礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2000年10月29日
「死ぬほど辛い」
井川 正一郎 牧師
士師記16章4〜22節
中心聖句
16:15 そこで、彼女はサムソンに言った「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは、『おまえを愛する。』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした。」 16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。 (15〜16節) |
はじめに
16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。
士師記16章を開きました。午後の特別伝道会のことを思うと、もっと元気のよさそうな箇所を開きたい思いが致します。でも、これが今日の神様のメッセージです。
世界の三大悪女は誰でしょうか。クレオパトラと何とか、云々。聖書の中ではイゼベル、ゴメル、そしてデリラでしょうか。
デリラに溺れ、そしてついにはその誘いのために力の源を口にしてしまい、捕縛されてしまうサムソンの箇所です。
サムソンは女の人を見ると、すぐに好きになり、自分のものにしたがるタイプでした。14章にも同じような記事があります。この16章も1節につづき、また別の女のところへ行ったのでした。名はデリラ。デリラの名の意味は、誘う、誘惑する女、贅沢好みとか、あるいは相手を弱くするとの意味です。まさにデリラは名前のごとくサムソンを弱くするのでした。
ついでに、サムソンとは太陽の人、子供、あるいは強い、破壊的という意味です。彼はナジル人として神に聖別された者です。ナジル人については今日は説明を省きます。
このデリラを愛するサムソンの様子を見て、敵のペリシテ人はデリラに近寄り、サムソンの力の秘訣を聞き出して欲しいと申し出ました。銀1,100枚の報酬を約束され、デリラは早速サムソンを誘惑し、秘密を聞き出そうとしました。
計4回の試みがなされたのです。6、10、13節です。その都度その都度、違うことを言うサムソンでした。今度はほんとうかと思ってデリラがペリシテ人に知らせます。しかし、ペリシテ人たちはサムソンに何度も蹴散らされてしまいます。それが3回繰り返されました。デリラはなお、あきらめずに食い下がります。あきらめず4回目がなされました。しきりにせがみます。最後の泣き落としにかかったといってもよいでしょう。15節です。
15 そこで、彼女はサムソンに言った「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは、『おまえを愛する。』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした。」
さすがのサムソンもこの4回目はきつかったに違いありません。その心が張り裂けんばかりとなります。女の人にせがまれると弱いのでした。そして、16節。
16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。
「死ぬほど辛(つら)かった」、これが今日の思い巡らしの中心となる聖言です。
死ぬほど辛い。それ故にその辛さから逃れるべく、ついに自分の力の秘密を明かしてしまいます。今度ばっかりは偽りではありません。確かに本当のことを打ち明けたと女の直感で感じたデリラでした。勇んでペリシテ人に報告したのです。サムソンは今回も簡単に勝つことができると思っていたのですが、そうではありませんでした。力が失われてしまいました。そのことを自分で気付かないほど、鈍感になっていたのです。
サムソンは捕まりました。そして目をえぐられ、牢につながれ、その中で臼(うす)を引かされたのです。
22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
でも、幸いなるかな。主は回復のチャンスを与えておられるのです。毛が伸び始め、また彼も臼(うす)を引きながら、神の御前で悔い改めたのでしょう。今一度、恵みのチャンスをくださいと祈り、答えられ、自分の身を捧げて主の奉仕をなしたのです。
本論――「死ぬほど辛い」からの学び――
16節、「死ぬほど辛い」――このことについて、次の2つのことを学びたいと思います。
1)サムソンの辛さとは何でしょうか。そして、人はそもそも何をもって辛いと感じるのでしょう。
2)その「死ぬほど辛い」ことに対して、どう対処すべきでしょうか。
@「辛さ」とは何か
まず第一のサムソンの辛さは何かと言うことですが、「教えてはならない自分の力の秘密」と、しかし同時に「失いたくないデリラ」との狭間にあって、彼は死ぬほど辛いと感じたのです。言い換えると、サムソンの辛さは、一番大事なものを取り上げられるという辛さでした。
ところで、そもそも「辛い」との一般的意味は、肉体的、精神的に苦痛を感じ、耐え難い、苦しいと感じることです。あるいは、むごい、薄情、非情な仕打ちにあって、こらえ切れないほどの痛みを感じることです。
