礼拝メッセージの要約暫定版

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年8月13日

ガラテヤ書連講(19)

蒔くものを刈り取る」法則

竿代 照夫 牧師

ガラテヤ書6章1〜10節

中心聖句

7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

(7節)


始めに:

ガラテヤ書の連講も今日と次回で終了の予定です。ガラテヤ書のポイントは、人間の救いが良い行いや律法の遵守などの行いによって達成されるものではなく、主イエスの十字架を信じる信仰によってのみ達成されるもという点に尽きます。ただここでパウロは正しい行いを全く否定しているわけではなく、信仰の結果として自然に愛の行いというものが付随して来るという点も強調しております。

前回はこの「愛の行為」について、兄弟の重荷を負い合うという具体的な課題を 6:1−5の箇所から学びました。

特に1節

兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

という勧めから、誰が、どんな 心で、何をすることが兄弟愛の実践の方法であろうかと学びました。例えば兄弟が過ちを犯した場合、その過ちを単に見過ごすのではなく、愛をもってその行動を正すべきであるなどについてお話しいたしました。

今日は、兄弟の重荷を負い合うという姿勢が、教会の指導者との間にどう適用されるかという問題が扱われます。そこで出て来る、言わば公理のようなものが「人は蒔くものを刈り取る」という重い原則です。


氈@「種を蒔く」とはどういうことか?

7-9節で出て参ります「種を蒔く」とは。この文脈では「他の人に善行をする」という意味で使われています。この部分をサンドイッチするように、その対象が6節では教師、10節では全ての人特に信仰の家族と示され、「蒔く物を刈る」という法則が繰り返されている、これが6-10節の構造です。

教師に対して

6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。

1)この場合の教える人とは、使徒14:23を見ますと、パウロが第一次伝道旅行の帰途、彼が開拓したガラテヤの諸教会を再訪問した時に立てた長老達を指していると考えられます。

2)分け合う、ということの意味について、ヴィンセントという注解者は、師も弟子も共に良きことをする、特に救いを広げる事において共通の関心を持ち、共に戦うべき、と解釈します。「分け合う(koinooneiutoo)」とは、「コイノニヤ」の元になった言葉であり、「交わりを保つ、参加する」との意味ですから、この解釈も成り立ちます。

第二ヨハネ11では「行ないをともにする」という意味で、ヘブル2:14では(血と肉とを持つという)外的条件を共有す るという意味で、また第一ペテロ4:13ではキリストの苦しみを共体験するという意味で用いられているからです。

3)しかし、同じ動詞が「物のやりとり」としてピリピ4:15で用いられており、 さらにローマ15:27には

異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

と物質的なサポートという意味で使われています。

多くの他の注解者はこの解釈を取ります。つまり、教えられるものが教えるものに相当の敬意を表わし、その生活を支えるという意味に取っています。第一コリント9:11では、

もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。

と、その思想を支持しています。

さらに第一テモテ5:17、18も

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。

と尊敬をもって指導者を遇することを教えています。

4)日本の宗教界には不思議な伝統があって、宗教指導者はいわば出家した人間で仙人のように霞を食っていれば良いという考えが支配して来ました。指導者の側でも金銭の話題に触れること潔しとせず、また信徒の側でも金銭に解脱したような人を尊いとする風潮があります。私としても指導者の立場として、こういうお話をするのは実は余り進んでと言う気分ではありません。

しかし聖書ははっきりと指導者を敬い、それらしく遇しなさいと記しています。指導者の側ではそれを要求すべきではありませんが、教えられる側が悟って実践することが必要です。私はインマヌエルの全国の牧師生活費のリストを折り折り見ますが、実に心痛む思いです。この面に健全な光が当てられることが教団の活性化に繋がると感じています。


信仰の家族の人達に

10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

同じ主に仕える兄弟姉妹として、その家族まで含めた顧みと配慮を尽くすことは当然です。ここで「信仰の家族」と言っているのは、信仰に属するという意味で、同じ主を仰ぐ者達との意味です。「人々に」と言うのではなく、「家族」と言うところに実に味わいがあり、踏み込んだ互助的な関係を示しているように思います。

私達は皆何らかの形で家族(それが未信者を含んでいても)との繋がりで生活している訳です。ですから兄弟姉妹への関心は、彼等一人一人が属している背後の家族への関心であり、祈りであり、助け合いであるべきなのです。

