礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年7月30日

ガラテヤ書連講(14)

「福音の与える自由」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書4章21〜5章1節

中心聖句

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たち」を解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

(1節)


始めに:

1.前回は信仰から逸脱したガラテヤ人クリスチャンのために悩んでいるパウロの個人的告白に焦点を当てて、その産みの苦しみをかいま見ました。そしてそれが 「キリストの形造られる」ための苦しみでもあることを学びました。

今回は、もう一 歩進んでクリスチャンの自由を扱う部分です。このクリスチャンの自由は、 イサクとイシマエルというアブラハムの二人の息子の例えで語られます。


A.イサクとイシマエル

1.議論の呼び掛け

21節にあります。  「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてくだ さい。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。」非常に唐突な議論の開始です。ここで律法という言葉が二回出て来ます が、意味は異なります。

第一のものは(定冠詞なしで記されており)モーセの律法を指 しています。第二のものは定冠詞付きで、聖書全体を指します。要は、「聖書から議論をしま しょう」、と呼び掛けているわけです。

2.アブラハムの二人の子

1)母親の違い22節に、「そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴 隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。」とあります。イスラエルの祖先であるアブラハムが引き合いに出されます。その二人の息子がまず紹介されます。

先に生まれたのは女奴隷(tees paidiskees= bondmaid)であっ たハガルの子イシマエルで、次の子は正妻のサラから生まれたイサクでした。

2)誕生の質の違い

23節に、「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。」とあります。

これはハガルからイシマエルが、サラからイサクが生まれた事を指しています。

前者は肉によって(つまり、自然的な人間的行為の結果として)生まれ、後者は奇蹟の子、約束の子として生まれました。この約束は創世記17:16、19、18:10の神の約束を示して居ると思われます。

アブラハムもサラも子供を生む年令 を遥かに過ぎていましたが、神の約束が与えられ、その約束を信じる信仰によって子供を生みました。アブラハム100歳、サラ90歳の時です。


B.並行的な真理

1.比喩という意味

24節に「 このことには比喩があります。」とあります。

この「比喩があリます」の「比喩」というのは、「型」とも異なります。型とは、青銅の蛇がキリス トの十字架を予告すると言った、論理的な繋がりのことです。

これに対して、比喩と は、ある出来事の理想的な人物像を象徴的に描き出すものです。比喩はその元となる人物像と、描かれる概念との間には、緩やかな相似関係があればそれでよいので す。

この場合、イサクとイシマエルの物語りそのものの意味が「律法と自由との対立」であったというのではなく、このものがたりを象徴的に利用して、律法と自由の関係を説明しようとしています。

2.象徴的真理

 この女たちは、という表現で、彼等が二つの契約を代表している、とパウ ロは言っています。

1)律法

   24・25節に、「この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。(このハガルは、アラビヤにあるシナ イ山のことで、今のエルサレムに当たります)
 なぜなら、彼女はその子どもたちとと もに奴隷だからです。」ハガル-シナイ山(律法の与えられた場所)−地のエルサレム(律法が実行されている現在の中心地)-奴隷、となっているのです。

2)約束

26・27節には、「しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。すなわち、こう書いてあります。『喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。』」

 サラ-上のエルサレム(永遠の、または霊的なもの、そして教会の中心) -自由、とつながっていくのです。ここでのイザヤ書引用は54章1節からで、バビロン捕囚の後の人口増殖の予言です。

 夫のある女は捕囚前のイスラエル、不妊の女のその後のイスラエルを指して いましょう。特に、ここでは不妊のサラが子供を生むことの奇蹟性を指しています。更に、クリスチャンが新生という奇跡で霊的な誕生をすることをも示唆しています。

3.クリスチャンへの適用

1)約束の子供 

28節には「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」とあります。約束された子供という意味ではなく、「神の約束を持った子供」 のことを表しています。

2)律法からくる迫害

  29節をみると「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」とあります。創世記21章9節には、イシマエルはイサクをからかったとありますが、それだけではなく、伝聞では、野において弓矢で殺そうとしたという伝承があります。

3)律法を追放

30・31節ではどうでしょうか。

 「しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人にな ってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもで はなく、自由の女の子どもです。」

  丁度、サラがイシマエルを追放する宣言をし、神がそれを了承されたよう に(創世記21:10、12)律法による救いという原理は追い出されるべきであっ て、信仰による救いの教理と共存はできません。ここにパウロの 強力な論議の結論が 来ます。

 救いについて妥協点はあり得ません。一つが立てば他は除かれます。信仰に よる救いが容れられれば、行いによる救いは放棄されねばなりません。ここで「自由 の子供」と象徴されているのは、信仰によってすくわれる原理で、福音が与える律法 の束縛からの自由を指しています。それが、次の節(章)へと受け継がれて行きます。


C. 自由の宣言

今回は、つぎのみことば−5章1節−に焦点を当てたいと思います。

 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

 これは『福音のマグナカルタ(大憲章)』とも呼ばれる自由の宣言です。このクリスチャンの自由について、 聖書全体から学んで 見ます。

 1.人間はもともと自由な存在として造られました。人間は神の像に造られたと記さ れていますが、その神の像の中に「自分で自分の道を選ぶ自由」が含まれていました。人間は神に従うような自動ロボットではなく、自由意志をもって神に従うか否か も選べる自由を持っていました。

 2.しかし、残念ながら人間がその自由意志を悪い方に使って 神に背き罪を犯す様 になってから、罪の奴隷となってしまいました。

ヨハネ8章34節には、「「まことに、 ことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」と 主は語っておられます。

  3.キリストは私達に真の自由を与え、自由を回復するために地上に来られました。

ルカ4章18節には「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧 しい人々に福音を伝 えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人 には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を 自由にするために。」と記されています。


Editied and written by K. Ootsuka on 2000.8.4