礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年11月5日

ヤコブ書連講(1)

「主イエス・キリストのしもべヤコブ」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書1章1−8節

中心聖句

1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

(1節)


始めに:

 本日からヤコブ書の連講に入りますが、ガラテヤ書の次の連講に本書を選んだのは、ガラテヤ書とのバランスを考えての事です。

 ガラテヤ書は、救いは始めから終わりまで信仰によるものであって、行いによるものではないことをはっきりと示しています。非常に大切な福音の真理を語っている大切な手紙です。

 一方、このヤコブ書は同時期に書かれたものですが、対照的に本当の信仰は実際生活に現れるべきである、またそうでないような信仰は本当のものではないとの立場から、クリスチャンの実際生活を強調しています。それは一見ガラテヤ書と矛盾するかのように思われますが、よく読むとこの二つは矛盾せず、互いに調和しています。このことはヤコブ書講解の中で説明していきたいと思います。
 私達の生活の中で大切なのはバランスです。食事でもいろいろなものをバランスよく摂ることが大切です。同じように聖書も、全体をバランスよくかみしめていただくときに、バランスのとれたクリスチャンとして成長していくことができるのです。
 今日は、ヤコブ書を概観し、その著者であるヤコブについて、人物伝的な学びをしたいと思います。
 


A.ヤコブ書について
1.差出人
 差出人はヤコブは主イエスの弟で、初期のエルサレム教会の指導者だったヤコブです。1章の1節をお読み致します。
1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。
 ガラテヤ書は宛先がガラテヤ人で「ガラテヤ人への手紙」でしたが、ヤコブ書は「ヤコブの手紙」であって、「ヤコブ人への手紙」ではありません。
2.宛先
 宛先は迫害によって離散したユダヤ人クリスチャンです。「国外に散っている十二の部族」(1章1節)とは、後述するように、サウロの起こした迫害によってエルサレムから散らされたユダヤ人クリスチャンを指しています。
 「12部族」とありますが、これは必ずしも散らされたクリスチャンが12の部族を代表していたという意味ではなくて、離散したイスラエル民族を現すテクニカルタームであったと理解して下さい。例えば野球のメンバーのことを、かならずしも9人でなくてもナインと呼ぶのと同じようなものと考えてください。
 ではその内容は、異邦人クリスチャンである私達には何の関係もないのでしょうか。いいえそうではありません。私達は、人種的には日本人ですが、霊的な意味においてはイスラエルの人達と同じであり、ヤコブの書いた原則は私達にも当てはまるのです。
3.著作年代
 AD45年から48年ごろと推定されます。一部には60年代という説もありますが、私はそうではないと考えます。その理由は後で説明致します。
4.執筆の目的
 執筆の目的は、次の2つです。
@ 迫害に遭って苦しんでいる信仰者達を励ますため
A 行いの伴わない「信仰」に警戒を与え、本当の信仰生活を確立させるため
5.テーマ
 テーマは行いに現れる信仰です。2章26節には以下のように記されています。
2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
6.アウトライン
 そのアウトラインは以下のようなものですが、パウロの手紙のような秩序だったものではなく、トピックがとびとびに出てくる、母親が子供をしかるような形式で書かれています。

A. 挨拶 1:1

B. 試練の中でも堅く立ちなさい 1:2−27

C. 差別をしてはいけない 2:1−13

D. 真の信仰には行いが伴う 2:14−26

E. 舌を制御しなさい 3:1−12

F. 神の知恵を求めなさい 3:13−18

G. 聖めを求めなさい 4:1−17

H. 神を恐れない金持ちは裁かれる 5:1−6

I. 再臨こそクリスチャンの望み 5:7−12

J. 祈りは力がある 5:13−20

 


