礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年7月23日

ガラテヤ書連講(13)

「キリストが形造られる迄」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書4章8〜20節

中心聖句

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

(19節)


始めに:

先週は、主イエス・キリストの恵みにより奴隷の状態から自由にされているクリスチャンの特権と、その特権を忘れて再び奴隷の状態に戻ろうとしたガラテヤ人の愚かさについて学びました。今日は、こうした事態に直面して、悩んでいるパウロの個人的告白に焦点を当てて、その産みの苦しみをかいま見たいと思います。この部分は、論理的議論と言うよりも、パウロの私的な感情からガラテヤ教会人に訴えている箇所です。


A.伝道者の悩み(9−11節)

9 所が、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています

「信仰による救い」から離れた信者:

上記の箇所でパウロは、自分の奉仕が徒労に終ったのではないかと案じています。その心配は、彼らの行いによってパウロの顔に泥が塗られたなどと、自己中心的に案じているのではありません。この心配はかつて成功した事実と、いま失敗の状況にあるその落差に基づいています。

パウロは信仰による救いを宣べ伝え、彼等は単純に信じました。つまりガラテヤ教会人は「神に知られた者」となり、そのすばらしい恵みと特権を単純な信仰のゆえに獲得していたのです。

その彼等が律法主義者に惑わされて、いわば逆戻りして信仰から墜ちた、いや墜ちようとしている(9節の逆戻りは現在進行形)のです。しかも自然に墜ちるというより、「意図して戻ろう」としている(thelete)のです。パウロの心情を代弁すると、「どうして好き好んでまた元のひどい状態に戻ろうとするのか。とっても理解できない。」と言うようなところでしょうか。

律法主義へ逆戻りした信者:

10節の「各種の日と月と...」というのは具体的に言いますと、ユダヤ教で定められた節期の宗教行事を一生懸命守ろうとしているその姿勢が問われているのです。

この「守る」(pareteereisthe) ということばは、注意深く、落度のないように恐れつつ守る、との姿勢をさすものです。それらは、喜ばしい礼拝の心の表われではなく、守らなければ祝福を受けないという恐れから来るものでした。ちょっとここでこれらの節期がどのようなものか見てみましょう。

1)「日」とは、安息日、断食日、お祝いの日、新月を意味していました。
2)「月」とは、特別に聖なる月のことです。7月(太陽暦では10月頃)が安息の月として聖いもの(あえて日本に当てはめると除夜から元旦にかけてのようなものでしょうか?)で、そ の他、4、5、10の月は断食の月でした。
3)「節期」とは、過越(3〜4月)、ペンテコステ(5-6月)、仮庵の祭(10月)を現わしていました。
4)「年」とは、7年に一度の安息の年(土を休ませる年)を意味していました。

さて、これらの行事はユダヤ人のそれであり、ユダヤ人がその意味を籠めてこれらを守ることにパウロが意義を唱えている訳ではありません。異邦人であったガラテヤ人が、こうしたユダヤ的儀式を守らなければならないと自分で自分を縛っている心の状態こそが、信仰の本質からの逸脱だ、とパウロは言うのです。


普通私達が、あの人は信仰から墜ちてしまったという場合、昔のように大酒のみになったとか、ふしだらな生活に戻ったとか、そういうイメージで考えます。そうした誰でも分かるような信仰の逸脱ではなく、パウロが扱っているのは、もっと微妙な問題なのです。それだけに厄介とも言えましょう。

つまり、教会には通い、奉仕も真面目に行い、その生活を見るといい加減なクリスチャンよりもはるかに真面目である、しかし大切な信仰の本当なあり方からずれている、といった逸脱なのです。これは、今でも起きうる逸脱です。信仰の本質、原点は何かがしっかりと捉えられる必要があります。


