礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年9月3日

ガラテヤ書連講(18)

「互いの重荷を負い合おう」

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書6章1〜10節

中心聖句

6:1兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

(1節)


始めに:

 ガラテヤ書の連講もいよいよ最後の章に入りました。一章一章に恵みのダイヤモンドがちりばめられているようで、終わってしまうのが惜しいような気がしますが、あまり長い期間をかけてもあきてしまいますので、程々のところで終わらせなければなりません。

 先週は「御霊による歩み」の結果としての「御霊の実」について、それはキリストに似たものとしての品性であること、また特にその中心であるについて学びました(5:22,23)。その前には「愛に現れるべき信仰」(5:6)を学んだことを覚えておられましょう。

 今日は、これを受け継いで、その愛を兄弟の重荷を負い合うという形で表すという、より具体的な問題が6:1−5に扱われていますので、この問題に焦点を当てて学びたいと思います。

 


T.課題
6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
1.あやまち
 この場合のあやまちとは、大きな罪を犯してそれが発覚したという深刻な問題というよりも、もっと初期の、しかも気づかない程の兆候、傾向性が見えて来たときのケースを語っています。
 「過ちに陥る」とは文字通りには「前もって取る」とか「予測する」と言った意味です。ビーコン注解書も「この言葉は、他の人の人生における罪を発見したという意味ではない。むしろ、もしある人がその内にある罪に気づかない中に捉えられたら、という意味である。」とこの解釈を取っています。
 


2.愛の実践テスト1−心の反応
 愛の実践の一番のテストは、教会の中の兄弟の誰かが過ちに陥った時どうするかです。さて、そんな時皆さんの心の反応はどうでしょうか。次の反応のうち、貴方にあてはまると思うものには〇を、そうでないと思うものにはXをしてください。
 

1)やっぱりおかしいと思っていた。その通りだったよ。

2)競争相手、又は邪魔な人が居なくなって清々した。

3)神の罰が下った。神は正義である。

4)何であの人が?主よ、助けて下さい!

 


3.愛の実践テスト2−とるべき行動

 それでは、皆さんのとるべき行動は次の内どれでしょうか。複数回答して下さって結構です。

1)口も利かない。交わりから排除。

2)ただ祈る。

3)先生または信頼する友と相談する。

4)祈ってくれという名目であちこち電話する。

5)主の導きを仰ぎながら個人的に忠告する機会を持つ。

これについてのパウロの勧告は明快です。本日の聖書の箇所に示された以下の項目の中に答えがあります。


U.取り組むのは誰?

1.御霊の人

 「御霊の人」がこの問題に取り組むべきです。御霊の人とは、霊的な人々のことです。つまり、御霊を受け入れた、御霊に導かれている者のことです。


2.あなたがた

 パウロは「御霊の人であるあなたがた」、つまり普通のクリスチャンがこれに取り組みなさいと勧告しています。牧師とか指導者に限定された努めではなく、クリスチャン全ての努めなのです。


V.何をすることが期待されているか?

1.魂の回復

 一対一の直接的な勧告によって過ちに陥った、あるいは陥りそうな兄弟を回復することです。

 ここで「正す」といわれていますが、これは「修繕する」という意味です。まちがった道から正しいラインに戻すことです。

 人を矯正することほど難しい仕事はありません。それは、一つ間違えばその人を絶望の淵に追いやることにもなるし、成功すれば、良き人間になるための悔い改めに導く事にもなるからです。兄弟への勧告の目的は、その兄弟が真に悔い改め、血潮を仰いで、恵に回復することです。そして、その道は主イエスによって大きく開かれているのです。

 第一ヨハネ2:1、2には、その為の備えがしるされています、

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」

 私達には罪を犯す可能性は常にあることを心に留めておかなければいけません。一度でも陥ったらダメという裁きの態度をとるべきではありません。そうではなくて、神の恵みはいつも私達を罪から元に戻そうとして下さいます。

 


2.その方法
 マタイの福音書18:15−17には以下のように記されています。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」
 ここには、忠告をする際の手続きが明白に記されていますが、実際にはこれほど実行の難しい命令はありません。たいていの人は怒って、ますます関係が悪くなってしまうかもしれません。
 このなかで「兄弟を得た」とは回復したというパウロと同じ意味です。
 また、「異邦人か取税人のように扱う」とは、一見冷酷なように見えますが、本当はいつかは回復することを期待したうえでの厳しい処置なのです。
 この主イエスの戒めを、「私達日本の文化ではない。」と一蹴する人もいますが、それは、文化を主イエスの上に置くことになってしまいます。もちろん文化は大切にすべきもので、その中に多くの恵みも含まれています。しかしキリスト教会の中では、どんなに難しくても、主の恵を仰いで、これを実践する習わしと空気を作りたいものです。
 人に忠告するのは勇気がいることです。決裂してしまうかもしれません。また、返す刀で、「そういうあなたは…」と言われてしまうかもしれません。しかし、永遠の命を持つ友としてその人を愛するならば、これらのことを恐れずに大胆に忠告するのも愛なのではないでしょうか。
 


W.どんな心で? 
 
