礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年7月2日

ガラテヤ書連講(11)

「キリストにあって一つ」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書3章23〜4章7節


中心聖句

28 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

(3章28節)

教訓:信仰による一致


導入

私たちの救いはただ信仰によっているというのが、ガラテヤ書の主要テーマです。つまり救いは(ガラテヤ教会の一部のユダヤ的なキリスト教徒の言うような)律法の遵守や行いによって達成されるのではないのです。しかし律法や行いにも全く意義がないわけではありません。この点について先々週、律法や行いが「養育係」としての役割を持つことについて学びました。

その役割をもう一度復習してみましょう。まず第一は「警察官」としての役割です。これは私たちが悪いことをしているときに、「それは違反行為だ」と私たちにその行為の悪さを示す機能を持っていることをあらわします。

第2には、「牢獄の番人」としての機能です。これは私たちに良心の呵責というものを与え、そこに閉じこめておく働きです。

第3には、「養育係」としての機能です。この養育係というのは単に面倒を見る人と言うよりも、子供がちゃんと学校へ行くまで見届けたり、しっかりと家出しつけをしたりするような係であります。いわば「学校行かせ係」みたいなものをイメージした頂くと良いと思います。

このように行いや律法にもそれなりの役割がありますが、いくら頑張ってみても個人的な努力で救いを得ることはできません。救いを得ようとするなら、自らの弱さを自覚し、悔い改めて主イエスに近づかなければならないのです。律法の役割とはこのことに対するサポートに過ぎません。

さらに言うならば、律法の役割はサポートという意味においても限定的なものに過ぎず、25節では「信仰があらわれた以上もはや必要のないもの」と記されております。

これを現代的にわかりやすくたとえてみますと、救いに至る道筋は宇宙ロケットの様なものであると言えます。ロケットの発射にはまず第一段階のブーストが必要ですが、この段階は機器類に加速度の影響が出ないようにゆっくりと加速するようになっているそうです。

このブーストが終了すると、二段目・三段目とロケットが点火され、どんどん加速してやがて宇宙に至るわけです。この時には勿論第一弾目のロケットは必要が無くなっており、本体から切り離されるわけです。

律法は丁度この第一弾目のロケットに相当するもので、信仰が得られた以上はもはや必要がなくなってしまうものなのです。


次の4節でクリスチャンに与えられた特権・立場について、パウロは4つのイメージを用いて説明しています。

A. 神の子供(26節)

26あなたがた(ガラテヤ人を含む異邦人)はみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

信仰により我々は神の子供とされました。神の子供とされる以前は、悪の霊の働きによって我々は支配され、神の怒りの対象でありました。しかしキリスト・イエスを信じる信仰によって神の子とされたとき、もやは私たちはこの悪の原理から解放されたのです。

この「子供」(huioi) は保護者を必要としない、育ちあがった子供のことで、ギリシャ語のteknaとは違ったニュアンスです。パウロはhuiosとteknaとを混ぜて使っています(後者はローマ8:16,21,ピリピ2:15;前者はローマ8:14,19)。

双方とも親子関係を表します。区別があるとすればteknonは自然的な関係を表し、huiosは法的な関係を表すと言えるでしょう。すなわち、「神の子供」に当てはめて言えば、まず第一に神様に似てくると言う生物学的側面、そして神様の所有物を相続する権利を持っていると言う法律的側面があると言うことです。


1)我々が神に似たものとされる

まず「子供」といった時の第1の側面である自然的関係について見てみましょう。この関係は、親と同じDNAをもってうまれ、同じ様な性質を持った者としての子供と言うものに喩えられます。

思いますに、人間というのはやはり肉親に似てくるものです。先日沖縄で行われた日本伝道者会議でも、「竿代です」と自己紹介すると「あの、名古屋の竿代先生ですか。」とか、「船橋の...」とか言われました。決して「主都の」と呼ばれなかった点がちょっと残念でしたが...、「いやいや実はあちらは兄弟で」と話しますと、「やはり良く似ておられますね」と言う反応が返ってきたものです。

このような自然的側面を強調しているのはヨハネです。この点についてはっきり書かれている第1ヨハネ3章2-3節を見てみましょう。

1john: 3: 2愛する者たち。私たちは、今すでに【神の子ども】です。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちは【キリストに似た者】となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

