礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年9月17日

愛老聖日に因み

「夕暮れ時に光が」

竿代 照夫 牧師

ゼカリヤ書14章1〜11節

中心聖句

14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

(7節)


はじめに

 世の中で言われております「敬老の日」にちなみまして、今年も「愛老聖日」を迎えました。

 私達にとって「愛老聖日」とは、信仰をもって生涯を貫いた高齢の方々に全教会が敬意を表し、その生涯から学び、また今後の生涯の祝福を祈る、という意義があるのではないかと考えております。

 しばしば、老年期とは人生における「黄昏(たそがれ)」、または「夕暮れ」と言う言葉が使われることがあります。しかし、「夕暮れ時に光がある」というのが神の恵みであります。今日はゼカリヤ書の14章7節に焦点を合わせ、聖言を味合わせて頂きたいと思います。


1.この言葉の背景(終末の栄光)

 ゼカリヤ書については先月、井川先生が詳しく語って下さいました(8月27日)ので、背景については、省略致しまして、1節から11節まで、この箇所に限ってお話ししたいと思います。

1)エルサレムの危機

14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。

14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

 1節を見ますと「主の日」とあります。この1〜11節はこの句から始まる一連の予言と見ることが出来ますが、主の日とは、未だ実現していない「終末の日」を指すと考えられます。

 2節では、イスラエルが敵に包囲され、絶体絶命の危機に陥ることが予言されています。

 今日のエルサレム帰属を巡るイスラエルとパレスチナの抜き差しならない対立を見ますと、この予言が昔の事ではなく、現在と将来に関わる厳しい現実を物語る予言であることが分かります。

2)主の干渉と奇跡的勝利

14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。

14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

 その絶対絶命の危機にあって、主の干渉と奇跡的勝利が3〜5節に記されています。主が出て来られる、決戦の日にそれらの国々と戦われる(3節)、そして、主の足が、オリーブ山の上に立つ(5節)のです。

 ところで、使徒1:11〜12を見ますと、主イエス様は、エルサレムの小高い丘、オリーブ山から天に昇られ、また、同じ有り様で、おいでになる、ということがわかります。これは偶然の符合ではありません。キリストの再臨の予言と見ることが出来ます。

3)勝利の日の特徴的な出来事

14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。

14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 6〜8節は「その日」の特別なことを、幾つかの特徴を挙げて示しています。

 第1の特徴は、(自然的な)光も、寒さも、霜もない、すなわち、寒暖の差がなく、明暗もなく平坦な一日であるということです。

 第2の特徴は、また、昼とも夜ともつかない、長い日であるということです。

 第3の特徴は、「夕暮れ時に光がある」です。時計の時間でいうならば、もう日が暮れてもいい時間であるのに、明るくなってくる、ということです。いったいどういうことでしょうか。つまり、これは自然的な光というものから離れた、神ご自身の光ということがわかるのです。

 ここで、イザヤ書60章19〜20節を開いてみましょう。

イザヤ60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。

イザヤ60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからだ。

 いわゆる「この日」というのが「終末の日」であって、黙示録21章にこのことがほとんどそのまま引用されております。主が地上においで下さり、新しいエルサレムを完成さなる時に、このような事が起きるのです。神ご自身が光となるのです。

4)エルサレムの高揚

14:9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。


2.この聖言(夕暮れ時に光がある)から示唆されるもの

1)神は逆転をなさる

 夕暮れに光が翳るのは自然の成り行きです。しかし、主の御業は逆転的です。夕暮れ時に光がある、のです。

 人が弱い時、(主の恵によって)強い、見えると思っている人は(霊的に)盲目である、敗北の象徴である十字架が勝利の、救いの道となる、のです。

 私は神様の御業ということを考えるとき、いつも、柔道の「巴投げ」を思い出します。昨日は柔道で金メダルを2つ取って、皆さん、きっと喜んでいらっしゃることでしょう。昨日は残念ならが「巴投げ」はなかったようですが・・。

 「巴投げ」のカッコ良いところは、自分が倒れるように見せながら、相手を飛ばしてしまうことですね。

 神様の御業は、外から見て敗北とか、弱いとか、苦しいとかいうことをそのまま受けておいて、それを栄光のために、勝利のために用いなさるのです

2)恵は増加する

 神の祝福と勝利が時を追っていや増しになることがこの象徴的なことばで表されています。私達の生涯にもこの真理は当てはめられるのではないでしょうか。

 箴言4:18には、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とありますし、また、ヤコブ4:6には、「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。」と記されています。ヨハネ1:16も「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と主の恵が末広がりであることを示しています。

 老年期に入りますと、肉体の衰えと共に人生の夕暮れ時を感じない訳にはいかないでしょう。けれども、第2コリント4:16に「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とありますように、魂の更新を絶えず頂いて進む祝福の道が約束されているのです。

3)光は主ご自身、主の品性

 先ほど申し上げましたように、私たちの光となるのは太陽の光でも月の光でもなく、主ご自身なのです。また、その意味するものは、長い間神と共に歩んだ者のみが持つ品性の光です。

 その例として、1人の人物を挙げて終わりたいと思います。それは、エノクです。

へブル11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 死を見ることなく天に移されたエノクも、最初の65年は同時代の人々が生きていたような、罪と快楽の生活を送っていました。でも、65歳でメトシェラを生んで、一念発起しました。多分、自分に子供ができた、その子供は自分のようなものを見ながら成長していくという大きな責任感というか、恐れといったものが、彼の人生を180度変えたのでしょう。

 それ以来、神に頼り、神と物語り、神に従う生活を始めました。エノクは300年神と共に歩んだ後、天に移されました。

 天に移される前に、彼が神に喜ばれるような品性の実を結んでいたことは衆目の認める所でした。ですから、彼が何時の日か行方不明になった時、人々は捜索隊など出さずに、彼は神の許に行ったと結論づけました。それほど彼の信仰生活は輝いていたのです。神の臨在を彼自身が捉え、人々もそれを見たのです。


終りに

 お互い、遅かれ早かれ人生の夕暮れと日没を迎えます。若くしてクリスチャンになった人々でも、体が利かなくなり、気力も衰えて来ますときには、将来に対して弱気になりがちです。現在不如意な環境に苛立つこともありえます。ある意味でこれは已むを得ない事ですらあります。全てのクリスチャンが最後まで「目も霞まず、気力も衰えなかったモーセ」のようになれるとは限りません。

 でも、夕暮れ時に光を与え給うのは主ご自身です。誰の光でしょうか。主ご自身こそ夕暮れ時の光であり給うのです。主を恐れつつ、主と共に歩もうではありませんか。

 ご一緒にお祈り致しましょう。


Editied and written by N. Sakakibara on 2000.9.17