1.柔和な心で:
 相手をやっつける検察官のような厳しさではなくて、柔和な心(しんの強さと表面の穏やかさの調和した心)だけによってなすべきとパウロは言います。柔和な心がこの時ほど必要とされるときは他にはありません。
 


2.自分も弱いものとの警戒心をもって:
 3節には以下のように書かれています。
「6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」
 他人の欠点は容易に見えますが、自分の弱さ、特に誘惑に対する弱さはなかなか気づかないものです。

 罪を犯した兄弟の回復を妨げるものは、私は正しいという傲慢です。人間は元々nothingなのです。それなのに、自分をsomethingと思う所に欺瞞が生まれるのです。

 自分をsomethingと思わず、nothingと思うべきです。自分自身も誘惑に陥らないよう、自分の弱さを認めながら、同じレベルに立ったものとして忠告する必要があります。
 その謙遜さが、他人を助けて上げるという尊大な態度から私達を守り、私も神の恵無しにはあなたと全く変わらない人間ですよ、という横並びの態度で近づく事を可能にします。
 右の絵のように、”You!”といって人を指差したときの、残りの3本の指は自分を指しています。他人に”You!”と注意する前に、”What about you?”と、一歩下がって自分のことをかえりみてみましょう。これによって、私達が検察官のように他人を責める態度から守ってくれます。

 

 

3.互いの重荷を担う愛をもって:

 2節には以下のように書かれています。

「6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

 互いに忠告することは、楽しいことでも易しいことでもありません。また成功するとも限りません。しかし、やる価値はあり、やる必要があるのです。

 私達は互いの重荷を負い合う為に兄弟姉妹となったからです。この場合の重荷とは、第一義的には道徳的な弱さや過ちなどで、罪を犯した人の持っている悲しみや恥、申し訳なさといったものです。

 ピリピ人への手紙2章4節には、

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

と記されています。他の人の弱いところ、恥を担い合うのです。互いの重荷を負い合うことで「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法を成就するのです。


4.不必要に干渉しないという節度をもって:

4節には以下のように記されています。

「6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

この「調べる」という言葉は、お金や金属などの純粋性を火でもって確かめる行為のことです。自分の中に正しい動機だけが残っているかどうかを確かめましょう。

 人は自分を吟味して真実であると確かめられたなら、正当に祝福され得ると思います。

 この思想は、5節に続きます。

「6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」

 これはパウロ得意の逆説法で、片方では重荷を負い合いなさいと言いながら、重荷は自己責任ですよと語っているのです。

 

 でも、原語のニュアンスを見ると、この問題は解決されます。5節の重荷(phortion)とは持ち歩く事に強調があり、2節の重荷(baree)はその重さに強調があります。

 つまり、罪や恥と言った重い荷物については、教会の共同責任として、当事者を回復し教会の清さを保つ共同責任があります。

 しかし、生活上の課題について、互いに甘えることなく個人個人が自己責任をもって生きるという独立的態度も必要なのです。

 この2つはしっかりと区別すべきです。例えば、経済的な問題は各人で責任を持つべきです。助け合うと言っても金の貸し借りは人間関係を壊してしまう可能性があり、避けるべきです。

 


終わりに

 

1.私達は互いの荷を担うために教会の交わりに加えられています。

 私達はどれだけの荷を担っているでしょうか。

 もし「自分の魂が神の前に正しければそれで良い」、という考えで留まってしまったら、それは霊的自己中心でしょう。その様な魂が神の前に正しいかどうかも疑問です。

 私達は神を愛すると同じように隣り人をを愛するように命じられているのです。その最大のテストが、過ちを犯した兄弟への態度です。

2.互いの為に祈る

 今週早速、警察官のように、誰かの過ちを見張っていて忠告するように努力する必要なないでしょう。

 でも互いの為に祈る姿勢が不十分であったならば、今週から始めましょう。名簿はその為にあるのです。まずは互いのために祈れる習慣を身につけましょう。

 そしてそれを繰りながら、互いのために、その祝福を真実に祈りましょう。

 もし、祈りの内に勧告すべき点が示されたら、さらに祈って、思い切って勧告しましょう。その後で更に祈りましょう。

 パウロの勧告を実践する為には、先ず互いの為に重荷をもって祈ることから始めたいものです。

 

3.第三者を介さない

 繰り返しますが、第三者に話したり、第三者を通して言って貰おうというのは、(例外はあり得ましょうが)私の聖書には書かれていない方法です。

 むしろ、当事者の心を傷つけ、反対の結果を生むことが多いというのが、私の観察です。こういう風土はキリスト教会から断ち切らなければなりません。

 もっとフランクに、もっとストレートに互いに勧告し合う本当の兄弟愛の実践を目指そうではありませんか。

 

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro & Edited by T. Maeda on 2000.9.6