家族ぐるみの付き合いという言葉がありますが、私達の交わりが教会という場所に限定されないで、家族を巻き込むものと発展したいと思います。その為にも地区別フェロシップや地区別ピクニックがその目的に沿って用いられることを祈ります。


全ての人に

10節の勧めは、全ての人に対してです。教会以外の人全てが私達の愛と関心と助けの対象です。しかしだからといって地球上全ての70億ほどの人間全体を対象にすべきかというとそうではありません。

ここに書いてある「機会のある度に」と記されている所に注目して下さい。hoos kairon echoomenとは直訳すれば「丁度それ自身の時に」という意味です。グッドタイミング で、といった意味でしょうか。

私達の力は限られていますから、全世界60億の全ての人に役に立つような事は出来ないでしょう。でも、私達の手の届く範囲で、主の示されることを、一生懸命させて頂きたいものです。

たとえば三宅島の義援金が募られていますが、それに積極的に応じるという形でもクリスチャンは率先して良き業を努めたいものです。

「善を行ない」ergazoometha to agathon)という動詞は第三ヨハネ5に

あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。

として使われています。agathonは役に立つこととか利益になることが第一義ではなく、道徳的によいことに重点があります。

例えば、あるテレビコマーシャルで見た話ですが、ある人が砂浜に打ち上げられたヒトデを海に投げ返しているシーンが出て来ました。それを見た別の人が「いくらヒトデを海に帰したって、そんなの一部に過ぎないじゃないですか。そんな無駄なことはおよしなさい。」と語りかけました。ヒトデを海に帰している人は「しかし海に帰ったヒトデには意味のあることなんですよ」と答えていました。私たちの行いも、それ一つずつはちっぽけで何の役に立つのだろうと言うことが多いかも知れません。でもその行いによって救われた人にとっては意味のあることなのです。


II. どの様な心で蒔くべきでしょうか?

報いなさる神を恐れつつ

7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

ここに書かれているのは、どんな点の思い違いでしょうか。

教師達を正当に支える事を怠る信者達は、どうせ神様はご覧にならないだろうと、判っていながらたかをくくっている、そこに思い違いがあります。

ここにその会社の方がいらっしゃると何なんですが、先日もある自動車会社が自社に不都合な欠陥を隠していたという報道があり、社長が責任をとらざるを得なくなりました。また、ある製乳会社がどうせ判らないだろうと不衛生な処理をしていたという事件も大きな社会問題になりました。

しかし、このような問題は、人間であれば誰でも陥りやすいことなのです。誰も見ていない所では、いい加減に振る舞ったり、怠けたり、もっと行くと悪いことでも平気という気持ちが人間にはあるのです。

しかし、神は侮られない方です。

神は私達すべての行動を見て、覚えて、そして報われるお方です。今風に言いますと、神様のコンピュータには我々の所行全てがデータベースとなって記録されている、とでも言えるのです。

こういうわけですから、神を恐れましょう。 神は侮られない方です。やがての日、必ず私達の行動は皆吟味され、評価され、報われる時が来るのです。

ローマ2:6ー11には、

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、

10 栄光と誉 れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

11 神にはえこひいきなどはないからです。

と神の裁きの公正さを説いています。


蒔くものは刈り取るという厳粛な法則を覚えつつ

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

ここには、蒔く種は正確にその収穫物となって帰ってくるという法則が含まれています。つまり、小麦を蒔けば小麦を刈り入れカラス麦を蒔けばカラス麦を刈り取ることになるわけで、トマトを蒔いてナスを刈り取ることはないわけです。

これと同じように、情けは人の為ならずと言われるがごとく、親切の種を蒔けば人々からの親切となって帰って来ます悪意とうわさ話の種を蒔けば自分に対する悪意とうわさ話という結果として帰って来ます。私達のどんな小さな行動、言葉でも、実に正直に、まるでブーメランのようにある種の結果となって帰って来るものです。

勿論、今日種を蒔けば、明日結果を見るということは無いでしょう。9節を見ると、「時期が来て刈り取る」と記されています。神の許しなさる時期に結果が帰って来る訳で、私達がその時期を決めるのではありません。でもその時期は遅かれ早かれ必ず来るのです。

伝道の営みもそうです。詩篇126篇は

5涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束 をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

と言っています。

先週狭山教会の特伝に参りましたが、そのおりに一人の兄弟が信仰に立たれました。また、別の兄弟も信仰を再び確認するときとなりました。そのことを記した狭山教会の橋本先生の手紙を読みつつ、私は橋本先生がまさに「涙とともに種を蒔く」事をされたのではないかと思いました。橋本先生はこの伝道集会のために実に5000枚のチラシを配られ、祈ってこられました。このような行いに主はいつか必ず報いて下さるのです。

