礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年7月9日

聖日礼拝説教

「傷を包み、いやす」

井川 正一郎 牧師

イザヤ書 30章19-26節

中心聖句

30:26 主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。

(26節)

 

アウトライン:

 本日はイザヤ書から、人は皆生まれながらに体と心、そして魂に傷を負っていること、しかしその傷はキリストの義の太陽の陽射しによって根本から、跡形もなくいやされるということを学ぶ。
 

教訓:神はわれらの傷を包み、癒される


導入

 先週の牧師会で、国光先生が不思議にも聖書の違う箇所からではありますが、本日のメッセージと同じようなテーマについて扱われました。その際先生はクリスチャン新聞の7月2日号に掲載されていた渡辺和子先生(カトリックで、良き信仰の器として知られている方です。)の記事を引用されました。本日もその箇所を改めてお読み致しましょう。

復活の主にならう−復活について、イエス様が傷を残したまま復活されたということに感動を覚えます。

十字架の傷跡を持ってご自分のアイデンティティとされた。傷は屈辱と敗北の印であるはずが、人々への愛の証しとなった。イエス様のご生涯を思うと、中傷、誹謗、裏切り、忘恩、傷を受けどおしの生涯でした。それを思うと私達が傷つくのはあたりまえです。

今の時代は心の失われた時代となるのでしょうか。人が人の心を持ちつづける限り、傷つき、傷つけられるような心のぶつかり合いをどう手当てするか、イエス様がもし生きておられたなら、そのことに心を用いられたと思います。

もし、お互い嫌なことでも、それが神様から与えられたとしたら無駄な事は世の中に無いはず、神は良い方だと信じるならば、そのように思えるわけですが、しかし、なかなかそうすることができないのも現実です。

私の父はニ・ニ六事件のときに私の目の前で拳銃で撃たれて死にました。後にその殺した側の方と予期せず対面したことがありました。なんの話しがあろうはずがない。好きなコーヒーも喉をとおりませんでした。

イスカリオテ・ユダと最後の晩餐をともにされたのは、やはりイエス様ならではと思います。私に罪を犯すものを私が赦すようにと主の祈りを唱えることができない。

でもそうしたのです。唱えている間だけでも、という赦しきれない私を赦して下さっている主の恵みを思います。

私の心に傷を与える人の仕打ちを、私の小さな死によって受ける事、復活に傷を大事にすることをイエス様は教えておられると思う。

この私の小さな死が役立つように、お薬として私の傷を使ってくださいと祈るときに、不思議に私の傷もいやされることを覚えました。

 人は皆傷を持っています。今日のメッセージは重たい話といえましょう。しかし、その傷がいやされるというメッセージは、単なる気休めではありません。主がその全部を担ってあとかたもなくいやして下さるという恵みにあふれた約束のメッセージです。

 神のメッセージの特徴は、罪を指摘して悔い改めることを勧めるだけでなく、その傷を包み、あとかたもなくいやすことを目的とされています。

 本日はイザヤ書30章26節のメッセージを中心に、大きくいって2つのことをお話致しましょう。

30:26 主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。


I. 人間は生まれもって傷ついているものである
1) 3つの面で傷ついている

 人は皆生まれながらに傷ついていて、傷の無い人はひとりもいません。傷があるからこそ、その傷を突かれるとうずき、痛みを感じるのです。

 そして、人間は少なくとも次の3つの面で傷ついています。

a. 肉体的

 人間は常に健康な体でいられるわけではなく、心臓・腎臓・肝臓などの内臓や、呼吸器官、血管など、いずれ体のどこかに欠陥が現れ、なんらかの病気にかかります。

 たとえ若いうちは良くても、年を重ねるにつれて、お肌は曲がり角を過ぎ、老化現象が起こり、体も言うことをきかなくなります。

b. 精神的

 これはいわゆる知情意(知識・感情・意志)のことです。つまり、人間の知識は不十分なものであり、往々にして感情の起伏が激しくてバランスを保つのに困難を覚えがちなものであり、意志力も十分ではありません。

c. 霊的

 魂のことです。これこそ、生まれながらにして全く損なわれている状態にあります。

 ここでいう魂とは、キリストの神を礼拝し、讃美し、神と私の関係に思いを巡らすことです。それが人間が生まれながらにして持っている罪によって全く機能していないのです。まるで回復不能と思われる程深いダメージを負っているのがこの部分です。