1john- 3: 3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

このように私たちは、イエス・キリストへの信仰により、キリストに似た神の子どもと変容され、究極的には天国での栄光、喜び、交わりを受け継ぐものとなるのです。

私たちが「神の子とされる」と言うことは、聖霊を内に頂く結果として、イエス・キリストの品性や神を愛する性質を帯びるようになると言うことなのです。

しかし、私たちは人間ですので、まだ完全には似きっておりません。完全に似たものとされることが、いわば私たちの最終ゴールとなるわけです。


2)相続財産を受け継ぐ

相続財産を受け継ぐ権利を得るという、法律的とでも言う内容について次に見てみましょう。平行記事として書かれているローマ8:15ー17を見てみましょう。

Rom- 8: 15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

Rom- 8: 16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。

Rom- 8: 17私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

このような権利を得るというのは、奴隷のように嫌々主人に付き従うような立場でないことは自明です。

むしろ資産家の家に養子に迎えられたようなものです。養子としてその家に入ったその日から、その家のすべての財産を相続する権利が与えられるわけであり、先行き何の心配もありません。しかもその財産は、神の所有物である全てのものというのです。

私たちは、日々このような大きな所有観を持って生活しているでしょうか?このような豊かな境遇に感謝しつつ、日々生活していただきたいと思います。


B. キリストにつく者(27節)

27節では、

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身につけたのです。

と書かれています。これはガラテヤ教会に於ける当時の論争に対するパウロの深遠な解答ともとれます。

当時のガラテヤ教会では、救いを得るためには信仰ばかりでなく行い(特に割礼) が必要だという議論が盛んになされておりました。これに対しパウロはここで、救いに至るためには(割礼は必要ではなく)、バプテスマに象徴される信仰のみで十分である、と言っているのです。


バプテスマはクリスチャンにとって入学式のようなものですが、さらに詳しくどのような意義があるか学んでみましょう。

先々週の洗礼式を見ていただいておわかりの通り、当教会では浸礼を取っており、洗礼を受ける方をまず水に浸して、それから引き上げます。

この水に浸すとき、その人はキリスト共に死んだのであり、引き上げられるときキリストと共に甦ることになります。従って、洗礼式を通して我々は主イエスを一体化し、主イエスの死と復活を自己のものとしているのです。これをパウロは「バプテスマを受けてキリストにつく者」と表現しているわけです。

このような内容は新訳にだけ書かれているわけではなく、これと似た内容はモーセの出エジプトの記事にも見ることができます。そのことについてパウロは第1コリント10:1-4 で

そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。

私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。

というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

と記しております。

ここでは出エジプトの紅海に於ける奇跡で、分かれた海を渡るユダヤの民に海の水しぶきが降り注ぎ、それによって民がモーセにつくバプテスマを受けた、と言っているのです。

おそらく出エジプトの最初のころは、ユダヤの民にとってもモーセは何とも得体の知れない人物であったのでしょう。本当に自分たちの未来を託していいのか、と言う逡巡があったに違いありません。

しかし、この紅海の奇跡を通過することで、モーセが神から使わされた人物であることを体験・確信し、モーセとの一体感を感じたのではないでしょうか。私たちにとっての「洗礼」もこのような体験なのです。

このことはまた、キリストに属する事は、他のものの奴隷とはならないことも意味します。

第一コリント7:23に「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」と記されてあるとおりです。


次に、「キリストと一体化した」と言う内容に目を留めてみましょう。この内容は言い換えますと「キリストを着る者になった」と言い換えられます。

この着物の例えは何を語っているかと言いますと、元々自分の物でなかったものを、自分の体の一部のようにしてしまうことを表わします。キリストと共に生き、動き、あるということが、着るという密接な関係で示されるのです。

また、このときの「キリスト」は、タキシードのように特別な場所だけに着ていくよそいきではなくて、いつも着ている普段着を意味するものです。

着物というのはある面その人の存在を象徴しているものです。堅い服装の人はどちらかというときまじめな人が多いですし、カジュアルな服装の人は自由人的な発想の持ち主であることが多い、などです。

このように生きた信仰を持ったクリスチャンは、普段着のように主イエス・キリストが身に付いており、その品性がそこはかとなく現れるようになるものです。

200年程前のプロシアと言う国のおもしろい話をいたします。この国には大変勇猛で連戦連勝の将軍であるモルトケと言う人物がおりました。この人は街に出ますと、それこそ大変な人気で、皆が寄ってきては褒め称えたそうであります。

