礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2000年10月1日
ガラテヤ書連講(20)
「十字架だけを誇る」(暫定版)
竿代 照夫 牧師
ガラテヤ書 6章11〜18節
中心聖句
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。 (14節) |
はじめに
1.前回は「人は蒔くものを刈り取る」という大切な原則を愛の実践という角度から学びました。
2.今日は、ガラテヤ書の締めくくりの部分に入りました。特に「十字架を誇る」というパウロの言葉に焦点を合わせたいと思います。
3.今日学ぶ11〜15節は、今までこの手紙で述べてきたことの結論的要約です。
A.大きな文字を自筆で
この部分の重要性として、11節で、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」とあります。
1.「大きな字」とは、ある事柄を強調するための習慣でもあります。
この締めくくりの文節では、ユダヤ主義者が強調している"割礼"から"十字架"へと向ける努力があり、それが大きな文字となって現れています。
2.しかも、この部分だけは口述筆記者の手に依らず、パウロ自身によって書かれています。
パウロは目が悪かったので、自然に彼の書く文字も大きかったとも考えられますが、それ以上に、どうしても大切な真理を強調したかったから大きな文字で書いたと考える方が自然でしょう。
パウロの自筆による挨拶は、第二テサロニケ人への手紙3章17節、コリント人への手紙16章21節,コロサイ人への手紙4章18節にも見られます。
コリント人への手紙16章21節を読みますと、「パウロが、自分の手であいさつを書きます。」とあります。
そして22〜24の短い祝祷をもってこの手紙が終わります。他の例も同様です。
このガラテヤ書 だけは例外で、自筆によって、論議が進められます。よほど自分で書かなければ意思 が通じないという切迫感があったようです。
ですから、これからの文章は付けたりで はなく、今まで述べてきた事を再確認し、再強調するための大切なものであることを理解して、以下を読みますと、12節以下は「二つ対照的なの誇り」と見ることが出来ます。
B.ユダヤ主義者の誇り
12〜13節に、「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」とあります。
1.ここで語られているのは、今までこの手紙で繰り返し非難されてきたユダヤ主義者、律法主義者、ガラテヤ人クリスチャンを単純な信仰から反らして、律法のくびきに引き入れようとしている偽教師のことです。その教えの象徴が「割礼を強制する」行為でした(つまり、非ユダヤ人がクリスチャンとなるためには、主イエスを信じるだけでは不十分で、儀式的にユダヤ人となるために割礼をうけることです)。
2.その行為は、積極的に言えば、「格好を付ける」「見栄えをよくする」ことを動機としていました。この人々はユダヤ人クリスチャンで、イエスを主と認め、十字架を信じてはいたのですが、段々親族や友達や社会一般からよそ者扱いをされるようになり、最初の熱心を失って、何とか自分の信仰を周りの社会の生き方に合わせようと努力を始めたのです。
その結果として、異邦人クリスチャンにも割礼を施し、彼らをユダヤ化することによってユダヤ人社会からの歓心を買い、いわば点数を稼ぎをしようとし たのです。
しかしこれは無駄な努力であって、歴史の中で成功例を見たことがありません。
3.割礼を強制する行為のうらには、消極的に言えば、迫害を逃れたいという動機がありました。
「キリストの十字架のために」とは、"十字架をのべ伝えることの故に"、との意味です。
ユダヤ主義者は、クリスチャンがユダヤ人社会に受け入れられるようにと願っていましたから、ユダヤ人に躓きとなったキリストの十字架を強調しませんでした。イエスは主、とまでは認めたものの、その方が十字架についたことは、余り言いたくなかったのです。これは今でもあてはまります。
教会では何で「罪々」と二言目には言うのか、もう少し柔らかい表現で説教が出来ないものか、ということです。
でも、毒の 入った瓶に毒と書くのは当たり前ではないでしょうか。柔らかい表現を書いたら、そ れこそ人を誤らせるものです。罪が現実であるからこそ、その解決である十字架をぼかしてはなりません。