 人間は始めから傷ついているが故に、さらに傷つき、痛みを感じ続ける存在なのです。そして、一番奥深い魂が傷ついているために、精神にも肉体にも大きな影響を及ぼしているのです。

 特に身体の痛みよりも、心の痛みを強く感じるものです。生涯の中で、他人の言葉や行いによっていやすことのできないほどの深い痛手を負うのは、まさに心です。先ほどの渡辺先生の例もまさにそれでありまして、父を殺した人を許すことがイエス様が願っていることとわかっていても、感情がついていけずに、心に激しい痛みを感じるのです。

2) 傷つく実際的原因とその対処

 数ヶ月前に青年部の例会で「傷つくことが多い私たち」と題して、学びの時を持ちました。その際質問を記したペーパーを配って、答えて頂きました。青年達は皆真面目に取り組んで、率直な回答をしていただき、非常に良い学びのときとすることができました。そのペーパーには次のような質問を記しました。

A) 人はなぜ傷つくのか? その原因は何か?

その原因としては4つほど考えられます。

@ 自分の一番気にしていた事を言われたとき

a) 肉体的欠陥 … 背が低い、高すぎる。太りすぎ、やせ過ぎ、足が短い、太いなど

b) 性格的欠陥 … 軽い、暗いなど。

c) 能力的欠陥 … 仕事や勉強がうまくできない。

d) 立場的欠陥 … 家族のこと、学校、職場、地位。人事の問題で年令的・能力的に下のものが自分を飛び越えて上の地位についた場合など。

A不当な扱いを受けたとき、低く評価されたとき

B常識に照らしてある人がやっていることは非合理であると思うのに、自分がやると叱られるが、その人がやると何故か許されてしまうときなど

C 親しいと思っていた人に邪険にされたとき

 親しいと思っていたからこそ、その邪険さ、裏切りに傷つくのです。

詩篇の55篇では、「もし私の敵がああだこうだというのなら私はそんなことには耐えられる。でも私が今とても重荷に思っているのは私の同朋が、私の友が、…」と書いてありました。ここは旧約聖書で言うならダビデの参謀アヒトヘ、新約聖書で言うならイエス様に対するイスカリオテ・ユダが予言されている箇所だと学ぶ事ができます。

B) 傷つくとき、人はどう対処するか?

@ 心に納めようとする

a) 相手に反論する。或いは第三者にぶちまける
b) 心に納め、許そうと葛藤する

A その扱いに憤りを感じ、爆発しそうだ

a) 仕返し、不満をぶつける
b) ゆるさないぞと思い、恨みを持ち続ける決心をする

 この場合には内側に向かう復讐となります。

3) その処理・治療の方法

 青年に限らず、人は老いも若きも傷つきやすいものです。

 以前教会でよく話題となっていたことの一つに「つまずくこと」があります。これに対して、「つまずきそうになったら飛び越えればいいじゃないか。」という考え方がありますが、同じように、傷つく事自体クリスチャンらしくないという議論があります。

 つまり、傷つけられたと思うような「自分」が生きているから、自分という「我」が存在するから傷つけられたと思うのであって、本来罪人でありどうしようもない者が今生かされていること自体が奇跡であることを思えば、もともと無いものを有ると思う「自分」が良くないのだという意見があります。

 そのような議論にも一理はあるのでしょうが、しかしそれではあまりに論理が単純で冷た過ぎるように思われます。そして、それでは今日のメッセージは成り立たなくなってしまいます。

