礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年8月6日

ガラテヤ書連講(15)

「愛を通して働く信仰」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書5章1〜15節

中心聖句

5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

節)


始めに:

前回はクリスチャンの自由を扱いました。その自由とは:

1)旧約聖書の儀式的な律法からの自由
2)救いの手段としての律法からの自由
3)罪とその支配力からの自由
4)神以外の何ものにも支配されない精神的自由でした。

この素晴しい自由を奪う危険も強く存在していました。

今日は5章前半から、その二つの要素のうちの一つである律法主義を見たいと思います。


A.律法主義の危険(5章1節−12節)

課題:パウロがガラテヤ書で戦っているのは、この教えです。

2章4節には、

実は、 忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たち を奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかが うために忍び込んでいたのです。

とありますように、律法主義に引き戻そうとした ユダヤ主義的な教師達がガラテヤ諸教会に入り込んで、生まれたばかりのクリスチャ ン達を味方に引き込もうとしていました。

その危険性が5章1節から12節までもう一度繰り返されますが、この部分を四つに分けて見ることにしましょう。

1.律法主義は福音の自由を脅かす(1節)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

英語ではFor freedom did Christ set us free. と強調的に訳せるでしょう。
キリス トの来られた目的は私達に自由を与える為であり、律法主義への回帰はその目的を台 なしにしてしまいます。

くびきとは、奴隷が逃げ出さないように首に括り付けられた おもりです。しっかり立たないと、このくびきにまとわれるようになってしまいます。

2.割礼は律法主義の束縛の象徴(2−4節)

2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
4 律法によって義と認められようとしているあなたがた は、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

1)「割礼を受けるなら」という言葉は、ガラテヤ人がまだ割礼を受けていなかった事を示唆しています。今なら間に合う、とパウロは思ったのでしょう。

割礼とは、男性の性器の一部を切り取る儀式ですが、これがアブラハムに適用された時は、神の民 となるという契約の徴でした。

それがイスラエルの民全般に適用され、特に幼児期に 行われるようになりました。ユダヤ人でない人々がユダヤ教に帰依する場合には、成 人の割礼が行われました。

ガラテヤ人の場合の問題はユダヤ教への改宗の儀式として でしたから、大問題となったのです。

2)割礼を受けるとは、ユダヤ教の律法組織に組み込まれるという象徴でした。もし律法による救いを選択する道をとるならば、キリストにある救いを放棄することになる、とパウロは言います。

これについてクリソストムは、「割礼を受ける者は律法を恐れる気持ちから割礼を受ける。しかし、律法を恐れるものは恵みの力への信頼を失う。信頼を持たないものは、その対象であるキリストから何物も受けない。」と説明しています。

パウロは、割礼を受けるものは、律法全体を、その細部に至るまで遵守 する義務が発生すると言っています。サッカーではボールを自分のゴールに蹴り込む ことをオウンゴール(自殺点)と言いますが、異邦人クリスチャンが割礼を受ける のは正に”自殺点”なのです。

3)パウロから見るガラテヤ人は、すでに「キリストから離れ」てしまっています。(kateergeetheete=you were brought to nought from Christ)とは、キリストとの結合が解除されてしまった有様を表わします。

ガラテヤ人クリスチャンは割礼を受けて ユダヤ教に完全に帰依する迄には進んでいなかったようですが、節期を守ることを通 してユダヤ教に深く傾いていました。ユダヤ教の教師は「律法を守りつつクリスチャ ンであることは可能」と教えましたが、パウロは断固この妥協を拒否しました。

3.信仰によって生きる大切さ(5・6節)

5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱 いているのです。
6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事な ことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

1)「というのは」と言う言葉が本来は冒頭にあります。

これは、4節までの宣言の 理由を説明するための接続詞です。

つまり本当 のクリスチャンは、聖霊に頼る信仰をもって、信仰生活を始め、そして、復活に与る ときに経験する「義」(栄光の体に変化すること)を同じ信仰によって待ち望むので す。

3)そうならば、割礼は信仰生活において何の意味も持ちません。

4)意味を持つのは愛に現れる信仰だけです。

愛は律法の完成であり、その愛に現れるのが信仰だからです。その意味では、信仰
は律法を完成させる動力です。

(テモテへの手紙第一1章5節、第一テサロニケ人への手紙第一1章3節、コリント人への手紙第一13章)。

「愛によって働く信仰」と は、「愛が原動力となって働いている信仰」という意味ではな、く「愛という道筋を通 して働き出る信仰」という意味です。この思想は13−15節で更に詳しく論じられます。

神の前に価値を持つのは、その人の社会的、人種的、宗教的背景ではなく、霊的な実質、「愛を通して働く信仰」なのです。

4.偽りの教師達の災い(7節ー12節)

