礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年8月13日

ガラテヤ書連講(16)

「御霊によって歩みなさい」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書5章13〜26節

中心聖句

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

(16節)


始めに:

 先週は5:6後半から、クリスチャン生活で一番大事なものとしての「愛によって働く信仰」について学びました。それは、クリスチャン生活の全てにおいて「愛に現れるような本当の信仰」の事でありました。

 今日は、この御霊の歩みについて別の角度から取り上げてみたいと思います。きょうのポイントは、クリスチャンの自由に対するもう一つの危険である放縦についてであり、それに対する回答としての「御霊による歩み」を学びます。

 しかしその前にこの部分全体の内容を概観してみましょう。聖書の言葉は文脈の中で意味のあるものであり、一つだけ取り出して自分勝手に解釈してはいけません。神の言葉は全体の流れを取ることが大切です。そういう意味で一通り全体を俯瞰してみたいと思います。


A.テキストの解説

1.自由を脅かす放縦(13ー15節)

13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
14 律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。
15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

13節は原本では「なぜなら」ということばから始まっています。これは5章の前半の「律法主義が純粋な信仰を危うくする」と言う内容を受けているからです。

ガラテヤ人の抱いていた信仰を覆えし、再び奴隷にしようとする人々に対して激いたしました。そこ受けて再びパウロは、「何故なら、あなたがたは自由を与えられる為に召されたのです。」と語り、信仰によって得られる自由について強調いたしました。

しかしパウロはここでその自由について、「ただ」と言う但し書きを述べています。クリスチャンには自由があるからと言って、何をしてもいいというわけではありません。

13節では「肉」と書かれておりますが、これは牛肉や豚肉などの肉とは違う意味を持った言葉です。「肉」とはこの場合、「神を離れた人間性」と定義され、愛の欠如と自己中心性を意味しています。より具体的に言いますと、肉欲中心の生活であるとか、その逆に極端な禁欲主義に走ることなどが挙げられます。これらは見た目は全くちがうものに映りますが、実は根っこは同じものです。

パウロがここで言いたかったことは、肉的なでたらめな生き方・放縦、律法主義的な禁欲主義などを警戒し、愛をもって互いに仕えあいなさい、と言うことです。なぜなら、「愛」と言うものが全ての律法を包含する原理だからです。

14節では、そのことが「愛によって律法全体が全うされる」とはっきり示されています。14節の「全うされる」とは、成就されるとの意味です。すなわち愛の原理によって律法で成就されると考えられていたこと全てがかなうと言うわけです。

15節では、「噛み合う」ということばが出て参ります。英語でback bite ということばがありますが、これは「陰口を言う」と言う意味を持ちます。ガラテヤ教会でも陰口を言うなど教会内に分派闘争があったことが伺われます。そうした闘いは、クリスチャンの共同体全部にとって致命的です。

こういう内部の争いは、ガラテヤ教会人がキリスト者の自由をはき違えていた可能性を示唆しております。パウロの言うところの本当のキリスト者の自由とは、利己的な目的の為に悪用されてはならないものだったはずです。

自由に対する危険とは、その履き違えである放縦(デタラメ主義)です。私達は、自由、自由と叫んで、デタラメな生活を送る危険も大いにあります。

その放縦をもたらすのは、先ほど申しました「神を離れたものとしての人間性」としての「肉」です。


2.御霊による歩みの大切さ(16ー18節)

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

16節の「歩む」という言葉は、日常的、習慣的な行動を比喩的な表現です。

「御霊によって」(pneumati)とは「御霊にあって」という意味よりも強い「御霊に頼って」との意味です。

「満足させる」とは、行動によって成し遂げる、といった意味です。

「肉の欲望」(epithumian)とは肉体を持って居る故に起きる自然の本能のことではなく、神の御霊の働きを除外したものとしての人間性質のもたらす欲求のことです。もう少しわかりやすく言いますと、本能や欲望が本来の目的と違ったことに向けられるのがマズイのです。それを快楽のためにむさぼるのも生けませんが、「信仰」によって封じ込めて、禁欲主義に走るのも良くないことです。

何よりも大切なのはこの後にも出て参りますが、「聖霊と共に歩む」と言うことに他なりません。

しかし聖霊の原理と肉の原理は相対立するものであり、互いに相手を邪魔しようと働いている、とパウロは言うのです。両方持っている人がいるとすればそれはジキルとハイドのような人でしょう。

