礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年8月20日

ガラテヤ書連講(11)

「御霊の美わしい実」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書 5章16-26節

中心聖句

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

(22,23節)

 

アウトライン:

 本日は御霊の歩みの結果として得られる「御霊の実」とはどんなものかを、人間のもって生まれた性質である「肉の行い」との対比によって学びたい。
 

教訓:御霊の実を求め、御霊によって歩もう


導入


 ガラテヤ書の学びが続いておりますが、本日の聖書の箇所は先週と同じガラテヤ書の5章です。先週は格別に5章の16節と25節のお言葉に焦点をあてて御霊による歩みということについてお話申し上げました。もう一度その箇所をご一緒に読み返してみましょう。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 私達が、内にいます聖霊を仰ぎ、認識し、物語り、従い、頼りつつこの世の旅路を進む幸いを語りました。

 今日は、少し焦点を変えまして、その結果としての「
御霊の実」について(22,23節)、それを「肉の行い」(19〜21節)と対比しながら学びたいと思います。


A. 肉の行い

 5章の19節から21節には肉の行いについて書かれています。

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。


1. 肉とは何か

 ここでいう
とは、肉屋さんで売っている豚肉や鶏肉のことではなくて、神を離れたものとしての人間の性質を表わしています。

 ガラテヤ書では主としてそれが律法を遵守することによって自分の救いを完成しようと言う
ガンバリスムに現れる場合を問題にしていますが、一方ではそれが何をしても良いというデタラメ主義となって現れる事もあり、ここではそれがむき出しとなったらどのようなことになるかについて、具体的なリストにして述べられています。

 そしてこれはガラテヤ書が書かれた2000年前のギリシャ、ローマの世界だけの問題ではなくて、今の時代ますますひどいものになっているように思われます。

2. 肉の行いの内容

1) 性的な不道徳

 最初の三つは性的な不道徳です。これら三つはは当時の特にギリシャ・ローマ社会の道徳的な傾向を示しています。

a. 不品行

 ギリシャ語では
porneiaで、いわゆるポルノの語源になった言葉ですが、文字通りには売春、後には姦淫、同性愛を含む一切の非合法的性関係を指しています。

b. 汚れ

 心と体の汚れで、神との間を隔てるものです。

c. 好色

 道徳的なたがが外れた状態で、公序良俗を破壊する様な官能本意主義を示しています。

 目を覆いたくなるような性的に不道徳な雑誌が蔓延している現在の日本を見ると、とても文明国とは思えません。私はこれはひとつの文明にとって末期の症状ではないかと思います。ローマ帝国が滅びたのはひどい不道徳がはびこったからですが、日本もこのような、周りの国と比べても非常に恥かしい道徳的な水準にあり続けるならば、必ずや神の裁きがあると思います。

2) 間違った宗教

 次は間違った宗教の行いです。

a. 偶像礼拝

 直接的にはこの時代の他の宗教のように、目に見える形の偶像、およびその背後にある神ならざる神々を拝むことを指していますが、真の神以外のものを心の中で第一とするという広い意味でとらえると、例えばお金や物や特定の人を一番大事にするといったことは、現在も広く行われているといえましょう。

b. 魔術

 薬を使った魔術や占いを指しています。

3) 醜い人間関係

 次の八つは醜い人間関係です。

a. 敵意

 自分と異なる人々、特に
異民族に対する敵対的な心のことです。

b. 争い

 その敵意を行動や言葉に表すと争いになります。

c. そねみ

 原語では
zeelosで、熱意という良い意味も含んでいますが、この場合は嫉妬的な意味で、熱心に成功を求めている人が、成功をした他人を見てねたましく感じる感情をさします。

d. 憤り

 クリスチャンはどんな場合にも怒ってはいけないという意味ではありません。不正に対しては我々は怒りを持って応ずるべきです。そうではなくて、ここでいっているのは、
自分の損得に基づいた感情の爆発を意味しています。

e. 党派心

 
個人的な利己的な野心のことです。

f. 分裂

 その利己的な野心によって結びついた人々が形造る党派のことです。真実な意味での意見の相違は、人間である限り、教会でも存在するでしょう。しかし、ここで言っているような党派心に基づく分裂は教会に致命的な打撃を与えます。

