礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年10月15日

陶器師の手にある粘土

竿代 照夫 牧師

エレミヤ書18章1−12節

中心聖句

6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

(6節)


始めに:

今日と来週は連講から離れた箇所を取り上げて、その後ヤコブ書に入りたいと導 かれています。

離れたとは言っても、私の心にはガラテヤ書のこだまのように、その最後のテーマ であった新創造という思想が離れません。そこで今回も 神の継続的な人格形成である新創造について考えたいと思います。

その最も美しい譬えが陶器師と粘土の譬えです。序でながら、エレミヤ18章と 19章に陶器師の譬えが出て来ますが、強調点は異なります(これは後で説明しま す)。


A.譬えの背景

聖書の理解はその文章が書かれている背景を理解しないと、自分勝手な独りよがりな解釈になってしまいます。そこで今回取り上げる箇所についても、当時の歴史的な背景をまず纏めてみたいと思います。

エホヤキムの治世(608ー597bc)の初期

エレミヤの活動していた時期は、バビロンが周りの国々を併呑して、小国ユダに迫って来ていた危急存亡の時でした。この当時はまるで今の日本のように、支配者である王が次々と交替しておりました。

バビロンの世界制覇を決定的にしたカルケミシの戦い(606)が終わり、ユダに関しては、第一次捕囚(606)、第二次(597)、第三次そして決定的な滅亡(58 6)とユダが衰退の一途を辿っていた時期でした。

宗教的腐敗:ユダの崩壊の最も大きな原因はしかしそのような外部要因と言うよりも、ユダの民が神から離れ、偶像礼拝に走ったことにあります。その中で活躍していたのが預言者エレミヤでした。


B.譬えの元になった陶器作り

エレミヤの見たもの:陶器づくりはエルサレムの南西のベン・ヒノムの谷で行われていました(19:2『瀬戸のかけらの門』の入口にあるベン・ヒノムの谷)。エレミヤがそこを訪れた時、次のような出来事を見ました。

陶器師粘土からろくろの上で土瓶や鍋のような陶器を作っていた時に、自分の望む形を作ることに失敗しました。陶器師は残念でしたが、しかし顔色も変えずにその失敗作をもう一度粘土の固まりにして、フレッシュなスタートをしました。

当時の陶器づくり:ここで少し脇道にそれて、ここで、当時の陶器づくりの過程を紹介しましょう。

1)粘土作り:陶器師はまずその土の準備を念入りに行っていました。原材料は、地面の表層ではなく、深く掘った土から取られます。天日で乾かされ、水に漬けられ、柔らかくなるまでよくかき回されます。それから帯状に巻き取られますが、この時石などの固まりが除かれます。またこれがタンクに入れられ、足で充分こねられます。それから更に半年、湿った状態で保たれます。

2)ろくろ:器づくりにはろくろが用いられます。ろくろとは大きな石と、薄い石版の二重構造になっており、下の石が足で回され、上の板がその回転と共に回りその上で職人は粘土が陶器にと形づります。

3)乾燥と釜入れ:作られた陶器は乾燥され、釜に入れられ完成します。


C.譬えの直接的な意味

エレミヤはこの第二のプロセスをみたのですが、そこからエレミヤが得た譬えは何だったのでしょうか。先ずここでの比喩を見てみましょう。

1)神は陶器師、つまり私達を目的をもって形成されるお方
2)
ろくろは歴史の状況
3)
粘土はイスラエルの家、広く言えば神の民


1)まず、そこでのメッセージは何であったか見て参りましょう。

神は神の民の上に絶対主権を持ち給うということです。運命を決定する権利を持つ方と言っても良いでしょう。神は宇宙と人間の創造者という意味で陶器師です。

陶器師である神については、イザヤ29:16,45: 9,46:8,ローマ9:20等に見られます。これらのニュアンスはそれぞれの文脈で違いますが、基本的には創造者なる神と創造物である人を指しています。

