礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年7月16日

ガラテヤ書連講 (12)

「時が満ちて」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書4章1〜11節

中心聖句

4しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

(4章4節)

アウトライン:

救われる前、私たちは、律法(おきて)、道徳律、あるいは恐れと言ったものに縛られ、言わば、奴隷となっていた。

しかし、神はご計画のもと、”定めの時”に、これら奴隷の束縛を打破すべく、イエス・キリストを世に遣わされた。

これにより、私たちは、神様を「アバ、父よ」と呼ぶことが出来る神の子どもとされたのである。

しかし、あなた方(ガラテヤの人々)は、こんなにすばらしい恵みを知っていながら、どうして後戻りしてしまうのか?

今日のメッセージの中心テーマは”定めの時”である。

かつて神の”定めの時”、全世界の救いのため、十字架と復活の御業がなされた。同様に、神様は私たち個人個人にも”定めの時”を計画しているのである。待ち望みつつ歩もうではないか。

教訓:「定めの時」を信じて歩む


導入

 今日は格別にガラテヤ4章4節のお言葉を中心にしたいと思います。皆さんで4節をお読み致しましょう。

4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

 今日最終的には、ここにまいるつもりでおります。

 前回はクリスチャンのすばらしい特権を4つの角度から学びました。第1は、神の子供とされた特権、第2に、キリストに付くものとなった特権、第3に、すべての人種、違いを乗り越えて1つとなった特権、第4に、私たちはアブラハムの子孫とされた特権、です。

 これによって、クリスチャンは、神がアブラハムに与えてくれた全世界的な祝福というものの相続人となったのであります。この思想が4章で引き継がれています。

 今日の箇所ですが、1節から9節までを、3節ごと3つに分けて題を付けてみたいと思います。

 1〜3節までを「救われる前のかつての姿」、4〜6節までを「キリストが私たちに与えて下さった恵み、その顕れ」、7〜9節までを、「恵みから落ちてしまう、戻ってしまう愚かさ」と致しました。

 それでは、この3つについて、それぞれ順を追って見てみましょう。


1.救われる前のかつての姿(1〜3節)

1-3 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。

 ところで、この1節から11節までをざぁーと眺めて見て、一番沢山出て来る言葉があります。それは何でしょうか。そうです、「奴隷」という言葉が沢山出て来ますね。ここでは、「かつては奴隷であった」というのが基調として流れている思想です。

 どういう意味において奴隷であったのかということですが、今は神の子供、神の財産相続人となっているクリスチャンも、元はといえば、その権利が制限された不自由な状態、奴隷と同じであった、というのです。

 ユダヤ人が、律法(おきて)の下にあって訓練を受けたように、律法というものを持たないギリシア人も、同じように道徳律によって訓練を受け、恐れ、それに縛られていた、ということを言おうとしているのであります。

 これを私たち、日本人のクリスチャンに当てはめてみたいと思います。私たち日本における宗教思想の中で一番大きなものは、「汚れ」とか「忌み」とか「たたり」とか「バチ」とか、そうしたものを恐れるきらいが、日本人の中にあります。「こういうことをしたらバチが当る」とか「こういうことをしたらたたりにあう」とか、お葬式の時にしてはいけないことということが色々細かくありますけれども、それが何から来るかというと、「恐れ」から来るのであります。「恐怖」が支配しているのであります。

 パウロがこういうイエス・キリストを知らない状況の人を書いているときに、道徳律であれ、恐怖であれ、私たちはそこに縛られた状態にあるのです。奴隷的な状態であるというのが、共通項なのであります。

 さあ、そのような奴隷的な状態を打破するために、そこから釈放するために、主イエス・キリストがおいで下さったというのが、4節から6節までの内容です。


2.キリストが私たちに与えて下さった恵み、その顕れ(4〜6節)

4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

5-6 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 4節の「定めの時が来た」というのが、今日の鍵なんですけれど、この新改訳聖書の翻訳は言おうとしていることを十分に言い表していないように思います。

 元々の聖書には、「盈満(諸準備、諸環境が十分に満たされた)の時において」という意味があります。

 ここ4節で言おうとしていることは、キリストが世に来られたクリスマスの出来事は、ある日突然起きた事ではなく、そもそも歴史というのが始まって以来、準備され、計画され、人々の心が整えられて、準備が全部、充分満たされた飽和点の時に、イエス・キリストが来られたということなのです。

 人々は罪を犯して神から離れた時に創世記の一番最初に、神様は救い主を世に遣わすというお約束をなさいました。ですから、人々はその約束を待ち望んでいました。

 しかし、すぐには救い主(メシヤ)は来ませんでした。何千年もたってから答えられたのです。勿論、それにはそれの理由があったのです。

 神は1つ1つの出来事、あるいは1人1人の人生に計画(長期的もしくは短期的)を持っていらっしゃいます。そして、その計画、ビジョンを、時というものが満ちた時に、実現なさるお方です。

 私たちの目から見れば、「こんなにお祈りしたのに神様はかなえてくださらない」時、ともすると、あきらめ、失望を感じます。しかし、この「定めの時が来た」というお言葉は、それら失望を乗り越えることを得させるものだと思います。「時が満ちる」時に主は事を行いなさいます。