g. 分派

 教会内の党派で、ある確信に基づいて行動するグループのことです。必ずしも上記の党派心のような利己的な動機ではなくても、
自分だけが正しいという傲慢が含まれています。我々は人と意見の相違がある場合には常に、もしかしたら自分の方が間違っているかもしれないという謙虚さを持ちたいものです。

h. ねたみ

 積極的に他の人を蹴落としたいという思いのことです。

4) でたらめな生活

 次にでたらめな生活を示す言葉が二つ続きます。

a. 酩酊

 酒の飲みすぎのことです。

b. 遊興

 道楽、放蕩といった堕落的な遊びを指す言葉です。


 「
そういった類」という言葉で示されておりますように、これらのリストは罪の全部を示したものではなくて、その他もろもろ、もっと色々なものがあると述べられています。

 またこれは、クリスチャンはこんなことはしてはいけませんという、新しいルール、律法を制定するものでもありません。

 このリストの目的は、神の助け無しには人間は如何に堕落し得るものか、神から離れた人間の本質がいかに恐ろしいもので、それがどんな結果を生み出すかを自覚するためのものでした。


3. 肉の行いの結果

 21節の後半には、

前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

とあります。これらの肉の行いをしている人々は神の国を相続することはない、つまり、天国には行けないのです。こんなものを持ったまま皆が天国に行ったら天国はなんと居心地の悪いところになってしまうでしょう。

 
そして天国は、遠い先の話ではなくて、今ここから始るべきものです。これらのことをそのままにしていたら、今、神の豊かな恵みの世界をつぐことができないのです。

 
では、この警告がどうしてガラテヤのクリスチャンに当てはまるのか、疑問に思う人もいるでしょう。彼らの間違いは律法主義への復帰であって、いわば真面目にクリスチャン生活を送ろうという動機がないわけではなかったからです。しかし、先週も申し上げました通り、律法主義とデタラメ主義は「肉」という同じ根っこがあります。その根っこを持つ限り、ガラテヤクリスチャンもこうした露わな肉の行いに走る可能性は大いにあったし、その兆候として互いの争いは既に発生していたらしいのです。



B.御霊の実

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 次に肉の行いとの対比で、御霊の実について述べられています。今まで見てきた肉の行いとは全く違う素晴らしい言葉が並んでいます。

1. 御霊の実の性質

 それは行いではなくて
です。それは御霊との歩みによってそのご性質が私達のものとして分け与えられるのです。努力の結果ではありません。御霊との関係が生み出す自然な結果なのです。

 御霊の実(fruit)は
単数形です。一つの実に多くの側面があるという例えで、葡萄の房がイメージ的にふさわしいでしょう。

 一番先に出てくる「
」が鍵となる言葉で、他はその愛の異なった現れとも見られましょう。何故なら愛こそは全ての徳の内の最大のものだからです

2. 御霊の実の内容

1) 心の在り方

a. 愛

 愛は徳の中の徳、全ての徳を束ねる帯のようなものです。

 この愛に使われているギリシャ語は、新約聖書の時代のクリスチャンが多用した
アガペー(agapee)という言葉です。この言葉は、肉欲的な愛という意味のエロスや、親友という意味のフィリオスに対して、自分を与える犠牲的な愛を示しています。

 美しいから、かわいらしいから、価値がありそうだから愛するのではなくて、醜いもの、価値が無いもの、さらには自分に敵意を持つものをも心から受け入れ、愛することです。

 それは、人間が持って生まれた優しさではとうてい間に合わないもので、聖霊によって神の愛がそそがれているからこそ可能なものです。私達はそれを信じて実行したいものだと思います。

b. 喜び

 
湧きあふるる愛です。あらゆる環境、逆境の中にあっても湧き出てくる主とともにある喜びのことです。それはクリスチャンに与えられる素晴らしい恵みです。牢屋に入れられたパウロとシラスは、その中でも神を賛美し続けました。

 目に見える成功だけに一喜一憂するのではなくて、逆境にあってもそれを神から与えられたものとして喜べる事です。

c. 平安

 それは
憩う愛です。困難な状況にあっても失われない、主に受け入れられているという頷き、神との平和から来る心の安らぎです。

2) 隣人関係

a. 忍耐(寛容)