イザヤ書 29章では作られた者がその立場を弁えない罪について語っています。

16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなし てよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった。』と言 い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ。』と言えようか。

イザヤ書 45章では、被造物が造物主に向かって、粘土は陶器師にその形成につい て注文や抗議が出来ないことを述べています。

 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。9節「粘土は、形造る者に、『何を作るのか。』とか、『あなたの作った物には、手がついていない。』などと言うであろうか。

イザヤ書 64では、弱い器ではあっても、神の傑作品なのではないか、という主張 の基礎として

 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、 あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

ローマ9章は、罪の原因を神に帰する愚かさを語っています。

20ー21 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょ うか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。


2)神はイスラエルを、ある目的をもって形作っておられ、また支配されておられます。そして、粘土であるユダを有用な器にするために継続的に働きなさいます。「神の手」「ろくろ」などはこの場合イスラエルの置かれた歴史状況を示します。

神はある国、民族の歴史を支配しておられる、この真理を私達は現代の国際社会の中にも見る信仰の目を持ちたいものです。一昨日ハドソン・テーラー三世という、中国伝道の先駆者の曾孫に当たる方の講演を聴きました。その主題は、近代の中国歴史の中で、神は神を恐れない指導者達さえも動員して、宣教の計画のお膳立てをしておられるという、スケールの大きな講演でした。

特にトウショウヘイの開放政策が、中国から西洋諸国に渡る多くの留学生を生み、それら留学生によって如何に福音が持ち帰られたか、また、外国人受け入れ政策によって多くのクリスチャンの証人が宣教の場を与えられたかを語っておられました。

私は、これを日本に置き換えて聴いていました。日本も神の手にあるでしょうか。日本に神の主権などあるのだろうかと言いたくなるような昨今の状況です。ある人は暗い悲観的な答えを出すでしょう。

でも、神の主権を信じている信仰者は、現在の不況も、グローバライゼーションの波も、はては、青少年の非行問題も、福音の為のお膳立てと見ることは出来ないでしょうか。こうした前向きの考え方をするのが神の絶対主権を信じる信仰者ではないでしょうか。


3)さてイスラエルの問題に戻ります。イスラエルは神の御手の中にありましたが、 ある理由によって神の計画通りには進みませんでした。

譬えというものには限界があるのでして、この譬えの場合には陶器師は自分の手がうまく働かなかったから陶器が変形した訳なのですが、だからといって、神が失敗をなさったという結論を出してはなりません。

この場合にはユダが神のご計画に沿わないで、偶像に走り、罪を犯してしまった、結果としては失敗作となってしまったことを指しています。しかし、たとい陶器師の意にそぐわない格好に一時はなったとしても、神はそれをご自分の目的にかなったものに作り直すことが出来る御方です。これは創造者というだけではなく、救い主なる陶器師を示します。


4)その為にはユダは悔い改めて、神の働きに沿って作り替えられねばなりません

先ほど申しましたように、譬えには限界があります。粘土は意思も人格も持たない存在ですが、人間は違います。道徳的な生き物で、その為に責任が問われます。

神様は失敗作のような我々を練り直して、神様のご計画に沿ったかたちに作り直して下さいますが、私たちの側に求められる条件は悔い改めという心の態度です。この態度こそ、神の働きに協力することが出来ます(8節)。

人間は完全に受け身ではなく、神のみ業に喜んで協力出来るのです。私達が完全に神に身を委ねると、神は私達を価値のある器にリシェープなさいます。

この様な時には赦しだけでは不十分です。もっと徹底的な審判が下され、国が形をなさないまでに破壊され、その後立て直されねばなりません。それによって新しい形の陶器が出来上がるのです。


5)しかし、このリシェープの機会を拒むこともあり得るのです。不服従のまま固くなってしまったら、壊され、棄てられます。

その回復不可能なまでの審判について19:10と11が語っています

そこであなたは、同行の人々の目の前で、そのびんを砕いて、彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。人々はトフェテに葬る余地がないほどに葬る。』

