礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年10月22日

切り出された岩

竿代 照夫 牧師

イザヤ書51章1−6節

中心聖句

1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

(1節)


始めに:

 1945年10月21日が、インマヌエル綜合伝道団創立記念日となっており、今年で創立55周年を迎えます。

 今日は創立記念日にちなんで、インマヌエル教会とはどういうものかについて、特に最近来られた方を対象にしてお話したいと思います。
 インマヌエルの群れについて、その生い立ちと主張、その働きについては、最近発行された「インマヌエル教会とは」というパンフレットに簡潔に纏められています。本日はそのパンフレットを皆さんにお配りしますので、後でゆっくりご覧になって下さい。
 最近来られた皆さんの中には何でインマヌエルなどという舌を噛みそうな名前がついているのか不思議に思っておられる方がいらっしゃると思いますが、その理解の助けになればと思います。
 特に、世界のキリスト教会における位置付けについては6ページの中ほどに以下のように記されています。
インマヌエル教会は、宗教改革の原理にしたがうプロテスタントの中で、英国に始ったメソジストに源流を求めることができる教会です。またそれと平行して、アメリカで盛んになったホーリネス運動にもつながりがあり、もちろん福音主義(あるいは聖書信仰とも言いますが)の立場に立っています。日本聖化交友会、日本福音同盟などに教団として加盟していることは、そのような立場を証ししています。
 キリスト教の大きな流れはプロテスタント、カトリック、ギリシャ正教に分けられますが、その中のプロテスタントに属する教会です。また、イギリスに始ったメソジストの流れを組むれっきとしたキリスト教の教会であり、インマヌエル教ではありません。
 創立前後の経緯については7ページの後半から8ページにかけて記されております。
1945年10月21日、岡山県の山村の一軒で、一人の牧師と双生児である二人の女性とが真剣に語り合い熱心に祈っていました。深夜になって一致した決断は、一教団を創設するということでした。二人姉妹の姉である長谷川正子は医師として、妹の元子は伝道師として、蔦田二雄(つただ・つぎお)牧師に協力するため上京することになりました。長谷川姉妹は、原爆の爆心地に近い所で奇跡的に命をとりとめたことで、すでに決意していた献身を具体化する機会を求めていたのです。
 蔦田二雄は、1930年から日本ホーリネス教会(後に日本聖教会)の牧師として活動していましたが、1942年に軍国主義政府によるキリスト教弾圧の対象となり、約2年間の獄中生活を送りました。日本の敗戦により免訴という形で落着しましたが、牧師職は剥奪され、協会は閉鎖解散させられたままで、全くのゼロから出発しなければなりませんでした。
 ここに何故私達が10月21日を創立記念日としているかを知る事ができると思います。
 また、現況について、国内の教会数の推移については11ページ後半に、海外の宣教地については13ページ前半にそれぞれ記されています。
創立の翌年に12教会を数えたインマヌエル教会は、10年後には倍の24となり、さらに20年後には57にまで増えました。創立者は最初から日本全国のネットワークを目指して、日本の全都道府県に必ず一教会を設置することを目標にしていました。それが達成されたのは1974年で、この年の教会総数は73でした。82年には百を越し、2000年現在119教会、4伝道所となっています。
インマヌエル教会は海外にも宣教地があります。現在、台湾、フィリピン、ケニア、ジャマイカ、ボリビアの各国に宣教師を派遣しています。諸事情によって中止になりましたが、インド、パプア・ニューギニア、香港にも以前には働きがありました。その働きは、現地での教会形成、神学校での教育、巡回伝道、看護婦、その他いろいろあります。インドには短期で神学校教育のために講師を送っています。
 多くの教会がある中で、当教会が建てられた使命は、「聖」(聖くあること)と、「宣」(全世界にのべ伝える宣教の実践)にあると思われます。
 こうした背景を考慮しながら、本日はイザヤ書の51章1節から6節を学びたいと思います。ここはバビロン捕囚からの釈放とイスラエルの回復が予言されている所です。1節、4節(そして7節)に「聞け」という命令から始まる小さな3つの文節で成り立っています。1ー3節は回顧の必要性、4ー6節は将来の展望、7ー8は救いの永遠性が記されていますが、今日は6節までの学びにしたいと思います。
 


