礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年6月18日

ガラテヤ書連講(10)

「キリストへ導く『養育係』」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書3章15〜29節

中心聖句

24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

(3章24節)

教訓:律法の意義


導入

今週から再びガラテヤ書の学びに入ります。今日取り上げます箇所は、はっきり言って、大変理屈っぽく、何でこんな七面倒な議論が必要なのだろうと考えさせられる場所です。

できるなら飛ばしてしまおうかとも思いたくなるところですが、神の言葉に無駄はございませんので、なんとか良くその背景を学び、またその議論ついていこうと思います。その中で、皆さんも「ああなるほど!」と思われる点もあるかのではないかと思います。

さて、今日はその議論を成る可く分かりやすい形で再現し、22節の結論的部分で締めくくりたいと思います。3章後半を区分すると以下の様になります。今日はその内、AとBに絞ってお話いたします。

A. 約束>律法(15−18節)
B. 律法の役割(19−24節)
C. 律法からの釈放(25−29節)


A. 約束は律法より重い(15−18節)

 少し復習的に振り返りましょう。このガラテヤ書全体のテーマは、一言で言いますと、人間の救われるのは信仰だけによるのか、または良い行いを積み重ねる努力によるのか、という問題です。

勿論パウロの立場は前者です。パウロはそれを立証するために、先祖アブラハムが信仰によって義とされたこと、そのアブラハムに神が全人類の祝福の源となるという約束をなさったこと、従って、私達がキリストを信じることによって、そのアブラハムへの約束が私達のものとなると語りました(3章の前半)。

この議論の背景には、律法を強調するユダヤ主義者の存在があります。彼らは、パウロが説く福音は伝統的なユダヤ教への逸脱、ないしは変更であると非難していたのです。これに対してパウロは、ユダヤ主義こそ「信仰による救い」というアブラハムの経験からの逸脱ではないか、と反論している訳です。

この文節で繰り返されている約束とか契約と言う言葉はみな、一般的な約束を指しているのではなく、アブラハムを通して全人類が祝福を受けるという特定的なものです。これについてパウロは次の1〜3の三点を指摘します。


1.アブラハムへの祝福の約束は、時を越えて有効

1)一般論として:

15 兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません

パウロは強い調子で、「律法がアブラハム契約に取って替わったもの」であるとか、「変更を加えたものである」と言うユダヤ主義者の主張が間違っていると主張します。日本人には今ひとつ契約の厳密さがわかりにくいかも知れませんが、ユダヤ人社会において一度結んだ契約や約束は絶対曲げてはならない存在です。したがってこう言われるとユダヤ主義者も考え直さざるを得ないわけです。(グローバル化した現代国際社会ではこの点をよくわきまえておく必要があるでしょう)

2)約束はキリストを焦点とする:

16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、 ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

ここで、アブラハムの子孫を団体として言及しています。これは、必ずしも文字通りの単数ではないのですが、パウロはこれを単数のキリストと解釈します。

そして、勿論キリストを通してですが、アブラハムへの神の諸約束はクリスチャンにまで及ぶのです。

3)神の約束は反古にはされない

約束は反故にされないものですが、特に神の約束は反故にされません。我々はこの神の約束(契約)の厳粛さ、 確かさを覚えねばなりません。人間のそれは、状況によって変わるとか、時効とかい って効果が無くなることがありうるのですが・・・。

例えばアブラハムはBC2000頃生きていた人物です。彼に与えられた祝福の約束は一人の人物を通して世界に広げられると約束されました(図1参照)(その証拠に、約束はアブラハムとその一人の子孫であるキリストに与えられたのです)。

そして2000年かかって、キリストが来られ、その約束は成就したのです。またその約束は、現代を生きる我々に対しても依然として有効であり、神は約束に忠実な方としてそれを実行されます。

私達の目からこれを見ると、主キリストの十字架から更に2000年経っているので、最初はピンとこない人もいるのですが、時を越えて存在される永遠の神、約束を違えない神の実質を理解すると、この時間はもはや問題では無いことが判るようになります。


2.約束は、律法の賦与によって変更されたり、無効になったりしなかった

17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

モーセを通して律法が与えられた訳なのですが、そのモーセはアブラハムよりも430年も後の人物です。「後から与えられた」律法(=「信仰によって救われる(信仰の原則)」)が、その前にあった(しかも永遠的な効果を持つ)約束に何の変化も与える筈はないとパウロは宣言します。


3.約束と律法は相容れない

18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。

ユダヤ主義者は、神の約束を付加的な物と考えていたのに対して、パウロは、約束に何かを付け加えるなら、それは約束を無効にしてしまうと考えました。

ユダヤ主義者は「約束+律法」と考えたのに対して、パウロは約束または律法の二者択一だと迫ったのです。アブラハムに相続財産として与えられたのは約束によりました。また律法は約束を無効にしませんでした。

従って、相続財産の賦与が律法によるのならばそれは約束にはよらないものとなるでしょう、とパウロは論じるのです。律法主義者が、信仰も否定はしないが、律法も説くという矛盾を犯している、とパウロは律法主義者の一貫しない態度を衝きます。


B.律法の役割(19−22節)

次に、律法の役割について見て参りましょう。律法を示す三つのイメージがここに示します。(図2参照)

1.警官

19節に「律法とは・・・違反を示す為に付け加えられた」と ありますが、丁度、スピード違反をしたときにパトカーが追跡して、「あなたは120キロで走っていました。これは制限速度の20キロオーバーです。」とメーターを示すようなものです。