 私達の側で必要なのは神の時を待ち望む忍耐であり、神の良善を信頼する信仰であり、事が起きた時にそれを主のお働きと認める弁別力なのです。

 神の為さることは時に適って美しいと聖言にありますように、実にグッドタイミングでキリストは世に来られました。

 私達の人生でもそうですが、人間の計画、願望によって事は動かない、神の時に従って物事は進むものなのです。


 5節に、主イエス・キリストが「律法の下にある者」となったとありますが、これは、キリストがユダヤ人として律法の要求を忠実に満たすためでした。彼は、他のユダヤ人と同じように割礼を受け、宮に詣で、律法を学び、それを実践されました。

 「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」の諺のように、敵陣へ入って行き、律法の完全な実践を通して、その桎酷の下にある罪人を救おうとされました。律法を守ろうとして、決して守ることの出来ない罪人である私たちを贖い出すためでした。

 何と大いなる恵みではないでしょうか。


 購いの結果、私たちは、神の子としての身分を受けたのです。

 皆さん、こうした経験をお持ちでしょうか。「うれしき、この日よ」という歌があります。神様が時を定めて、私の罪を身代わりとして下さいました。「うれしき、この日よ」、私の身にも主はその御業を成して下さいました。

 それまでどうしても心が晴れず、死んだ時に天国へ行ける確信がありませんでした。死が恐ろしかったのです。けれども自分の罪が示されて全部を告白した時、神様は、「うれしき、この日よ」とその日を与えて下さいました。多分、お葬式の時にはこの歌を歌っていただきたいと思いますので、今申し上げておきたいと思います。お葬式の時に「うれしき、この日よ」はちょっとまずいかも知れませんが、まあ、ガマンして歌って下さい。

 ほんとうにその時私はうれしかったのです。感謝でした。


 第6節、「あなたがたは子であるゆえに神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」にありますように、私たちが神の子どもとされたことにより、ごく自然に神様を「アバ、父」と呼ぶことが出来るのです。

 「アバ」はアラム語で、「おとうちゃん」という意味です。「お父様」とか「父上」とかいうような改まった言い方ではなくて、自然で、庶民的な言い方なのです。

 家内は良く証しします。キリストを信じて一番嬉しかった事は、神様がおられる、その神様はお父さんである、という事実の発見だった、と。何故かと言いますと、彼女の肉の父は彼女が胎内にいる時に妻と子供達を棄てて去って行きました。つまり肉の父を知らないで育ちました。けれどもそれに遥かに勝る天のお父様が彼女の父となったのです。

 キリスト来臨は確かに客観的歴史的事実ではありましたが、それだけでは言わば絵に描いた餅です。それが個人的なものとなるために働いて下さるのが御霊です。信じる者の心の中に宿り、働きなさる御霊の第一の仕事は、私達に神の子供としての確信を与えなさることです。

 次の言葉は蛇足のようなんですけど、実はパウロが言いたいことなんです。こんなにすばらしい恵みを知っているのに、どうしてあなた方は後戻りするのですか、というのが、7節以降なのです。


3.特権を捨てる愚かさ(恵みから落ちてしまう、戻ってしまう愚かさ)(7〜9節)

7-8 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

 ここについては、来週、詳しい内容をもう1度ふれさせていただきたいと思いますが、ガラテヤのクリスチャンたちは、こんなにすばらしい恵みを知っているのに、後戻りをしてしまって、しかも、それに気付いていないことに、パウロは何とも言えない悔しさ、歯ぎしりをする思いを、ここに表しているのであります。

 まじめな生活を一生懸命することにより神に喜ばれようとする、これは、問題ないように思えますが、自分の力でやろうとするところが問題なのです。自分の力で救われるのではありません。何の取柄もない者を神様が見出して下さいました。その神様への信頼、信仰によって私たちは救われるのです。規則、伝統、形、一生懸命さ、修業によって何かを勝ち取ろうとする姿は、実は、パウロによれば、恵みから落ちてしまっているのです。

 そのことにあなた方は気付いて欲しい。恵みの原点に戻って欲しいというのが、このお言葉の中に記されています。

 来週もう少しこのことをふれさせていただきたいと思います。

 今、私たちは何故、ここに立っているのか、もう1度考えて下さい。私たちの家庭が良かったからなのでしょうか、あるいは、性格、能力が良かったからなのでしょうか。いや、全然関係ありません。ただ、神の恵みのみによって、こんなに価値のない者が立っているのです。決して人間側の努力なのではありません。


終わりに

 最後に、もう一度、第4節の「定めの時が来たので」というパウロの言葉に目を留めて終りたいと思います。

 神はこの全世界の救いの為にも「定めの時」を用い給いました。それを十字架と復活という形で実現なさいました。

 同じように、私達個人個人に対しても、主は救いと助けを私達の人生全体に計画しておられます。「定めの時」を持っているのです。そのことを私たちは単純に信じさせていただき、待ち望みつつ、主に依りすがりつつ、歩もうではありませんか。

 お祈り致します。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.7.17