B.ヤコブの生涯
 ヤコブとは「踵をつかむ者」という意味で、旧約聖書に出てくる自己主張の強いヤコブなど、聖書の中には何人ものヤコブが出てまいります。
 このヤコブは前述のようにイエス・キリストの弟ですが、その生涯は次のように大きく4つにわけることができると思います。
1.ナザレでの平穏な時代
 ヤコブはAD0年前後にヨセフとマリヤの子として誕生しました。主イエスはマリヤから奇跡的な処女降誕をされましたが、その後の子供達はこのカップルから自然の誕生をしました。
 マタイの福音書13章55節の記事を見てみましょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
 ここに書かれた順序から言って、ヤコブはイエスのすぐ下の弟だった事が伺われます。また、父親が書いていないのは、主イエスが成人されたころにはヨセフは亡くなっていたためと考えられます。
 もっともカトリックの人々はマリヤの永遠の処女性を信じて、この自然の誕生を認めず、昔は従兄弟のことも子供と呼んだなどという理由でヤコブ達はイエスの従兄弟であると主張していますが、これは少々無理な解釈と思われます。
 ヤコブの少年・青年時代は極めて平凡な人生でした。真面目一方の兄イエスと共に、決して裕福とはいえない家庭で、大工の仕事を黙々と手伝い、弟妹の面倒を見、母マリヤを助けました。
2.動揺の三年半
 そんなヤコブに、降って湧いたような激震が訪れました。AD26年の暮頃、兄イエスが突然「献身」してしまったのです。お兄さんは当時人々の話題となっていたバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのです。
 彼の近くにいたゼベダイの子達もそうなったように、ヨハネの弟子位になるのならまだ理解が出来ましたが、どうもそうではなさそうで、イエスはヨハネ以上の注目を集める預言者的な活動を始めたのです。
 身内から世間の注目を集めるような有名人が出ると、誇らしく思う人と、迷惑に思う人がいるようですが、ヤコブはどちらかというと後者だったようです。
 もっとも、最初はヤコブも兄さんが有名になるのを誇らしく思う気持ちで彼について行きました。ヨハネ2:12にそのときのことが記されています。
その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
 しかし、その人気が余りにも高まり、しかも預言者どころか神の子であると主張するに及んで、これは気が狂ったのではないかと心配になりました。実際に故郷ではその噂で持ち切りでした。マルコ3:21には、
イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ。』と言う人たちがいたからである。
と記されていますが、ヤコブも半ばそう信じました。あのおとなしい、普通の大工であったイエス兄さんはどうなってしまったのだろう。元の真面目な大工に戻って欲しい、そんな気持ちで兄を連れ戻しに来ては見たものの、兄のまわりの余りのフィーバーぶりに諦めざるを得なかったのが実情でした。
 マルコ3:31には、
さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
とあります。「人をやり、イエスを呼ばせた。」というのは間接的なやり方で、あまり好きにはなれません。言いたいことがあるなら、直接行って「もうやめてくれ」と言えば良いと思うのですが。
 ヨハネ7章はヤコブを含めた兄弟達が兄イエスの行動をかなり関心をもってフォローしながらも、そのやり方については厳しい目をもって見ていたことを示しています。
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。『あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。』
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
 自分の兄が神の子であると信じられなかったのは、あたりまえのことでした。どうしても、「そんなこと言ったって、お兄ちゃん、小さい頃僕をいじめただろ。」と考えてしまうでしょうから、ヤコブがイエスは神の子であると信じる事は、他の人達よりもはるかに困難であったと思われます。
3.イエスを主と受け入れる
 AD30年に起きた十字架の出来事は大きな転機となりました。福音書には記されていませんが、恐らくヤコブは十字架を最後まで見届けた母マリヤについてきて、一部始終を目撃したかもしれません。あの優しい、そして何の悪意も持たない兄が何故、との問いはヤコブを苦しめた事でしょう。その苦しみ以上に大きな感動を覚えたのではなかったでしょうか。ちょうど十字架を最後まで見届けた百卆長が「彼は義人であった。」と感動したように。仮に十字架の現場に居合わせなかったとしても、恥辱に満ちたその十字架の刑の只中に、人を赦す愛が彼を捉えたことでしょう。
 「今まで冷笑していたけれど、もし本当に兄が神の子だったら…」と悩んだことでしょう。そして彼は「兄が何者であったのか、主よどうか教えてください。」と祈り求めました。
 そのようにヤコブの心が整えられた時、復活の主が彼の前に現われて下さいました。どこでどのようにという記録は残っていません。ただ、第一コリント15:6、7に、
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
と、パウロが記している所に妙味を感じます。五百人への現われがガリラヤでの出来事とすると、その後、そしてイエス昇天の前の出来事となる訳です。復活の日から昇天迄が40日ですが、その後半の出来事と考えられます。少なくともイースターの直後でなかったことは確かです。イエスを救い主として信じたい気持ちと、そのイエスが余りにも近しい兄であり、人間的に見過ぎてしまう気持ちとの葛藤に終止符を打ったのが復活のイエスの現われでした。それで十分でした。
 ヤコブ書1章1節で「主イエス・キリストのしもべヤコブ」というように神とイエス・キリストを同格においていることに注目して下さい。ヤコブはこの人こそ生ける神であったとイエスのことを認めたのです。
4.エルサレム教会指導者としての活躍
 その後のヤコブの活躍については、本日は詳しくはご説明致しませんが、後で以下の引照箇所をご覧になってヤコブの教会歴史の中での役割を見ていただきたいと思います。
30年 十字架を見、復活の主に触れた(第1コリント15:7)
   ペンテコステを経験 (使徒1:14)
33年頃 エルサレム教会への迫害と信者離散(使徒8:1)
36/37年 回心したサウロに出会う (ガラテヤ1:18、19)
44年 「弟子のヤコブ」の殉教、この頃「弟のヤコブ」はエルサレム教会の指導者に(使徒12:17)
45年頃 「ヤコブ書」執筆
48年 エルサレム会議で議長を(使徒15:13以下)
   同会議の前にサウロと交わり(ガラテヤ2:9)
   同会議の後サウロに批判的行動(ガラテヤ2:12)
56年 第三次宣教旅行後のサウロに会う(使徒21:18)
63年頃 殉教
 パウロにイエスの生前の言動を話したのはヤコブやペテロでした。実はヤコブはイエスが生きているときには、反発して真面目にイエスの話しを聞いていませんでしたが、それでも話しを聞いていたことが後で役に立ったのです。
 また、ヤコブは保守派と革新派の間で「割礼問題」が議論されたエルサレム会議において、議長として非常に中立的で公正な立場で素晴らしい結論を出しています。
 さて、ヤコブは63年頃総督アナヌスの時代に殉教したと言われていますが、それは「義人ヤコブの殉教」と呼ばれる伝承に基づくもので、聖書には記されていません。その伝承によれば、ヤコブの説教に心惹かれたアナヌスの妻の故に夫であるアナヌスが怒り狂ってユダヤ人を扇動し、ヤコブを神殿の尖塔から突き落とさせたそうです。また伝承は彼が祈りの人であって、いつも跪いて祈るために、その膝にたこができるほどであったと伝えています。
 