さて、節期の問題からいいますと、現代のクリスチャンも、日や月や各節期や年の重要性を認めています。

というのは、クリスマスとか、イースターとか、日曜日とかいった節期というものは主の恵みを覚えるよすがとなるからです。しかし、これを律法的に捉え、○○厳守といった形で、その節期の精神ではなく形を重んじるようになったら、私達もガラテヤ人クリスチャンと全く変わらない過ちに陥っていると考えなければなりません。日曜日には何故教会に集まるのでしょう。

それは、初代クリスチャンたちがキリストの復活日を覚え、喜びをもってパンを裂くために集まったと同じように、主の御前に一つの群れとして、心から喜びをもって礼拝をささげ、交わりをするために集まるのです。戒律でも義務でもありません。その精神が大切なのです。

パウロにとって、信仰とはある形に人間をはめ込む事ではなく、キリストへの単純なそして絶対的な信頼だったのです。それは当然ある形として結実するものでしたが、形を先ず作るという思想は、正に信仰に反することでした。


B.伝道者の訴え(12−16節)

12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。

パウロは先ずガラテヤ人が彼の信仰に倣うことを願った

パウロがここで「私にようになって欲しい」と語ったのは、自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ的な戒律の束縛からは自由になっている、つまり、異邦人と変わらない生活態度をもって、あなたがたガラテヤ人と一体化しようとしたのだ、と言うことを思い起こさせようとしているのです。私と同じように、あなたがたも律法から自由な生き方をしなさい、とパウロは勧めているわけです。

「昔は天使」

それからパウロは、彼等が示した優しさを取り戻してくれるように彼らの情に訴えながら願っています。パウロがガラテヤ諸教会を開拓した時、彼等はパウロを傷つけるような言動はしませんでした(12節b)。この時パウロは、おそらく目の病か何かで次の宣教地に赴く健康状態ではなく、しばらくガラテヤに留まっていたのです。

伝道者は外から見るほどいつも強い状態ばかりではなく、時にはいろいろな事情で弱っていることもあるのです。しかし、ガラテヤの人々はそのようなパウロを見ても、決してさげすんだりすることなく、かえって「私の目を剔って差し上げたい」とまで申し出たのです。何という愛に満ちた伝道者と信徒との交流でしょうか。

ところが今はと言いますと、パウロの教えから離れて、戒律主義の虜になってしまっています。昔は天使、今は敵、これは何という変わりようでしょうか。(16節の敵という言葉は、パウロが持っていた敵対心ではなく、敵と思われてしまったという受け身的な関係を現わします。)

なぜそうなったのでしょう。それはパウロが「真理を語った為(16節)」と、パウロは考えています。本当のことを語ったがゆえに、敵対視されると言うのは大変悲しいことです。

パウロはこの現状を大変悲しく思っていて、ガラテヤ教会の人々にぜひ過去の純粋な愛と喜びを思い出して、(救われた喜びに基づく)献身に戻って欲しいと語っているのです。


C. 伝道者の願い(17-20節)

17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。

律法主義者の動機の邪悪さ

パウロは、利己主義的な動機をもって働く伝道者と称するユダヤ主義者の故に困惑しています。17節でパウロは、ユダヤ主義者達が自分達の党派を作ろうとして熱心に働いている様を嘆いています。このような者たちは、自分で教会を開拓するわけではなく、パウロたちが開拓した教会に後から出向いていって、「戒律主義」と言う誤った教えを吹き込んで自分たちの仲間に入れようとしていたのです。

自分達に熱心なもの(つまり自分達の味方)を作る、これは党派の始まりです。その結果、福音ではない律法主義がガラテヤ人を福音から締め出す結果を生みました。純粋な福音を伝えるパウロも当然締め出そうというのが彼等の動機でした。

教会の働きに熱心なのは良いことですが、動機が自己中心ですと、大変困った結果を齎すものです。大体に置いて、「自分が...」と自己中心的なことが主目的となる行いは正しくないものであり、教会にとって害のある行為になります。

