礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2000年10月8日
ガラテヤ書連講(21=終講)
「新しい創造」
竿代 照夫 牧師
ガラテヤ書 6章11〜18節
中心聖句
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。 (15節) |
はじめに
今日で、ガラテヤ書の連講を締めくくらせて頂きます。今年の始めから、信仰の基本について、福音の原点について、非常に大切な学びであったと考えております。
前回は「割礼を強制する」人々がその働きを通して実績や外見を誇ろうとした事に比べて、パウロが十字架だけを誇りとし、世の与える賞賛に死に切った姿を学びました。今日はその続きです。
この文節(11〜18節)の略解
1.大事なのは新創造
15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
ユダヤ主義者が一生懸命に働いている目的は、割礼者(異邦人からユダヤ教へ改宗する人々)を殖やすことでした。パウロは、その無意味さ(もっと言えば有害さ)をこの手紙全体で記しましたので、もう一度その論議を蒸し返さずに、結論だけを再強調します。つまり、そんな外形的なものは何の意味もないということです。
パウロが繰り返していないので、私もくりかえしません。その確信について語っている5章6節を読むだけで、次へ進みましょう。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」
5章6節では私達の側から大切なものを示します。それは信仰です。この6章15節ではそれを神の側から示します。それは新創造です。この二つの事は別々ではなく、私達の信仰によって神がなさる創造のみわざと言えましょう。これについては、締め括りの部分に詳しく述べることにして、次の節へ進みます。
2.平安の為の祈り
16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
さて、この新しい人は神のみ心に従って生きるべきなのです(コロサイ2:6)。基準とはカノン(物差し)のことで、主の与えなさった物差し、ガイドラインを指します。この場合は、14節に記されたパウロの模範、つまり、十字架のみを誇り、世の原理に死にきった生き方を指すと考えられましょう。この様な信仰的な生き方が、次の「神のイスラエル」に引き継がれます。
「神のイスラエル」とは、肉によるユダヤ人と否とを問わないすべてのクリスチャンを指すものと見られましょう。ローマ9章6〜8節を見ますと、「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』のだからです。
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」とあって、アブラハムの血筋ではなく、信仰の継承者がアブラハムの子孫、つまり真のイスラエルと見なされました。
さて、この節での「進む」という動詞は5章25節にある「御霊によって進む」と同じもので、軍隊の行進をイメージした進み方です。その様な歩みをなすものに平安と憐れみとをパウロは祈ります。論争の中での落ち着かない教会生活ではない「平安」を、謙るものへの神の「憐れみ」をパウロは祈ったのです。
3.パウロの要請
17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。
煩わさないように、とは反対者達による非難、攻撃、それに基づくパウロの教会についての憂いを示唆しています。第二コリント11章28節には「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と、その憂いを述べています。さて、パウロは、この手紙で充分彼は福音の何たるかを解き明かしました。これ以上の問題が起きないで欲しい、起きるはずがないではないか、という気持ちが伺われます。
イエスの焼き印を、とはキリストの為に受けた迫害の傷跡です。もともと焼き印(熱い金属を肌に押しつける事での印)は奴隷に対してその持ち主を示すための用いられました。パウロは自分をキリストの奴隷と位置付けていました。それが彼にとっての勲章であり誇りでした。キリストの苦しみに文字通り与った迫害の印を彼は一生涯運び続けていました。ですから、これ以上の、これ以外の煩いは充分という彼の気持ちが表されているのです。
4.最後の祝祷
18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。
兄弟達の位置取りが奇妙です。特にガラテヤ人の特殊メンタリティに配慮して、兄弟と呼んだのではないかと思われます。かれが真実にガラテヤクリスチャンの為に祈ろうとした時、特別に彼等に対する愛を表わそうとしました。それが「兄弟たちよ。」という一見奇妙な呼びかけとなって表われたと言えましょう。
その祈りの内容は、キリストの恵がともなうように、との祈りでした。どんな祝福にまさって、キリストが共にあって祝福して下さる以上の祝福が地にあるでしょうか。
新創造について
終わりに14節の新創造について触れます。
1.神の業
それは神の業です。私達の決心や頑張りで新しい人間に生まれ変わるのではなく、神の力によって造り替えられること、これが新創造です。
エペソ2章10節は、クリスチャンとは、神の創造的な御業の生産物であると記しています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」内面的な一新の業が約束されています。この「古いもの」の中には、罪の性質と行い、良い人間になりたいという努力や願望の挫折、儀式主義の無力さといったキリスト抜きの人間性がみんな含まれています。
それが、「新しく」なった、つまりキリストにある新しい喜び、希望、新しい生活態度が皆含まれているのです。これをなして下さるのは神ご自身のみです。
2.無から有を生じる業
創造は、無から有を生じる業です。最初の天地創造では、何にも無いところから物質が、生命が、そして人間の命が造られました。私達の生まれつきの心には本当の意味での良き物はありません。人間は本質的には自己中心的でわがままです。
でもそんな心に神を愛し、人を愛する心を神は創造して下さるのです。ダビデは祈りました、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇 51:10)ダビデは、その道徳的な失敗を通して自分の内にきよい心が無いことを知らされました。ですから、その心に清い心を創造して下さい、と祈ったのです。
3.回復の業
新創造とは、元々人間が造られた状態への復帰という意味を持っています。その意味では再創造とも言えましょう。エペソ4章24節には、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とありますように、その特色は義と聖でした。堕落によって失われた神の形への復帰がキリストに拠る新創造によって可能となるのです。
4.キリストによって可能
そのみ業は、私達がキリストを信じ受け入れ従うことによって可能となります。第二コリント5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。
キリストにある、ということばが鍵です。キリストに全面的により頼み、キリストを主として受け入れ、キリストに従い続ける生涯、これが新創造をもたらす人間側での(唯一の)条件です。
5.始まりであり継続
始まりであり継続。これはかつてどこかでイエス様を信じて救われた、そのとき新創造の業を経験したというだけで終わるのではありません。第二コリント4章16節には「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と日々に創造のみ業が繰り返されるのです。
またローマ6章4節には「私たちは、・・・キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と活けるキリストとの間断無き交わりによって私達が「命の新しさ」(この節の直訳)に歩む、つまり、新鮮な喜びと新鮮な力の供給によって歩むものとなるのです。
終わりに
新創造のみ業を経験されましたか。また経験しつつありますか。
鍵はキリストにあるという心の営みを身につけることです。
お祈りしたいと思います。
Editied and written by N. Sakakibara on 2000.10.8