礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年8月27日

「あなたに礼服を着せよう」

井川 正一郎 牧師

ゼカリヤ書3章1〜10節

中心聖句

3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」 そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

(4節)


はじめに(ゼカリヤ書の背景)

3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

 ゼカリヤ書は、いわゆる「捕囚帰還後の預言書」です。

 いわゆる70年のバビロン捕囚期間が満了し、クロス王の解放令によって祖国イスラエルヘの帰還が許されました。帰還は3回に分けて行われました。第1次帰還は紀元前538年(あるいは536年)にゼルバベルの指導で、第2次は紀元前458年にエズラの指導で、第3次は紀元前444(5)年にネヘミヤの指導で行われました。

 そして、きょうの預言者ゼカリヤと、ハガイが登場するのが第1次帰還の時、エズラ書では1〜6章がそれにあたります。

 どのような人々が帰還したかは、エズラ書2章に詳細に記載されています。

 祖国へ戻ることが許された人々が最初に手掛けた仕事は何であったでしょうか。「神の宮を」「もとの所に」建てるために、ささげものをささげたと、エズラ2:68に書いてあります。まさに人々はまず、神第一の姿勢のあらわれとして「神の祭壇」を「もとの所」に築きました。そして、工事は進み、「主の神殿の礎」が据えられ、共に主を礼拝し、讃美する時を持ったのです(エズラ3:7以下)。

 しかし、神殿再建の仕事は順調には進まなかったのです。周囲の人々が反対し、難癖をつけ始めます。これらの妨害等の事由によってイスラエルの民は、神殿再建の工事を中止しました。そして、その期間がおよそ15年の長きにわたったのです。そこに登場するのがハガイであり、ゼカリヤであったわけです。

 今、工事中止の理由が外側の原因(妨害・反対)にあると述べましたが、言うまでもなく実は、ハガイによって真の原因は他にあると鋭く指摘されるのです。

 「この宮が廃虚となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか…。」

 神の宮の工事を止めて、民が何をしていたかと言えば、自分の住む家のことで心がいっぱい。自己中心であったのです。ハガイはそれを見て、叫びます。「ハガイーゼ!」(笑い)

 「あなたがたの現状をよく考えよ!」ハガイは、当時の政治的指導者ゼルバベルと宗教的指導者の大祭司ヨシュアに対して、また民に向かって「神の宮の再建」のために立ち上がれ、仕事に取りかかれと激励したのです。

 そのハガイより数か月のあとで登場するのが、ゼカリヤです。ハガイは老人に近いそれ相当の年齢であったと思われますが、ゼカリヤは青年、あるいは壮年期にあった預言者と言われています。

 ハガイは何よりも工事を再開せよと実践的・行動的メッセージを取り次ぎました。ゼカリヤはそれに対して、霊的な面、あるいは預言的な面を強調した人物であると言われています。


 今日は、3章4節の「あなたに礼服を着せよう」というお言葉から、大祭司ヨシュアはなぜ、神によって、このように服を取り替えてもらうような扱いを受けたか、神の取扱いの理由を幾つかの点から考えたいと導かれています。3つの理由があります。

 なぜ、ヨシュアはこのような扱いを受けたのでしょうか。


1.ヨシュアが大祭司の務めにあったから。

 彼は大祭司、宗教的指導者であるから、です。大祭司は、神と人との間に立って、執り成しの務めを果たす重要なものです。

 4章ではゼルバベルが扱われています。ゼルバベルは政治的指導者です。政治的指導者よりも、まず扱われねばならないのは宗教的指導者、霊的導き手です。だからこそ、4章のゼルバベルの前、3章でヨシュアがまず扱われているのです。

 この世の中の原理では心よりも、おもてに出てくる政治的能力とか、実務的能力が優先されるでしょう。結果主義だからです。しかし、神の世界の原理はまず心、霊的部分、あるいは、あり方が先決間題であり、それがきちんと扱われるならば、結果はおのずとついてくるというものです。預言者ゼカリヤはそのことを十分に弁えた人物でした。

 特に霊的あり方を強調したのがゼカリヤです。いつの時代も、祭司職にある者、特に新約のクリスチャンすべてが祭司であるとの理解に立つとき、その者たちが、まず真っ先に扱われ、整えられる必要があるわけです。誰彼ではありません。この私が真っ先に霊的に扱われる必要があるのです。


2.その服がよごれているから。けがれているから。

 なぜヨシュアは汚れた服を着ていたのでしょうか。その原因について、いくつか考えることができます。

@ヨシュア個人に大祭司として相応しくない罪・不義があったのではないか。

 本当かどうか分かりませんが、ある人は、ヨシュアが祭司の中で他の多くの者と同じように異邦の女を娶っていた、雑婚をしていたのではないかと推測しています。

Aヨシュア個人というより、民全体の罪を大祭司として一身に担い代表しているが故に。

 捕囚から帰ってきたばかり。また神殿再建の工事にあたる民、また中断し、再開を促される民、またその民に叱咤激励するハガイやゼカリヤの姿から見て、ヨシュア個人というより、民全体の汚れを一身に背負っているが故の汚れた服と理解した方が妥当と思われますが、それはともかく、要は、どんな考え方に立とうが、ヨシュア自身が汚れ切ってしまっているのは歴然とした事実です。

 この「汚れた」とのもともとの意味は、排泄物、あるいはヘドと関係のあることばなのです。臭い、目をそらしたくなるような、誰も見たくない、汚れた排泄物・汚物・へドで汚れ切っているのです。