私達が何気なく吐く言葉、行動、思い、それらが神の御心に適わない違反行為であることを示すのは律法のつとめです。この事を示すために、

1)質問: 19では、律法とは何でしょうか。」と、律法の目的、意義を尋ねる質問が提出されます。

2)答え:「それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので・・・」とパウロは律法の暫定的な性格を示します。つまり律法は、キリストが来られて罪の贖いを完成するときまでの、罪が罪であることを明確化にするために付与された暫定的な存在なのです。

3)証拠

19 御使いたちを通して<申命記33:2>仲介者の 手で定められたのです20 仲介者は一方だけに属するものではありません。<つま り、律法は神と人間との契約として与えられた。>しかし<律法ではなくて>約束を賜わる神は唯一者です。

つまり、律法は仲介者を通して与えられたが、約束は一方的に直接に個人的に、アブラハムに対して神から与えられた、そこに重さの違いがあるのだとパウロは論じます。


2.牢屋の番人

第2のイメージは牢屋の番人です。

21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょう か。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えること のできるものであったなら、義は確かに律法による<律法を守る結果としての>もの だったでしょう。

22 しかし聖書は、逆に、すべての人を<囚人のように>罪の下に 閉じ込めました。それは約束<相続財産>が、イエス・キリストに対する信仰によっ て、信じる人々に<この繰り返しは、信仰のみによる救いの強調の為である>与えられるためです。

23 <キリストに対する物で、それによって救われる>信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下<逃げられないように>に置かれ、閉じ込められていましたが<彼らが罪の自覚と罰の可能性の自覚から逃れられないように>、そ れは、やがて示される信仰が得られるためでした。

22節には、

しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。」

さらに23節には、

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていました

と記されています。

私達が犯してしまった罪を自覚し、その罪の結果として神が下される罰を畏れる気持ちを牢獄に例えており、その番人の役割をするのが律法だ、とパウロは言っているわけです。

これには、1)より大きな(例えば偶像礼拝や姦淫など)罪から神の民の道徳水準を保ったセイフガード、2)我々に良心の呵責を留めておく、という二通りの解釈があり、私は後者の方が自然ではないかと思います。

「過去の罪の記憶が我々の心を苛む」というその苦しみが、ローマ7:7−21に良く表現されております。

7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

8  しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。・・・

13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

(この辺まではポイント1の警官的な働きを示しています。)

(続く15節以下は牢屋の番人の様な働きを示します。)

15 私には、自分のしている ことがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎 むことを行なっているからです。

16 もし自分のしたくないことをしているとすれ ば、律法は良いものであることを認めているわけです。

17 ですから、それを行な っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

18 私 は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私に は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっ ています。・・・

22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる のに、

23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対し て戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだす のです。

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、 私を救い出してくれるのでしょうか。

死の体」とは、死刑囚が既に死んでしまった他の囚人の死体を自分にくくりつけられて、その死臭と腐敗が自分に移って自分も死ぬ という、残酷な刑罰を現している言葉ですが、正に、私達は罪から逃れたいと思っても逃れられない奴隷なのです。

主イエスもまた、「まことに、まことに、あなたがた に告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と言っておられます。

このような気持ちになるのは、律法に従って生きようとしたことに原因があるのです。罪と死の原理からの解放は、主イエスへの信仰によってのみ成し遂げられるのです。


3.養育係

第三は24節の養育係です。

24 こうして、律法は私たちをキリストへ導 くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためな のです。

養育係という言葉は当時では奴隷として使われていた家庭教師の事を指していたようです。

その教師は、自分が教えると言うよりも、主人のの子供が学校にきちんと出席し、帰りに寄り道をしないかを見張る見張り番でした。

パウロによれば、律法はちょうどこの養育係のように、人間がどんなに努力しても神の標準に到達できないものであることを徹底的に悟らせ、 律法に依らない救い、つまりキリストの身代わりによってのみ罪が赦され、心が清くされることを悟らせる役割があると言うことになります。

彼は、第二テモテ 3:15で、「(旧約)聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰によ る救いを受けさせることができるのです。」と律法の積極的役割を強調しています。


結論:

私達も、多くの場合福音にいきなり触れて救われるというケースは少ないようです。つまり養育係無しに救われますと、浅いキリスト教に理解に終わってしまう可能性があるのです。

たとえば、3-4才の子供が救われるケースでは、このような部分が十分でない点があります。すなわち、罪に対する自覚が十分為されていないケースがあるのです。このようなケースでは、将来罪の重さにきちんとぶつかって、福音のありがたさを理解することが必要です。

その意味で、まじめな生活をしよう、良い人間になろう、といういわば旧約的なというか、儒教的なというか、武士道的なというかの背景があってよいのです。

でもそれを極めた所に福音があるのではなく、パウロが真実に罪に悩み、そのどん底からキリストの贖いの力を見いだしたように、その求道の過程で、真に自分の弱さ、醜さ、神の義の厳しさを悟って、そしてキリストの贖いの価値が分かるというのが自然の過程ではないかと思います。

その時、律法という家庭教師が示す、キリストの贖いの素晴らしさ、恵深さ、尊さを本当に悟って、ただ信じるものとなりたいと思いま す。

今週私はちょっと反語的に皆さんに勧めてみたいことがあります。それは「律法に従って努力して生きてみて下さい。」ということです。そしてその難しさを知っていただきたいと思います。その時本当に主イエスの十字架のありがたさを知る事になるでしょう。

 お祈り致します。


Editied and written by K. Ohta on 2000.6.22