 原語ではマクロトミア(
makrothumia)で、文字通りには長い心という意味です。このばあいは、他人の加える害悪に立ち向かう忍耐を示します。いわば忍ぶ愛です。

 いらいらさせる人々をむしろ思いやる大きな心でもありますから、新改訳聖書で用いられている寛容という訳は見当外れではありませんが、正確ではありません。

b. 親切

 
思いやる愛です。他の人にとって何が最善かを絶えず思いやる心、また自分とは異なる立場にある人の立場を思いやる心、またそれを行動にうつすことです。

c. 善意

 
受け入れる愛です。値しないものに向けられ、施される善意のことを意味しています。

 赦しを伴う広い心のことで、文語訳聖書のように、むしろここで「寛容」という訳語を用いたいと私は思います。

3) 行為

a. 誠実

 
一貫した愛、信頼に値する愛です。この人にまかせたら大丈夫という、あらゆる期待と義務に応える真実さのことです。

 社会の中でクリスチャンであることの証しを立てることは、先週の三谷先生のお証しにもありましたように、非常にたいへんなことです。例え、あいつはかたぶつだで、付き合いは下手で、ごまかしを頼んでも断られてしまうといって少々煙たがられたとしても、けれども仕事は確かだ、絶対に裏切る事はないという信頼感を勝ち取る事によって素晴らしい証しを立てていただきたいと思います。

b. 柔和

 これは弱さとは違います。内にしっかりした原則があるからこそ、外側は柔らかくありうるのです。

 両方やわらかいのはクラゲです。そうではなくて、しっかりとした骨は必要なのです。

 これはいわば
包む愛といえましょう。

c. 自制

 
厳しい愛です。自分に対する厳しさのことで、食欲や性欲に対する節制、より高い目標のために自分の欲求をコントロールできることです。

3. 御霊の実の特色

1) キリストらしさ

 これらの全ては完成された形で主イエス・キリストの中に存在しています。つまり聖霊の実はキリストらしさと同義語です。ですから、誰もがこれを目標とし、持ちたいと思うはずのものです。

2)神から与えられる

 御霊の実は私達の麗しい目標ですが、残念ながら私達がもって生まれた性格は殆どその反対です。愛のかわりに憎しみが、喜びのかわりに寂しさと悲しさが、平安のかわりに思い煩いが、忍耐のかわりに短気が私達を支配していないでしょうか。だからこそ私達は御霊の実を神によって与えられるものとして真実に求めたいものです。

3)聖霊との歩みで成長

 御霊の実は神によって与えられますが、一度に完成品としてパッケージで与えられるのではなくて、最初はその芽が与えられます。そしてそれが成長して実を結ぶまでには、聖霊との継続的な交わりの中での日々の歩みが必要です。

 例えていえば、庭にトマトの種を植えても一日では実らないでしょう。その成長ぶりは秤で量ることはできませんが、最初に家族がその変化に気づくことでしょう。

4)全クリスチャンに期待

 神によって与えられた賜物はひとりひとり異なっています。それは奉仕の力です。しかし御霊の実は全てのクリスチャンに実ることが期待されているのです。これこそがクリスチャンの魅力です。これが勝負です。

 そして格別に我々インマヌエルの存在意義を考えるとき、その旗印である「聖と宣」の証しはこの御霊の実にかかっています。

 プラスチックのぶどうはいくら美味しそうに作られていても食べられません。我々の御霊の実は、蜂や蟻がよって来るような本物の実でありたいと思います。そういう教会の建設がひとりひとりの良き証しによって全うされることを希望します。そして、これこそが何万言の説教にも勝る伝道の鍵であると私は信じます。



しめくくり

 御霊の実は自分ではわからないものです。そこで、家族のコメントを求めてみましょう。

 良いコメントが得られた人は感謝して主を讃美しましょう。

 批判的なコメントをもらった人は、むきになって弁解しないで、へりくだって自分の未熟さを認めて、主の恵みを求めていただきたいと思います。

 お祈り致します。


Edited and written by T. Maeda on 2000.08.24