終わりに
 しめくくりにヤコブの生涯に関して2つの大切な教訓を拾ってみたいと思います。
1.神は全てを無駄になさらない
 神は私達の育った環境、人生で通過した経験を決して無駄にはなさらないということです。ヤコブの通ったキリストの弟と言う看板はある時には重荷であったかも知れませんが、主はそれら全てを活かして用いられるということです。彼の手紙にイエスの言葉が多く引用されていますが、反発しながらも聞かされていたイエスの言葉が役に立ったのです。神は一見マイナスイメージにしかならないと思われるようなことでも、ひっくり返して有効に用いなさる方です。
2.キリストとの出会い
 それらの経験を活かすものはただ一つキリストとの生きた出会いです。彼を人間としてではなく、贖い主、生ける救い主として受け入れるとき人生は変わります。私達も心を開いて求める時に、その生きた主が出会って下さるのです。
 ヤコブがここで「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と自己紹介しているのは、単なる修辞的な表現ではありません。
 ヤコブは人間としてのイエスを見すぎていたために、彼が神だと受け入れるのは最も難しい立場にありました。それは彼にとって大変な飛躍だったのです。しかし、彼はそのキリストに対して、自分は僕である、文字通りには奴隷である、と位置づけています。エルサレム教会の主任牧師という肩書きも使っていません。まして主イエスの弟などという関係をひけらかすこともしません。ただ単に僕と自己紹介をしています。私達はその働きや地位に関わらず、基本的には皆キリストの僕なのです。このへりくだった自覚がヤコブをヤコブたらしめていたのではないかと思います。
 皆様の中にも、イエスを偉大な人間とは認めるが、神とか救い主としてはもう一つはっきりしない、という方がありませんか。その意味ではヤコブの方がもっと信じることに困難を感じていました。何故なら彼は人間としてのイエス様を見すぎていたからです。そのヤコブを変えたのは、十字架の大きなできごとと、復活の主イエスとの出会いでした。そして、イエス様は今も求める魂に出会って下さるのです。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13  )
 皆様はこの主との出会いを経験されましたか。その主に対して僕としてお仕えしていますか。
 ご一緒にお祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2000.11.11