7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理 に従わなくさせたのですか。
8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった 方から出たものではありません。
9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。
10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確 信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。
11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。
12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。

1)ガラテヤ人の過去の信仰生活が「良く走る」(正しい道を良き進歩をもって歩む)という言葉で言い表されています。

2)「真理に従わなくさせた」のは当然ユダヤ主義者のことです。彼等はガラテヤ人を自分達の流儀に従うように説得しました。

3)新約聖書でパン種の比喩は、殆どの場合悪いことの例えとして使われています。律法主義者の教えは、その一部分を受け入れたとしても、福音の原則を大きく損なうものだったのです。

4)先ほども述べましたように、パウロはガラテヤ人クリスチャンはまだ回復可能であると信じていました。その期待が「少しも(信じて救われたばかりの状態にくらべて)違っていない(ようになるであろう、という未来形)」という確信の表現となりました。この手紙がその様な効果をもたらすものと信じていたのではないでしょうか。

5)そのガラテヤ・クリスチャンを乱すものは、「裁きを受ける」のが当然です。パウロは12節ではもっと強く、「不具になってしまえ」(文字通りには、去勢されてしまえ)と宣告しています。とてもクリスチャンらしくない言い方のようですが、それ ほど福音の真理を意図的に損なうものの受ける厳しい裁きを示しています。

6)パウロは割礼を(救われる前にそうしたように)述べ伝えたならば、つまり、律法主義者に同調したら迫害は受けなかっただろうという、仮定の設問をしています。実際は反対でした。

[クリスチャンの自由を損なう第二の要素として、放縦(自由の履き違え)が13節から17節に記されていますが、次回に委ねます。ただ、6節の中で愛を通して働く信仰と言う課題が出て、それがこの部分で敷衍されていますので、愛という角度から纏めて見たいと思います。]


B. 愛に現れる信仰

1.愛に現れない「信仰」とは?

これをヤコブは頭の信仰と呼んでいます。正しい教理を頷き、キリストが救 い主であると賛成しますが、何の行動の変化も起きていない人々です。ヤコブの手紙2章:14節から19節を見ますと、こうあります。

14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その 人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うこと ができるでしょうか。
15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎 日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、 もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じよう に、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。・・・
19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

と言っています。

2.キリストへのより頼み・神の愛の注ぎ

しかし、自分の弱さを本当に認めて、キリストとその救いに対して全面的により頼み信仰を言い表しますと、不思議な事が置きます。それは、聖霊によって神の愛が私達の心に注がれるのです。(ローマ人への手紙5章5節にあるとおりです)

自分の力では愛せなくても、愛す ることが出来るようになるのです。僕として、互いに仕え合う力が与えられるので す。そしてその結果、「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい」という命令が、頑張らずにできるようになるのです。

逆に言えば、互いにかみ合ったり、食い合ったり したらそれは、信仰の欠如を物語っています。その様な群は滅んでしまいます。

3.愛は律法の要約

愛は律法の趣旨を要約したものです。レビ記 19章9節から18節には、極めて実際 的な隣人に対する愛の行いが要求されており、その全体の締め括りが「自分のように あなたの隣人を愛しなさい」となっています。

9あなたがたの土 地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち 穂を集めてはならない。・・・
11 盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽 ってはならない。
12 あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならな い。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。
13 あなたの隣人を しいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃
金を朝まで、あなたのもと にとどめていてはならない。
14 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目 の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わた しは主である。
15 不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。
16 人々の 間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはなら ない。わたしは主である。
17 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あな たの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うこと はない。
18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

敢えて律法、律法と叫 ばなくても、信仰に生きると愛が湧き出て来て、隣人を愛することによって自ずと律法 を実行してしまっている自分を発見するのです。

これこそが信仰の勝利です。このよ うな信仰を広めて行こうではありませんか。

4.愛=互いに僕として仕える

愛というのは、「互いに自発的な奴隷として仕える」ことが具体的な現れです。互いに仕えることを学ぶ最も格好な場所が教会です。ここで、この訓練を頂き、 教会のそとにもこれを広めて行きたいものです。新約聖書には「互いに」という言葉 が沢山出てきます。

互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに自分よりも勝るものと思い、 互いに尊敬し、互いに祈り合い、互いに忍び、互いに受け入れ、互いに赦し合い、互 いに励まし合い、徳を建て上げ、戒め合わなければなりません。誰か偉い人がいてそ れに従うのではなく、互いに従うのが教会です。

5.愛は聖霊との歩みによって成長する
  この愛にもっともっと進歩したいものです。聖霊の助けを期待し、導きに従 う生き方の結実として、私達はより一層愛における成長を期待しようではありませんか。


Compiled by Kenji Ootuka on 2000.8.12