もう一つの意味は、迫害(外側の乱暴)というより、自分にとって大事と思っていることを失う、切り離される、というものです。サムソンの例がそれです。
どちらも失いたくない、失う辛さを感じているサムソンです。また、一般的に、家族との別れ、友達との別れ、特に死ということによって親しき者を失う辛さ、切り離される辛さです。これは程度の差こそあれ、誰でもが感じる辛さの一つではないでしょうか。身を裂かれるような思いが致します。
第一番目に申し上げたかったのは、この辛さは死ぬほどかどうかかは別として、程度の差こそあれ、誰もが感じ、経験する辛さであるということです。この辛さを味わうことは、「罪」でも「悪」でも何でもないということです。そして、そういう辛さの経験を通して、「神は人間に何かを教え」ようとなされるのです。
A「辛い」ということに対し、どう対処すべきか
その辛さの中で、どう対処するかを考えるとき、「必ず通過せねばならないところを通過すべき」ということ、「ある種の痛みを感じ、それをきちんと通過することが求められる」ということなのです。
人間、最終的にはいつも二つのうち、どっちを選ぶのか、と迫られて来ます。あるいはどっちを切り離すかと。サムソンは、その選択が死ぬほど辛かったのです。
自分の大事にしているものを失いたくない。どちらも失いたくない。でも、申すまでもなく、二人の主人に仕えることは出来ないものです。
きよめを必要とするクリスチャンと二重写しとなります。切り離す必要のあるとき、切り離せるでしょうか。大事と思っていること(もの)を切り離し、捧げなさいと求められたとき、切り離し、捧げられるでしょうか。積極的な言い方をすれば、「正しいほうを喜んで選べる」でしょうか。
サムソンは捨てるべきものを捨て去れなかったのです。逆に、捨ててはならないものを捨ててしまったのです。
男女の性的な間題、金銭の問題、装う・着飾るといった外見・ファッションの問題など、具体的生活の中で、いつも選択に迫られるのです。
霊的経験を得るとは、少なくともある種の痛みを感じるものです。手術はその痛みを通過して癒されるものです。その痛みを感じない霊的経験はありえないといって言い過ぎではありません。なぜなら、人は本来、神の願っておられるものを選ぶ、あるいは願っていないものを捨て去るということは不可能に近いことだからです。
それは罪の性質がそうさせるからです。その罪の性質を変えるということだから、ある種の痛みが伴うのです。悔い改める、罪から切り離される、扱われる。ある人には強烈な痛みとなります。ある人はそれほど感じないかも知れません。しかし、程度の差こそあれ、痛みを伴わない霊的経験は有り得ません。十字架の痛みだからです。
何を申し上げたいかといえば、最終的にどっちかと迫られる場面・状況になったとき、どう対処するかという問題なのです。「イサクを捧げなさい」とは、そういうことです。
案外、人はサムソンと同じ「死ぬばど辛い」状況になるものです。サムソンは捨てるべきものを捨てられませんでした、切り離せませんでした。逆に捨ててはならないものを捨ててしまいました。これが分かれ道となるのです。
まとめ
今日のメッセージをまとめると次の3つとなります。これが実際の生活への適用です。この箇所から教えられる教訓と言ってもよいでしょう。
1)神の御旨を喜んで最優先することの大切さ。また、それを選ぶことが出来るか、否か。
2)そのために、どうしても扱われねばならない人の罪の問題。それを十字架の痛みとして真正面から受け、通過してはじめて本当のものが得られる。通過するかどうかです。
3)そのような痛み、辛さを避けてしまったと言う場合、このサムソンように、悔い改めることにより、今なお「神の回復のチャンス」が残されている。
このようなサムソンにさえ、そのもう一度の恵みのチャンスが与えられました。「また伸び始めた」(22節)と聖書にあります。 なぜでしょう。悔い改めたからです。自分の罪の結果の痛みを通過して、心から悔い改め、罪を切り離そうとしたからです。神の御旨に従うことを選んだからです。
今日お互い、なお、悔い改めるチャンスがある、罪を切り離すチャンスが残されている、「また伸び始めた」という恵みの御業のチャンスがある、残されている、ということを捉えさせていただきたいと思います。
今日の午後の特別伝道会でも、イエス様を求めている方が悔い改めるということも幸いです。と同時に、多くの私ども信仰者が、扱われる必要のあるとき、もうひとたび、悔い改める、あるいは、きよめの恵みを頂戴して、切り離すべきものを切り離す、正しい神様の御旨を選んで行くんだという、そのような神様の御前で、私と神様と1対1になって扱われる特別伝道会であったならば、どんなに幸いでしょうか。
伝道会は、求道者のみばかりでなく、私たち信仰者のためにもあるのです。
「あなたのそのような強い力はどこから来るのですか?」「イエス様から来るのです。」
「死ぬほど辛い」しかし、「また伸び始めた」、これが今日のメッセージです。
お祈り致しましょう。
Editied and written by N. Sakakibara on 2000.10.29