肉が働いている以上「良い人間」になることはありません。肉の欲を取り除くことが大切ですが、そのためには御霊の原理にまず従うことが大切になってきます。

パウロは18節では、この二つの原理のうち御霊の働きを優先させるならば、肉の原理には立たないという前節の結論をふえんして、さらに律法の下にもいないと語ります。


3.肉の行い(19ー21節)

19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

人間が持って生まれた性質をそのまま表わすときの、おぞましい絵がここにえがかれています。読んでみるとガッカリするようなことばかりです。これについては次週に詳しく学びましょう。


4.御霊の実(22ー24節)

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

これに対し、御霊の実というのはなんと素晴しいものでしょう。「実」というのは成果のことを指します。これは気がつかないうちに自然にトマトの実がなってくるように、毎日努力したから付くというようなものでなく、私たちが聖霊という根っこにつながっていることによって自然に生じる実です。これについても次回の学びといたします。

「キリスト・イエスにつく者」、すなわちキリスト者は「肉」の存在を処理された者だ、という立場が再び24節で言明されます。「欲望」(patheemasin)は情熱(パッション)という意味です。新約聖書では多くの場合、悪しき欲望という意味で使われます。

この「欲望」を「十字架につけてしまった」と書かれておりますが、これは現在完了形で書かれております。すなわち、罪の性質は全部終わりと言うことを、十字架が成し遂げてしまった、と言うことが意味されているのです。この十字架を「私のこと」として捉え信じる、その時情欲も既に十字架につけてしまっているのです。

こう言いますと、全てのクリスチャンが完全に欲望から解放され、まるで仙人のようになるのか、と考える人がいるかも知れません。しかし、クリスチャンになったからと言って異性に関心が無くなるとか、食欲も全く感じなくなると言うのは、あり得ないことです。

先ほども言いましたが、問題なのはその欲求が神が与えたもうた本来の目的から逸脱し、自己中心の目的に向けられることなのです。従って、欲求が無くなってしまうと言うことが目標ではありません。

自分の欲求のためなら何をしても良い、他人がどうなろうと自分さえよければいいのだ、と言う利己心を捨てることが肝心なのです。

御霊に従って生活すると、このような利己心が自然と失われていきます。その結果が「御霊の実」と言う成果です。御霊の実が生らないのは、どこかにその株に病原菌が入っていて健全な生育ができていないからなのです。

イエス・キリストの十字架はそういうバイキンを取り除いてくれる手術みたいな存在だと考えてみてはいかがでしょうか?


5.共同歩調の必要(25、26節)

25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

「御霊と共に進む」と書かれているこの「進む」(stoichoomen)は、単なる「歩む」と言う動詞とは違って、「軍隊で列を作って行進する」という意味のことばです。16節の歩みはこれに対し「個人的な歩み」を意味します。パウロは、神の栄光を求める共通目的から離れて挑み、そねむことのないよう警告をもってこの章を終ります。

以上が今日取り上げる箇所の概観になります。それでは今日のメッセージの本題に入りましょう。


B.御霊による歩み

さてここで、この章に出てきました「御霊による歩み」というテーマを、以下の四つの角度から纏めて見たいと思います。


I.御霊による歩みの必要:何故?

1.律法主義からの自由を保証する(18節)

1節をもう一度読みましょう。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

キリスト教は、don’tやdoの寄せ集めではありません。現代のクリスチャンの中にも「クリスチャンだからこうしなければ、あああしなければ。」というガンバリズムが信仰生活だと思っている人が案外多いのです。これでは全く窮屈です。

御霊による歩みは、ガンバリズムから私達を解放して、しかも頑張りによって達成出来ない律法の真髄を達成させるのです。


2.肉欲に従わない生活を可能にする(16節)

13節には

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

として、律法主義の反対の振り子はデタラメ主義ですが、これも聖書の教えではありません。

ダイナミックな御霊による歩みが、デタラメ主義から私達を守ってくださいます。ガンバリズムもデタラメ主義も、肉(神を離れた人間性)から来ます。それがガラテヤ教会の問題であったし、今も続く永遠の課題でもあります。それを解決する神のバランスが御霊によって歩む道なのです。


II. 御霊による歩みの始まり:誰が

1.御霊によって生まれた人

御霊によって歩くことができる人の前提条件は、「御霊によって新しく生まれ変わっているこ」とです。

25 もし私たちが御霊によって生きるのなら(生まれてているのなら)、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

の生きるとは生かされている、命が与えられている、との意味です。3:2、3にはそのことが御霊が与えられる、御霊によって始まったという表現で示されています。要約すれば、救われた時に御霊は信じる者の心に与えられているのです。