A.回顧(1〜3節)
1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
 イスラエル全体が腐敗して大きな危機に直面した時に、切り株から芽が出るように「レムナント」と呼ばれる真実な少数のグループが現れました。このレムナントという言葉は旧約聖書を解く鍵となる言葉です。彼らは絶望感と、少数派のコンプレックスを抱いていました。主は彼らに「過去の歴史を振り返りなさい。」と語られたのです。
 今の日本は経済的・社会的な大きな危機にあり、私達は21世紀に向けて、さらに大きな嵐が来る事を予感しながら生きています。例えば大きな生命保険会社の倒産など、従来では考えられなかったような出来事が頻発していますが、人々はそれに慣れっこになって危機感が麻痺しているかのように見えます。しかし、神は日本の社会に対して何かを語ろうとしているように思われます。そのような中で1%にも満たないクリスチャンが信仰を持ってまっすぐに進もうとすると、往々にして大きな抵抗にぶつかるものです。その状況はこの時代のイスラエルにおけるレムナントと似ているように思われます。
 そのような中にあって神はレムナント達に、先祖の事を思い出し、神がいかに豊かに祝福を与えてくださったかを振り返るよう語りかけることによって、信仰の意義を示し、勇気を与えたのです。
 ここで、振り返るべき内容は次の三つです。
1.材料の平凡さ
 ひとつは材料の平凡さということです。
 ここで「切り出された岩」とはイスラエル民族の先祖アブラハムを指し、「掘り出された穴」とはその妻サラのことを指しています。
 主はそのへんにいくらでもあるものを材料とされました。つまり、彼らは年をとっても子供も与えられず絶望的な状況にあり、そのまま朽ち果てても当然の存在であったのに、主はそれを取り上げて特別な恵みを与えられたのです。
 我教団の創設も、そのような絶望的な状況の中でなされました。日本という国は敗戦で絶望的な状態にあり、また創設者の蔦田二雄先生は宗教弾圧の牢屋から引き出されたばかりで健康的・真理的に大きなダメージを受けておられました。また、最初の協力者となった人々も原爆の被害から奇跡的に命だけを助けられた長谷川元子・正子両姉妹始め、同様な経験をした一握りの牧師達でした。正に彼らは、「火から取り出した燃えさし」(ゼカリヤ書3:2)の様な存在でした。
2.現在に至るまでの祝福
 もう一つは、現在に至るまでの祝福と言うことです。岩から切り出された石が立派な建築材料となり、穴から掘り出された泥が立派な陶器になったことがこの比喩から伺えます。主はそのへんにいくらでもある岩や泥を祝して、尊いものに造り変えてくださったのです。
 私が宣教師として赴任したケニヤで教会を建設したナクルの北5〜6キロ離れたエンガシュラという村は、建築用の岩の産地でそこらじゅうから岩がとれます。6〜9インチ角の岩が1メートルあたり約100円から200円で購入でき、それを運ぶことを職業にしている人をやとって運搬し、石屋さんに削ってもらってから積み上げて教会を建てました。
 神の御手が加わることによって、何の変哲もない岩が素晴らしい神殿の一部になるのです。また、掘り出された穴とは、地中の泥のことで、それが粘土となり陶器となるのです。イスラエルも、アブラハムとサラというありふれた年寄りの夫婦から、大いなる国民となりました。現在のイスラエルも、神の恵によって砂漠は主の園の様になり、歌声はかつての荒れ野に満ちています。荒れ野が水の満ちた園に変わったのは、信仰を通してだったのです。神は質的にも、量的にも大いなる恵みを注がれました。ですから「思いだし、喜びなさい。」こそが預言者のメッセージでした。
 インマヌエルについても、主はその働きを祝し、今日までの成長を許して下さいました。
3.神のイニシアチブ
 2節に「わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやした。」とありますように、そこに神の主権、神の御業を見て取る事ができます。それはアブラハムが偉かったからでもサラが偉かったからでもなく、神が彼らの内に働いていてくださるからなのです。
 