 人間はそもそも傷だらけの存在であり、傷つけ、傷つけられながら生涯を送っています。どうして傷つけ、傷つけられるのか、そのあたりを深く考えてみることが大切です。

 そして、神のみわざは私達人間の傷をいやす目的を持ったものなのです。

 ここで、何故今日の聖書の箇所であるイザヤ書の30章では傷を包み、いやすという言い方がなされているのでしょうか。それは1章で罪を「傷」と言い表しているからです。

1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

 イザヤは罪によって堕落した人間は動物以下であるとさえいっています。ここでの傷については次の二通りの解釈が可能です。

a) 病気の状態

 頭のてっぺんから足の先まで全部打ち傷と生傷で、膿も出してもらえず、和らげる薬も無く、包む包帯も無く、もうほっておくしかない状態にあるということ。罪の傷とはそういうものだという解釈がひとつです。

b) モーセの律法違反

 もうひとつの解釈は律法を犯したものには、鞭が与えられるが、ここでは罪があまりにも多くて、もう体に鞭を打つ場所が無いことを示しているというのがもうひとつの解釈です。民はその状態でもなお神に逆らい続けるのです。

 罪の傷によって人間は一番大切な魂が全く損なわれていて、見るに見られないような醜い状態になりはててしまっています。そしてその根本が解決されない限り、人はいつまでも傷つき、傷つけあうものなのです。

 今日の御ことばは、その根本から癒されるという約束のメッセージです。


I.神のみわざは、その傷をいやす目的を持っていょ[BR>
1. 神のみわざの特徴

 神のみわざの特徴は、具体的に言って少なくとも以下の3つがあります。

(1) 根本からのいやし

 神のみわざはもっとも大きな問題である魂から始るのです。

(2) 完全ないやし

 近い将来、傷も傷跡もあとかたもなく無くいやされることを意味しています。(1)の根本からのいやしと同じように思われますが、根本からいやされても、まだその傷の影響が残っている場合がありますが、近い将来それもあとかたもなくなることを示しています。

 内臓の手術に例えると、手術は成功して病巣は取り除かれているけれど、暫くの間その痛みは残っていることがあります。手術によって根本からの解決には成功しても、完全な回復にはまだ少しの静養期間が必要です。実はその期間こそがやっかいなものなのです。魂がいやされて神との正しい関係が得られてもなお、心の動きには不完全さが残っていて、自分を傷つけた人をゆるせといわれて、頭ではわかっても、心には複雑な思いが残るのです。

 でも御ことばは、その痛みも近い将来完全に無くなることを約束しています。

 イザヤ書の58章8節には次のように記されています。

そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。

 本日の中心聖句であるイザヤ書の30章26節ではその完全さを示すために、

…、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。

と記されています。ここで7倍とは文字どおりに解釈する必要は無くて、完全さを表現している言葉です。太陽の輝き・明るさが増し加わるとき、暗さは消えうせ、汚れは焼き尽くされ、ただ全面に明るさ=きよさが存在するのです。

 また、マラキ書4章2節には、

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。

とありますが、義の太陽とはメシヤである主イエスを示しています。義の太陽が昇るとき、a) 明るさ、輝きによって、暗黒からの救いがあり、b) 強い日差しによって罪が焼き尽くされ、いやしがあり、c) 活気、快活、喜びが満ちて、皆外に出てはね回るのです。そしてd) 太陽はいつも上にあって、誰も差別無く、仰ぎ見るものはその恵みにあるかることができるのです。

 イザヤ書の30章もこれと同じように日の光が7倍になって、傷の完全ないやしがなされることが約束されています。

(3) 犠牲によるいやし

 そしてそのいやしは、キリストの打ち傷によるものです。

 イザヤ書53章5節には、

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

とあります。

 また、ペテロの手紙第一2章24節には、

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

とあります。

 キリストの打ち傷によって、皆の魂の傷がいやされるというのは、あたかも医者が犠牲を払って苦しみを受けることによって病人がいやされるという方法です。ある人は「これは全く新しい、変わったいやしの方法である。」と言っています。

 渡辺和子先生の言葉では、「自分の傷で他を癒すこと。私の心に傷を与える人の仕打ちを「私の小さな死」によって受けること。そして、その死を他の人のための薬としてお使い下さいと祈るとき、不思議にに私の傷も癒されることを覚えた。」と述べられています。

 キリストの傷とは複数ではなくて単数形で書かれています。私の罪を含む全ての傷を、ひとつの傷で担ってくださった主を仰ぎ見て、主とひとつになるときに、傷は癒されるのです。