 サタンは、今こそヨシュアを陥れる絶好のチャンスとばかり、攻め立てます。「おまえは汚い!」

 しかし、幸いなるかな、彼を弁護してくださるのは、誰であろう、主であられます。「サタンよ、おまえはヨシュアに向かって汚いと言う。おまえこそ、バイキンマンか、ごきぶりマンみたいで、もっと真っ黒けで、きたないぞ、サタンよ!」そして「ヨシュアよ、あなたのそのよごれ、不義を除いた」と仰せになります。ヨシュアが民の罪をおのれの罪とし、主の前で告白し、心から悔い改め、救いときよきを求めたに違いありません。神はあわれみをもって臨んでくださいました。

 神は、汚れ切った服を脱ぐように、新しい、きれいな服を着せてあげようと愛を込めて語って下さったのです。

 なぜ、ヨシュアは取り扱われたのか。

 l)大祭司の務めにあったから。2)その服が汚れていたから。3つ目は、


3.次の新たなる仕事に取り組む必要があったから。

 ヨシュアは、今までも、神から与えられた仕事=大祭司としての任務に懸命に当たってきました。それは激しい仕事でした。着ている服もいっぺんに汚れてしまうほどのものです。あの人の罪の問題に取り組む、この人のために懸命にお祈りをし、ご奉仕をする。またこの人、あの人と打ち続く奉仕。それはそれは真っ黒になるほど、大祭司の服が相手の人の返り血を浴びるように、真っ赤に染まるか、真っ黒に染まるかして汚れきってしまうのです。

 イスラエルの民は、今ようやく神第一の姿勢を取り戻して「神殿再建の仕事」に取り組もうとしています。ヨシュアはこの人たちのために今までも労苦したでありましょう。そして、これからもこの民のために、この人、あの人たちのために大祭司として、なお一層の務めを果たす必要があるのです。15年前に神殿の礎はできました。

 これからは、その上に主の宮を建設していこうとする人々の心・霊的課題、また実際の信仰生活のために大祭司として、なお一層奉仕して行かねばならないヨシュア。神殿の建物自体の工事に進もうとするイスラエルの民。いわば、新しい次の段階に入った民のために、ヨシュアもまた、新しい、きれいな服を必要とするのです。神は新しい段階に入った人々のために労するヨシュアのために「あなたに礼服を着せてあげよう」

 で、ここで、このような解釈が許されるかどうか分かりませんが、この服は一生着続けたのではないと思うのです。神と人との間で人々のために奉仕する者は、汚れるのです。ヨシュアよ、あなたのお仕事は泥だらけになるもの。もし、いつまでもきれいなままでいるようならば、あなたの務めは果たしていないということになるのです。

 でも大丈夫。神は再び、その都度、新しい、きよい、美しい礼服を取り替え、与えてくださることでしょう。


おわりに

 さあ、みなさん。メッセージがはっきりしてきましたね。新約のクリスチャンである私たちにとって、この一週、また一生の歩みの中で、心にとめ、かつ実践していく必要のあること、理解出来てきましたね。

 二つのことを、心に留めましょう。

1)もし自分自身に、隠れた罪があるなら、まず主の前に出て告白し、罪を悔い改めよ。

 隠れた罪・不義があるならば、それが心も身も汚しているのです。礼服を汚し、排泄物まみれとしているのです。主の前に出て、卒直にその罪を告白し、悔い改め、救って頂き、また、きよめて頂こうではありませんか。サタンが攻撃してくるのです。それを弁護して下さるのは、神であられるのです。

2)生活の中で、職場や学校や家庭の中で、人々や間題の真っ只中にあって「よごれ役」を果たそう。

 神と人との仲立ち、人と人との間の仲立ちは、よごれ役です。新約の祭司である我らお互い、クリスチャンとはそういう存在なのです。

 真ん中に入って汗を流し、苦労を重ねることを厭わない存在。執り成し手とはそういうものです。きたない泥がはね返ってくる。泥を浴びせられるような時もある。しかし、クリスチャンはそのような中で、証詞のご奉仕を果たしていくのです。

 汚れることを躊躇してはいけません。なぜなら、いつも神が新しい、きれいな礼服を用意して下さるからです。罪の中にあって、罪にけがれずの証詞の奉仕。「異邦人の中にあって、りっぱに振る舞え」とありますが、その言葉は、神の美しさと栄光を示せ、あるいは恵みに満ちた姿、魅力ある姿を示せとの意味なのです。


 一言でいえば「男の方、紳士ジェントルマンになろう。女の方、美人になろう」です。これ実は、先日の浜名湖聖会のメッセージです。ジェントルマンとは、きちんとしているというより、元々は恵みに満ちている、魅力溢れる人という意味です。美しいという言葉も同じです。恵みに満ちて、輝いている、チャーミングとの意味です。

 神と人との間、また人と人との真っ只中にあって労するお互い、美しく、栄光に満ちた礼服を着る。まさにそれは美しく、栄光に輝いています。泥などがはね返ってくるでしょうが、その真ん中に立つ。神は礼服が汚れると、美しい服に替えてくださいます。真ん中に立つ姿に徹するのです。この姿が魅力にあふれ、美しいのです。輝くのです。祭司とはそのような存在なのです。

 そして地上のそのような奉仕を終えて天国に凱旋する時、そうです、「しろたえ(白妙)なる衣」をつける恵み・約束が待っています。

 その約束を望みながら、この地上の営み、少しでも神の絶大なるご期待に答え、主のために輝こうではありませんか!

 「あなたに礼服を着せよう」、これが今日のメッセージです。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.8.27