心理学的な言葉でカモフラージュしてはなりません。心理学に はその役割がある事は私も認めますが、福音に替わるものではありません。十字架は 私達をそれにつくか、逆らうかの二つに分けるほどの大きな挑戦をもって迫って来ます。
4.「割礼を受けた人たちは」とは、は「でさえも」というニュアンスを持っています。かれらは律法を「守っていません」とは、"実際にも守っていないし、守ることもできない"という意味です(3章10節、5章3節)。
割礼が実際上何の道徳的な効果も 生んでいないとすれば、その割礼を押し進めるのは違った動機によるに違いありません。
5.その動機とは、誇りです。その誇りとは律法を守っているという実質的なものではなく、儀式を守っているという外側の問題を誇っているに過ぎません。
身近な例で 言えば、内容はともかく、今年何人洗礼を受けたと人数を誇る伝道者と同じという事になります。
6.私達も、気をつけませんと、誇らないでも良いものを誇って、神様から苦笑されてしまうことがありえます。例えば、自分の外見を誇るとか、自分の功績を誇るとか、伝統や過去の栄光を誇るとか、考えてみれば実につまらないものに誇りを感じて、信仰の本質から逸れてしまうことがありえます。
C.パウロの誇り
14,15節に「 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。
1.彼の誇りの根拠が律法主義者のそれと対比されます。
それは、彼がキリストと共 についた十字架です(2章20節、5章24節)。
パウロは、十字架以外は何も誇らない と言いました。もちろん、人間的に言えばパウロほど誇ることの出来る人はいませ んでした。その毛並みの良さ、教育、真面目さ、どの点からも彼は誇ることの出来た男でした。
そのパウロが、キリストの十字架以外に私は何も誇らない、と言ったのです。では、その理由は何だったのでしょうか。
1)まず、自分の弱さを本当に知っていたからです。肉体的にも、霊的にも、道徳的にも、キリストを離れては何も出来ないと深く自覚していたのです。
2)つぎに、イエス様のすばらしさを体験したからです。そんな弱い、罪深いものの為に十字架にかかり、罪を解決して下さった主イエスの恵を深く深く自覚していたのです。
3)さらに、そのイエス様と一つになった深い結合が、世の人々から賞賛を受けたいという欲求からパウロを解き放っていました。イエス様と一つになるということは、彼と共に十字架につくことです。彼と共に十字架についたパウロは、自分が世に対して十字架についた、つまり、世と世の欲に縛られる生き方から釈放されたことを経験しました。
4)そして、一つ覚えたいのは、十字架以外のものを誇らないと言うことはパウロの自戒であって、全てのクリスチャンへの命令ではない、ということです。
少なくともこの節で は、彼は他のクリスチャンはどうあれ、自分について言えばこの様な自制の気持ちを 持っていますよ、と告白しているのです(16節では、全てのクリスチャンに期待していることが伺われますが・・・)。
2.もう一つ覚えたいのは、彼が誇っているものは、ユダヤ主義者達が避けたいと思っている、辱めと弱さと敗北の象徴である十字架(コリント人への手紙第一1章25節)であったということです。
十字架を誇るという内容を考えますと、それは、十字架との結びつきが彼になして下さった内的経験とも言えるでしょう。キリストと共に十字架に付くことによって、彼は罪からの釈放を(ローマ人への手紙6章、ガラテヤ人への手紙5章26節)を、さらに世の誘惑からの釈放を得ました。
3.この場合の世とは、罪に満ちた邪悪な世というよりも、むしろ、世の与える賞賛、名誉といったものです。特にパウロにとっては、ユダヤ人社会の伝統、割礼、律法によるパリサイ的な正しさを指していました。これらに認められるとき望みがあり、これらから顰蹙をかうとき心も萎むといったものが世なのです。
私達には違った形の世があるでしょう。
会社という世でしょうか。学校という世でしょうか。役所と いう世でしょうか。幼稚園の父母会という世でしょうか。
しかし、そこでの毀誉褒貶に 私達は煩わされる必要はないのです。
Written by I. Saoshiro on 2000.10.1