2. イザヤ書とその背景

 ここで少しとどまって、イザヤ書全体の構成とその時代を学んで、今日の聖書の箇所の背景を理解しておきたいと思います。

1) イザヤ書の構成

 イザヤ書は1〜39章で罪の指摘とその審判が、40〜66章で「慰めよ、慰めよ」から始る回復の約束が述べられています。今日の箇所の30章は前半の部分であり、その前半の部分をもう少し詳しく学びましょう。

1   預言の全体像
2〜5 イザヤの初期の働き。
   「ああ」(わざわいなるかな)のことば
6   再召命経験
7〜12 アハズの時代のこの国とアッシリアとの関係
13〜23 諸国に対する審判
24〜27 「その日」(終末)の祝福の預言
28〜33 ヒゼキヤの時代のこの国と、アッシリアとの関係
   「ああ」のことば
34   悪者に対する最終的審判
35   正しい者に対する最終的あがない
36〜39 ヒゼキヤ(イザヤ)とエルサレム攻囲のアッシリア

2) 弱小国イスラエルの採るべき道

 ここで何を学びたいのかといいますと、当時のイスラエルにとって大国アッシリアの脅威にどう対処するかが頭痛の種でした。7〜12章では北イスラエルとスリヤが同盟を誘ったですが、アハズはこれを拒否して、かえってアッシリアに頼りました。28〜33章でヒゼキヤは中立政策をとっています。但しヒゼキヤも一時南の大国エジプトに頼ろうとしていますが、これはイザヤが常に警告したことでした。

 当時の弱小国イスラエルにとってとるべき道は以下の4つの方法しかありませんでした。

1) アッシリアにつく
2) エジプトにつく
3) 隣国と小国どうしで同盟関係を結ぶ
4) 中立政策をとる

 いずれにしましても、ここでは神に信頼しない多くの民と指導者の姿が描かれています。罪に染まって致命傷ともいうべき傷が全体をおおっていて、いやされそうもありません。しかし、神はそれでも回復の約束を与えておられるとのメッセージをイザヤは語っています。

 しかし、それに対して民はかたくなで聞く耳を持ちませんでした。では、預言者としてのイザヤの奉仕はむなしいものだったのでしょうか。そうではありません。彼は預言者として、民と指導者達の罪を自らのものとし、民のゆるしと回復を願っておりました。いわば、主イエスが民の身代わりとして全ての罪を担ってくださったのと同じ意識でした。その結果がバビロンの補囚後の回復でした。

3) 預言者活動時期の特徴

 旧約聖書に登場する預言者の時期は大きく言って以下の3つに分けられます。

a) アハブ・ヨシャパテ=エリヤ、エリシャの時代
 この時代の預言者は直接政治に介入し、政治的宗教的改革を先頭をきって進めました。

b) ヤロブアム2世・ウジヤ王からヒゼキヤ王=ホセア、アモス、ミカ、イザヤ
 この時代は、言葉をもって政治的、社会的罪の指摘と悔い改めの勧めを行いました。

c) エルサレム陥落の前後/ヨシヤ王から最後の王=ゼバニヤ、ハバクク、エレミヤ、エゼキエルなど
 彼らは自分自身を身代わりとして、民の罪を自分が背負って神の前に立ち、自分の命と引き換えに民のゆるしを請うたのです。

 イザヤはb)の時期の人物ではありますが、c)の時期との橋渡し的な存在でもあります。そして、このような自分を犠牲にする思想が、上記の「犠牲によるいやし」につながっているのです。


しめくくり

 本日は次の2つのことを述べてしめくくりたいと思います。

A) 魂の傷があるか、ないか確かめよう
B) 弱さや足りなさの傷は残っている。お互いに攻撃し、批判し合うことから守られよう。

 お互い強い日の光の中にあることを覚えて、認め合い、励まし、慰め、忠告しあって、その傷跡をいやしていきましょう。

 まさに強く、包み込むような暖かさのあるキリストの義の太陽の日の光によって、お互いが癒されていくのです。この一週、一日一日、その陽射しを浴び、その陽射しによるいやしを経験できたならどんなに幸いなことでしょう。

 「神はわれらの傷を包み、癒される」

 ご一緒にお祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.07.14