B.展望(4〜6節)
4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
5 わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む
6 目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
 この部分はより前向きな展望です。語られている内容は以下の三つです。
1)救いは神から来る。
 前の文節に引き続き、「わたし」と神の主権が強調されています。
 その救いは「教え」、「公義」、「義」、「救い」という表現で語られていますが、内容は一つです。つまり、神の期待しておられる水準に人間の在り方が神の力によって回復される事を指しています。
2)その救いは永遠に続く。
 天も地も消え失せることがありましょう。しかし永遠者なる神の勝利は終わることがありません。
3)その救いを全世界に広げる担い手は、神の民である。
 ここで永遠なる主は宣言されます。彼は「私の民、私の国民」を持ちたもうということ、そして彼の支配はその民を通して全世界に及ぶものであるということを。
 
 私達はもとは捨てられても当然の存在であったものを、主が御子イエスをつかわし、我々を切りだして祝福を与えて下さったのです。その主を認めて讃美したいと思います。
 そのことは全教会に、そしてインマヌエルにもあてはまっています。
 インマヌエルは戦後まもなく現れたプロテスタントの教会です。戦前の宗教弾圧で沢山のキリスト教会が日本基督教団という一つの教団にまとめられてしまいました。戦後になって再度多くの教会が新しく興されましたが、1945年の終戦の年に始ったのは少数です。
 そしてインマヌエルは最も早く、大きく成長したプロテスタント教会のうちのひとつで、海外に組織的に宣教師を送るようになったのも最初でした。それは主が群れを祝し、広げ、用いて下さったからです。
 ただ、創立55年を経った今、その現状を客観的に見ると、少なくとも統計的な数字においては停滞現象が起きていることを否むことができません。海外の宣教地は5箇所に減り、以前は毎年10〜20人いた神学校に入る献身者は少なくなり、受洗者の数も減っています。
 そこで今、かつて与えられた祝福を振り返って感謝し、そのできごとの背後にあった主ご自身の力と御業に目を留めたいと思います。岩や建築材料、泥や器が素晴らしいのではなく、それを用いられた主が素晴らしいのです。そのことを認めて、今主の新しい御業が教団に、そして一人一人のうえになされることを期待したいと思います。
 そしてそのために、教団の活性化を真実に祈りたいとと思います。一人一人がその使命を感じて、伝道や宣教を停滞させないで、なお拡大したいと思います。
 「与える事」は「受ける事」よりも幸いです。私達が「与える」姿勢を示すときに、主は内側も祝して下さるのです。
 4節にはその使命が述べられているように思われます。
 神の恵みは国々に広げられていくものであるという目標、ビジョンを私達がしっかりと持つ限り、この停滞は打ち破ることができると私は信じております。
 


終わりに
 私達一人一人の心に、また生涯にあてはめて、「切り出された岩」とは何でしょうか。掘り出された穴とは何でしょうか。それは神を知る前の私達の生涯です。
 「神なく、望みなく、さまよいし我も、救われて主を誉むる身とはせられたり。」という歌がありますが、もし主を知らずに生き続けていたら、ということに思いをめぐらし、私達は「切り出された岩」であることを思い起こしたいと思います。そして、自分が何か偉いものであるかのように思うことなく、神の恵みに対して大いに感謝したいものです。
 そして、過去に感謝すると同時に、21世紀の教団にも神は多くの恵みを注いで下さることを信じて立ち上がりましょう。私は「福音」だけがこの時代を救うことができること信じています。
 そのためにまずは、一人一人が切り出された岩であったことを思い起こして、主に感謝し、主への信頼を新たにしようではありませんか。
 ご一緒にお祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2000.10.28