現実の歴史では、ユダの民は不服従のまま固くなって、神に完膚無きまで滅ぼされました(12節、13ー17節)。そしてこれは正に人類の歴史が繰り返し繰り返し行って来たことです。

単なる「粘土」から国宝級の陶器に仕上げて下さると語っておられるのにそれを拒む「粘土」、こういう「粘土」はいつの時代も滅ぼされるのです。私たちはこの教訓を厳粛に捉えなければなりません。


D.粘土からの教訓

 最後に、この「私の手にある」と言われる粘土、つまり、私という個人、もっと広く言えば、日本という国について、教えられることを四つ申し上げて、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

1.信頼:神はその民に対して絶対主権をもっておられる、私たちは神の手の中にあるという事実を信頼することです。

陶器師が思いのままの作品を作り上げるように、神は歴史というろくろを動かして、その中にある神の民を作り上げなさるお方です。私の人生は神の手にある、私のたましいも神の手にある、私の信仰の完成も神の手にある、また神様はそれができる素晴らしい職人であると信じることはどんなに幸いでしょう。

いつでも私は神に喜ばれるのだろうか、と不安な気持ちでクリスチャン生活を送っている方はありませんか。私なんかが神様の役に立つと言えるのだろうか?

こういう事を思うのは、信仰生活とは呼びません。不信仰生活です。私は完成者なる神の手にあると大胆に信じ、大らかな気持ちをもってクリスチャン生活を送ろうではありませんか。

これは個人のみならず、教会にも、国にも、言えることです。現状はどんなに厳しくても、教会は神の手にある、日本も神の手にある、と信じ、委ねましょう。


2.感謝:エレミヤの時代のろくろとはバビロンの世界制覇という厳しいろくろでした。 私達も不況とか家庭問題とか病気とかいった「ろくろ」の上にあるかもしれません が、それは私達を如何にもして神の傑作品となさろうとする神の摂理の過程であることを忘れてはなりません。

個人も国民も、神のろくろ、置かれた状況も含めて神はその目的にそって私達を形成しておられます。その過程は、粘土である私達には理解し難く、なんでこんな所を通るんだろうという厳しい、砕かれる道である場合が多いのです。

陶器師はそのプロセスについていちいち粘土に語りかけたり、説明したりしません。沈黙は神の絶対主権の一部です。でも私達は分からないままでも、神の主権を受け入れ、神の善を信じ切る態度が必要です。


3.希望:この失敗作になりかけた粘土ではあっても、希望を棄ててはいけないと言 うことです。

かつての生涯がどんなに失敗が多く惨めなものであったとしても、主はフレッシュなスタートを許して下さるお方です。キリストにあるときにすべての者はみな新しくなるのです。「あなた方は神の手にある」という神の言葉で希望を持とうではありませんか。人生やり直しを祈ろうではありませんか。


4.柔らさ:この粘土は、「柔らかくあるべき」と言う私たちの側で用意することを示唆します。そこに石が混じってはいけない、干からびて固くなってもいけないのです。陶器師の手にあって彼の思いのままに作られて行くのは柔らかい粘土だけです。

私達の信仰の成長を妨げるものは、「神の御心よりも私」といって主張する自己中心です。これがしっかりと根を下ろしていますと、神のご自由な働きを妨げてしまいます。

ただ、自己を委ねるとは言っても、骨なしのクラゲ人間になってしまうわけではありません。自由意志は残ります。きわどい局面に立ったとき、主の御心を第一にすることができるかと言うことがポイントになるのです。

ダビデは、人口調査をして奢りの罪を示された時、「神様、私はあなたの御手に陥ります。」と白紙になって、その処分を受け入れました。

私達も、それぞれの立場で柔らかい粘土としての一人一人であり、教会でありたいと思います。その幸いを経験させて頂きましょう。

お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on 2000.10.16