。」と。砂糖のない時代にサッカリンを代用品として使いました。でも代用品には色々な危険があることが後でわかりました。

 聖霊に満たされるとき何が起きるでしょうか。

 第1に、「決して肉の欲望を満足させる事はありません。」(ガラテヤ5:16)とあります。逆に言えば、聖霊に満たされていないと、ガラテヤ5:19〜21のリストにある肉の欲望が心を満たしてしまいます。ガラテヤ書の講解でもここに至ることでしょうが、「御霊によって歩むことだけが、醜い罪の再現を防ぐ保証なのです。」

 第2に、喜びと賛美の生活です。使徒の働きの記録によれば、弟子達が聖霊に満たされたあのペンテコステの時、人々は酒に酔ったのではないかと勘違いをしたのです(2:13)。それ程、聖霊に満たされると心に喜びが湧いて参ります。禁酒・断酒と叫ばなくても、聖霊に満たされる喜びを本当に経験すると、酒でもって自分を楽しませる必要がなくなる、これが本当の勝利であると信じます。

 この18節以下の賛美の生活も、日常生活の中に、賛美の言葉や歌が自然と出てくるような状態を指しています。その中には伝統的な詩篇や、初代教会で用いられていた定型的な歌や、自然にわき上がるコーラスなどが含まれていました。パウロはこの様な賛美と感謝の生活は、聖霊に満たされた自然の結果であると示唆しています。

 第3に、互いに従う生活です。キリストに従い、聖霊に譲る事ができるなら、それと同じ心をもってお互いに譲ることも容易であるはず、とパウロは言っています。

 第4に、実を結ぶ生活です。ここには記されていませんが、パウロはガラテヤ5章で、聖霊にみたされた、聖霊と共に歩む生涯の結果は、キリストの持っておられたような品性の実を結ぶことだ、と語っています。こんなに素晴らしい人生のゴールが他にありましょうか。


2.受身の経験

 これは受け身の形で言われています。満たされなさい、です。私達が一生懸命行動して努力して汲んできなさい、とは書いてありません。満たすお方は神です。私達のなすべきことは、受け身的に明け渡し、待ち望む姿勢です。それだけです。

 具体的に言えば、「聖霊に満たされる」とはどういうことなのでしょうか。アボット博士の定義によれば、「聖霊のご人格が信者の人格を所有し、支配し、指導し給うこと」です。別の言い方をすれば、一個の人格が他のお方の人格に道を譲るという経験であり、人間の人格性が神の人格性に浸透される経験、もはや自分ではなくキリストが生きると言う経験なのです。

 聖霊というご人格を、ガソリンか何かの様な物質と考え、私達の心をそのガソリンタンクのような容器と考えると、大きな誤解をしてしまいます。両方が人格であり、その関係の密接さが「満たされる」という表現になるのです。

 明け渡したら、信じましょう。使徒2章の様なびっくりするような現象は無いかも知れません。それで良いのです。それを期待するから、自分は満たされていないと不信仰に陥るのです。異言が語れない者は二級のクリスチャンだ、などと教える教会もあります。とんでもありません。聖霊に満たされた、とは異常な経験ではなく、人類が元々造られた状態に戻ること、つまり、当たり前の経験なのです。ここを間違ってはいけません。

 聖書の中で聖霊に満たされた人々の記事を見ますと、自分で満たされたと自覚したり、主張したりといったケースは余り見られません。むしろ第三者が、あの人は御霊に満たされていると評価し、恵まれ、信頼するケースが殆どです。私達の側で真実に成すべきことを果たしたならば、主の側でそれを受け取って下さったと信じて委ねましょう。その事実は第三者が気が付いて下さる、それで良いのでしょう。


3.継続的な経験

 聖霊に満たされるのは継続的な命令です。満たされ続けなさい、というのが直訳です。勿論、ある日、ある時に明け渡して満たして頂いたという始まりがなければなりません。使徒2:4はその始まりと見るべきでしょう。使徒2章の場合の満たしはアオリスト時制で、ある転機の瞬間に起こる決定的なものです。しかしこの経験は継続するところに意義があるのです。また、ある特別な必要の時に特別な力の源としての聖霊の満たしを新たに経験することもあり得ます(使徒4:8)。

 満たされ続けなさいという受身が、どうして命令形なのでしょう。満たされる条件を果たし続ける、という事が意味されています。電車で言えば、パンタグラフを下げないで、上げ続ける、ということなのです。具体的に言えば、聖霊と共に歩む関係、交わりを日常のものとすることなのです。

 リポビタンDのように一時的に働く特効薬と考えないで下さい。彼の人格と私の人格が寄り添う形がイメージ的には合っています。かれがリードし、私が従うという意味で・・・。ですからこの文節が「賢い者としての『歩み』」というタイトルであることには意味があります。まさに、聖霊に満たされた日常生活が大切なのです。

 その様な継続が、醜い罪の再現を防ぐ保証であり、麗しい品性の実を結ばせる道なのです。


4.全てのクリスチャンの経験

 これは全てのクリスチャンへの命令です。エペソ書はエペソにいたクリスチャンだけではなく、全てのクリスチャンに当てて書かれた手紙です。しかも、特別な人々ではなく、普通のクリスチャンに当てられたものです。

 「かれらはみな、聖霊にみたされた。」と記されているように、初代教会は皆聖霊に満たされていたのです。ウェスレーは、これこそが教会の当たり前の姿だと説教しています。使徒6章を見ても、御霊と知恵とに満ちた人々を選べ、との要請に対して、苦もなく7人が選ばれました。

 この水準は現代教会のものでなければなりません。聖霊に満たされた学校教師、警察官、ビジネスマン、サラリーマン・ウーマン、学生、主婦、高校生、中学生が、今ほど求められている時代は他にないのではないでしょうか。


おわりに

 今私達の心を満たしているものは一体何でしょうか。目を閉じて各々考えてみて下さい。

 世の快楽でしょうか。憎しみ、嫉妬、そうした醜いものでしょうか。いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝する心でしょうか。心を探って頂いて、御霊に満たされ、さらに、満たされ続ける勝利のクリスチャン生涯を送ろうではありませんか。

 お祈り致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.6.12