主イエスはニコデモに「誰でも新しく生まれなければ神の御国に入ることはできない」と言っており、また「水と御霊によって生まれ変わる」と語っています。この「水」はバプテスマのことを示します。

もしこのことが不確かであれば、そこから始めねばなりません。今すぐ、はっきりとクリスチャン経験のスタートを切って下さい。罪の悔い改めをしっかりとして下さい。これによって「新しく生まれた人」になり、そこで始めて御霊と共に生きる人となることができます。


2.悪しき情欲と肉性を十字架につけた人(24節)

これは情欲や肉性を完全に捨て去った人と言うことではなく、十字架を信ずる信仰によって初発的かつ「潜在的」に捨てた人を指します。救いの時の情欲の捨て方はこのような潜在的な捨て方であり、心のどこかにその芽がまだ残ったままです。

せっかく救われても、金銭のことが絡んだり、自分のプライドが傷つけられたときに、またしても肉性が鎌首をもたげ始めます。また妬みや嫉妬などの心も完全に捨て切れていません。こういう問題は皆肉から出ていることで、たとえ教会であっても起こり得ることなのです。

信仰生活のどこかで主イエスの十字架が、己の肉性を捨てる為であったことを知り、それを認めて信仰告白した経験をすること、これはロマ書に書かれている「キリストと共に死んだ者」であり、このことが御霊によって歩む信仰成長の第1前提条件なのです。


III.御霊による歩みの内容:どのように?

1.個人的に:

「御霊によって」との表現(in spirit)は、彼に頼って、彼の方向に従ってとの意味です(16、25節)。

「導かれて」(18節)とは、主イエスののリーダーシップに従うことです。

もう少しわかりやすくたとえて言いますと、主イエス・聖霊と歩む人生は、高貴な人・大先生と二人旅をするようなものである、と心得て下さい。

まず聖霊というお方が身近にいると言うことを、祈りつつ認識するようにして下さい。また、旅行で偉い先生を無視して旅することがないと思いますが、そのように頻繁に聖霊と語り合って下さい。

もう一つは「聞く」ということ。聖霊に聞く時をどんなときでも取りましょう。何を聞くかですが、聖霊の言葉は聖書の言葉、聖書はまた聖霊の働きによって書かれた言葉ですので、聖書の学び、祈りの中の思い巡らしましょう。

自己中心の思いと、聖霊の語りかけを区別する良い方法は、聖書に照らしてみるということです。かといってお神籤のように聖書をつまみ食いするのではなく、身に付くほど全体のイメージを重視して読んでいただきたいものです。

また、人から忠告を受ける時も、聖霊によって良くその意味を教えていただくことでができます。

次に大切なことは、導きが与えられた時に、素直に直ちに従う事です。せっかく聖霊が語りかけて下さっても、それを無視しているとどんどん肉の生活に落ちていってしまいます。

さらに、何事に置いても聖霊に導きを仰ぎましょう。自分の知恵と経験に頼らず、聖霊第一に生きていくことです。

以上のことを行うためには、ある面かなり感受性を豊かにしなければなりません。sensitiveな心を持ちましょう。


2.共同的な歩調:

25節の進もうとは、歩調を合わせて進むマーチの時の用語であるとお話ししました。

潔めの歩みが個人の内面的な生活に限定されていて、クリスチャン同士の人間関係をどう開発するかが充分解明されていない嫌いがありますが、ここが充分に開発されていないと、清められたはずのクリスチャン同士で抜き差しならない敵対関係が生じたりします(26節にそれが暗示されています)。

どうしたらよいのでしょうか。

1)他の人のペースに心を用いること(25節)。自分だけの霊的生活ではなく、相互の魂への関心を持ちましょう。
2)謙遜と愛をもって忠告すること(6:1)。
3)他の人の重荷を負うこと(6:2)。

これらのことはまず一人一人が御霊に歩調を合わせることが出発点となります。天に召された渡辺勧士がこのことに関しておもしろいたとえ話をして下さったことがあります。ある馬の品評会で、いろいろな馬がそれぞれの曲芸を披露して競っていたそうです。しかし、一等を取った馬はただ2周ほど馬場を歩いただけだったそうです。なぜこの馬が優勝したかと言いますと、その2周完璧に同じ歩調で歩き続けたからだったそうです。

私たちもこのように御霊と歩調を合わせて歩んで移行ではありませんか。


Written by I. Saoshiro & Edited by K. Ohta on 2000.8.16