一方で逆に悪しき種を蒔けば、いずれの日かその結果を刈り取る時が来るという厳粛な 法則を忘れてはなりません。このことを痛快にあらわしたたとえ話をアップルビー先生がされておりました。覚えていらっしゃる方も多いかと思いますが、ちょっとここでお話しいたしましょう。

ある少女がお姉さんの可愛がっていた人形が欲しくてたまらず、そっと盗んでかくしてしまいました。お姉さんは妹も含め家族中に尋ねて歩き、家中探し始めました。妹は見付かっては大変と庭の隅に穴を掘って埋めてしまいました。

これで安心、と暫く忘れていたころです。ある雨の日の翌日、お父さんが庭に変な物を見付けました。ある場所で人形の形に芽が一斉に生えてきたのです。そう、その人形の中には豆が入っていたからです。人の蒔く所はその刈り取るところとなる、この例話はその真理を教えています。


正しい動機で蒔こう

8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

利己的な動機での働きは滅びを招きます。「肉の為の種まき」をウェスレアン注解は「過ぎ行く欲望や一時的なまた感覚的な満足感の為の働き」と解釈しています。 表面的に良い業の様であっても、その動機が利己心から出たものであれば、主は祝福なさいません

反対に、御霊の為に、その御働きに沿って、御霊の力を頼りつつ良き業を励むもの、すなわち「御霊のために蒔く」者には、「永遠の命」が結果されます。プルピット注解は、このことばを「自分自身と他の人の中での御霊の実の増進の為に、時間と労と財とを費やすこと」と説明しています。つまり隣り人に対する私達の善行が「徳を建てる」という良き動機をもってなすものであるべきことが示唆されています。

当然のことながら、この言葉は善行による救いを説いているのではなく、主の業に励むことによって自らを救いの中に保ち、他の人々の救いをも生み出すとの意味と考えられます。自分の肉を喜ばせる行動を取れば、悲しみと滅びという結果を刈り取ります。神を喜ばせようという動機で行動すれば、永遠の命という結果を刈り取ります

ここで覚えたいことは、キリストの福音における善行とは、救いの条件ではなく、救いの現れであるということです。そこが世の中の因果応報と違う所です。良いことを一生懸命頑張ってするのではなく、キリストに対する単純な信仰によって自己中心の心を作り替えて頂き、その心で善行に励むのです。主を仰ぎましょう。御霊の為にという言葉は、この真理を物語っているというべきでしょう。


希望をもって蒔こう

9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

飽くenkakoomen)とは、落胆するという意味です。種は直ぐには実を結びませんから、落胆することもあるでしょう。失望することもあるでしょう。こんなにやっても、結果が出ない、誰も認めてくれない、有難うさえ言われない、こういう現 実に直面すると、私達は失望します。くたびれてしまいます。でも、神を信じ、やがての時にすべてが明らかにされることを信じて善の種を蒔き続けましょう。

杉原千畝さんの事が先日テレビで取り上げられていました。この方は第二次世界大戦の時、リトアニアの日本大使として、迫害に会うユダヤ人が日本経由で第3国に亡命する事ができるようにと、日本政府の訓令を無視して強制帰国直前までビザを発行し続けた方です。杉原さんは帰国後外務省を辞めなければならなくなったそうです。

ところが、それから60年近く立った今でも、多くのユダヤ人が杉浦さんを命の恩人として感謝しています。現在では日本のシンドラーなどと言って日本の美談の一つにもなっています。

なぜ杉原さんは自分の職を危うくしてまで、このようなことをしたのでしょう。テレビ番組には残念ながらその一番大切なポイントが紹介されておりませんでした。杉原さんは敬虔なクリスチャンであり、神の下に助けなければならない人を助けたというのが本来の内容なのです。

私たちの一つ一つの行為も、このようにすぐに報いられないものかも知れません。しかし、神は信仰に基づいた正しい行いを必ずご覧になっておられます。短期のことに失望してはなりません。


終わりに

この一週間も、良き種を蒔き続ける時でありますように。指導者に対しても、信仰の家族の人々に対しても、また全ての人に対しても。主は必ず見ておられ、 報いなさる方であることを信じましょう。


Edited by K. Ohta on 2000.9.12