ある時このモルトケ将軍が、軍服を脱いで普段着で街を歩いてみたところ、誰も全くモルトケであることに気付かず、褒め称える人も当然おりませんでした。

モルトケ将軍はこのことで大変ショックを受け、家に帰って壁に掛けてある自分の軍服に向かってこう言ったそうであります。

「おまえがモルトケか?俺がモルトケか?」

着物というものは、こんなに着る人の在り方を決めてしまうものなのでしょう。私達は軍服ではない、キリストを普段着として着ながら生活したいものです。


C.キリストにあって一体(28節)

28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

どうか皆さん、これが今から2000年も前に書かれていることに気を留めていただきたいと思います。今では男女平等・差別禁止などは当たり前になりつつある概念ですが、パウロが生きていたころの社会では、奴隷制度も活発でしたし、男女差別もはっきりしておりました。

こういう環境下に置いて、このような内容について語るのは、実はかなり驚くべき事なのです。

このようなことをパウロが強調したのは、主イエスの前に人間が救われる時には、立場や身分、家柄や性別など何の意味も持たず、ただ信仰によってのみ救われるのであり、その意味でクリスチャンはキリストにあって一つであることを強調したかったからです。

一人一人の一体化を齎すものが、その人種的・社会的背景、人間的努力、教育、道徳的真面目さ等に依らないで、キリストへの単純な信仰だけによるのですから、お互いは全く神の前に平等であるのです。

逆に言えば、信仰以外のものによって救われるのなら、人種・社会背景などは救われた後でも物を言うでしょう。しかし、本当に信仰だけとするならば、皆同じなのです。

特に男女の差別はキリストにおいて本質的には撤廃されます。男子も女子もその価値において、尊厳において全く同じです。ただ、地上での役割の違いはありましょうが。


また、キリストにおける一体性は、霊による一致と協力を意味します。

先週行われた伝道会議において、教派・教団・教会、更には出身の場所の異なる人々が「イチャリバチョーデー」(出会えば兄弟)のスピリットで真の一体感を持ち、交わりが許されました。

日本の諸教会が、この聖書の語る真の一体感を協力という形で表わすことを祈り、実践したいと思います。昨日2千人余りの出席者によって宣言がなされましたので、その一節を引用します。

キリストの救いにあずかった私たちは、教会、つまり、愛をもって仕え合う共同体を形成します。

それは、三位一体の神を証しし、キリストの福音を明らかにするもので、憎悪や差別、対立や紛争によって損なわれた社会に対して、私達は教会を和解の共同体として現わしていきます。

・・・教会の不一致は、教団、教派、教会間だけではなく、しばしば地域教会の中にもあったことを認め、悔い改めます。

教会員同士、教職者同士、教職者と教会員、男性会員と女性会員、年長者と若年者が互いに仕え合い、和解の福音の豊かさを証しして行きます。

教会の一体性は、教会と超教派諸団体との間・・にも求められます。

閉鎖性や他を顧みない態度を捨て、互いに納得できるルールを設定し、積極的な協力関係を築く事を目指します。 


D.アブラハムの子孫、約束による相続人(29節)

29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

アブラハムの子孫になるとは一体どういう意味があるのでしょうか?勿論皆さんの家系図をどんなにたどっても、先祖にアブラハムが出てくると言う人はいないでしょう。それには大きく言って二つの意味があります。

まず第一は、アブラハムの信仰を受け継ぐと言うことです。

アブラハムは信仰によって義とされました。従って割礼を受けている者もいない者も等しくキリストを信じるものは彼の子孫です。この信仰に焦点を当てることによって、全ての人を子孫とする道を開き始めました。律法を守ることによってアブラハムの子孫になるのではないのです。

第二はアブラハムの祝福を相続すると言うことです。

アブラハムの子孫は彼に与えられた祝福を継ぐものともなりました。その祝福とは永遠の家を含む限りないよろこびです。ヘブル11:10には、

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されています。


終りに:

1.私達は、このような神の子とされる特権が与えられていることに感謝しようではありませんか。充分に値高く見積もるようにしましょう。

2.それにふさわしく生きたいと思います。特に教会の一体性、一致を熱心に保とうではありませんか。

クリスチャンに接する際、どうかその人の欠点ばかり見ないで頂きたいと思います。そのような批判的なまなざしばかりでは、キリストへの信仰という共通項を見失ってしまいます。我々にこのキリストへの信仰以外にいったい何の価値あるものがありましょうか。

そのことをよく知っていただき、互いに仕え合い、祈り合い、助け合う真の意味での愛の共同体を祈り求め、実践しましょう。

お祈り致します。


Editied and written by K. Ohta on 2000.7.5