18節はその事に関連して、良き業や良き態度の故に結果的に慕われることは幸いであると言って、味方を作為的に作ろうとする熱心を暗に批判しています。キリスト者にとって非常に大切な目標は、自己の実現ではなく、キリストの品性が我々に実現することなのです。


ガラテヤ人に対する願い

パウロは次に、彼のガラテヤ人に対する願いを19、20節に凝縮して表現しております。

パウロの奉仕の目的は、ガラテヤ人クリスチャンの中にキリストが形作られることにありました。それ以外に、自分が崇められたい、認められたいという願いからは全く自由でした。

そして私達の新しい命のゴールはキリストの形の成ること、つまり、内側に彼の品性が形成されることです。地上のクリスチャンの人生とは、まさにこの「キリストに似せられていく」と言う過程なのです。

第二コリント3:18には

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

とパウロが語っていますし、第一ヨハネ3:2には、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

とヨハネが語っています。

これこそがクリスチャン生活の最大・究極のゴールではないでしょうか。


さて、形成という言葉(morphoo)は、形を成す、形造るといった意味ではありますが、顔や姿がキリストに似てくると言うことを指すのではありません。この場合キリストの全き形と命が、信者の心に形成される事を指しています。勿論、形を作るのはパウロでもなく、また彼等自身でもなく、神・聖霊ご自身です。

ここで、これに関連したガラテヤ5章22-23節を、皆さんで読んでいただきましょう。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

この中の各言葉に「イエス様のような」と言う枕詞をつけてみていただくと、大変わかりやすいのではないでしょうか?このようなすばらしい果実が、御霊の実として私たちに与えられるのです。これが私たちのゴールなのです。


19節で、パウロはその目的のために「産みの苦しみ」を味わっていると語っております。パウロは「再び」という言葉で、彼等の回心に於ける産みの苦しみを暗示しています。勿論新しい命を与えるのは御霊ご自身であって、伝道者ではないのですが、回心に至る苦労が出産に例えられます(Iコリント 4:15、ピレモン10)。

産みの苦しみ」とはまた、「希望」の苦しみでもあります。「産みの苦しみ」を味わったご婦人もここにはたくさんおられます。その方々にはよくおわかりになると思いますが、「産みの苦しみ」とは必ずやその現状から新しい良い状態へ進むことが約束されているのですが、その時点では大変苦しい、そういうものではないでしょうか?

クリスチャンにとっての「産みの苦しみ」と言うのもこのような希望の苦しみです。将来必ずやキリストと同じ品性を身につけることができるのですが、そこに至るまでにいろいろ昔の事を思い返して苦しんでみたり、自分がイヤになってしまって苦しんだりするのです。必ずそうなるとはわかっていても、そのレベルと現状のギャップに悩んでしまうのです。

こういう苦しみの中に私たちはおりますが、聖霊の働きによって一歩一歩着実に最終ゴールに近づいているのです。しかし強調すべきは、これは律法を守ったりする事で達成されるのではなく、私たちの心に住まわれる聖霊のはたきによると言うことです。

この「産みの苦しみ」にもだえ苦しんでいるのは私たちだけではありません。例えばローマ8:21を見ていただくとおわかりになると思いますが、被造物全てが苦しんでいるのです。ある意味現在の地球環境の悪化なども、このような苦しみと言うことが言えましょう。

産みの苦しみ」に対して私たちがなすべき事は、具体的に何でしょうか。魂の為の真実な祈りと、必要な折々に与えられる勧告、さらにいえば、生活を通しての模範が含まれていましょう。

私達の心の中にキリストの形がなるために誰かが祈り、みちびいていて下さるという事実は、私達に厳粛な思いを与えないでしょうか。そうです。まず私達自身のうちにキリストのかたちつくられるために、真剣にまた謙って祈りましょう。そして完全な意味での主イエスの「子ども」とさせていただきましょう。さらに、私達は誰かの為に産みの苦しみをしているでしょうか。キリストの心をもって誰かの為にとりなすものとなりましょう。


Editied and written by K. Ohta on 2000.7.25