礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年11月19日

ヤコブ書連講(2)

「試練を喜ぶ」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書 1章1〜18節

中心聖句

1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

(2節)


はじめに

 今日はヤコブ書1章2節に格別に焦点を合わせたいと思います。もう1度、お開き下さい。そして、出来ましたら、その箇所を暗記してお帰り下さい。

 ご一緒にお読み致しましょう。

2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 前回は、ヤコブ書を概観し、その著者であるヤコブについて、人物伝的な学びをしました。特に主の僕と自己紹介したその背景に、主イエスの肉の弟として反発していた時代、主の十字架と復活に触れて、その人生や態度が全く変えられた点に焦点を合わせました。

 今日はその教えの初めである「試練」について2〜4節に焦点を当てて学びます。この中から、試練とは何か(2節前半から)、試練への対処について(2節後半から)、そして、試練の目的について(3、4節から)、課題として取り上げたいと思います。


1.試練とは何か

2a 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは

@「テスト」の事

 「試練」とは、「試験」、「テスト」というギリシャ語から来ています。

 皆さんの中で試験の大好きな方というのはあまりおられないと思います。しかし、もし学校から試験というものがなくなったならば、多分学生達は何も勉強しないで楽(ラク)をしてしまうことでしょう。試験というものがあって、皆それに向かって勉強するわけですから、役に立つものなのです。試練と試験とは同じ言葉でございます。

 さて、この手紙の宛先は世界のあちこちに散っていたユダヤ人クリスチャンであることは前回申し上げました。では、彼らはどんな試験、いや、試練を受けていたのでしょうか。

 彼らはエルサレムの教会で養いを受けていたのですけれども、そこで迫害が起きてエルサレムにいられなくなって、外に散らされてしまいました。

 外に出て行ったユダヤ人、彼らは特殊な信仰のゆえに、色々な場所で蔑まれ、迫害されたりしてきたのです。ユダヤ人であるということだけで迫害の対象となるのに、さらに、クリスチャンであるわけですから、ユダヤ人からも仲間はずれにされ、苦しんでしたのです。二重の苦しみを経験したわけです。彼等はどこにも安楽な場所を見い出せなかったのです。

 ヤコブが書いた宛先のユダヤ人クリスチャンは そういった環境にあったのです。ヤコブはそうした厳しい状況、現実を十分承知して、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは・・」と書いたのです。

A神ご自身から

 ヘブル書には、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(12:6)と記されています。

 試練とは、私達をより強い信仰者にするための神の愛の鞭なのです。主が特別の目的のため、試練を許しなさいます。

B不可避

 試練は人生に殆ど不可避であるという事も忘れてはなりません。「試練に会うときは」の「ときは」という言葉は、正確には「ときは何時でも」という訳(意味)です。つまり、あなたがたは、その試練にいつも遭い続けている、次々に襲いかかる試練ということが前提となっています。

Cさまざま

 しかも試練はワンパターンではなく「さまざま」(一つではなく多数、一種類ではなく多くのバラエティ)なのです。私達はその種類も内容も選ぶことは出来ません。これはよいが、これはいやだとか言うことは出来ないのです。それは神の御心によっています。

D限度がある

 感謝すべき事は、試練について、神はいつも限度を定めておられるということです。第一コリント10:13には「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」と記されています。

 神は私達の一人一人が負える筈の重荷の限度を知っておられ、それ以上の荷物は加えなさらない事を覚えたいと思います。


2.試練への対処

2b それをこの上もない喜びと思いなさい

 それでは、試練にどう対処したらよいのでしょうか。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」とヤコブは言っています。

 試練とは本来歓迎すべきものではありません。厳しいもの、悲しいもの、辛いもの、苦しいものが試練です。病気、愛する人の死、つらく、悲しいものなのです。そうでなければ試練ではありません。

 「喜べ」と書いてあるのでなく、「喜びと思いなさい」と書いてあります。簡単には、ニコッとは出来ません。ここで何かを加えると喜びと思えるようになる。何でしょう。信仰ですね。

@当り前のこととして

 試練が訪れたら、わが身の不幸を嘆くのでもなく、当り前のこととして受け取りたいと思います。ペテロは、第一ペテロ4:12で「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と語っています。パウロもまた、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。」(第一コリント10:13)と語っています。

 ところで、最大の試練を受けた人は誰でしょう。主イエス様です。痛みという面、人から捨てられるという面、また、人から裏切られるという体験にも遭いました。自分の愛する十二弟子からも裏切られました。

 ですから、試練が訪れた時の第一の対処は、当り前のこととして受け取ることなのです。誰でもが経験する道なのです。そこに神の目的があるのです。

A大いに喜びなさい

 更に積極的に「それをこの上もない喜びと思いなさい。」というのがヤコブの勧告です。試練の内容は選べませんが、試練にぶつかった時の態度は私達が選べます。フリップスと言う人はここを、「試練を邪魔者の様に迷惑がらないで、友達として受け入れよう。」と訳しています。 

 ヤコブの言わんとすることは何だったのでしょう。こうした厳しい試練を逆なりに積極的に捉えなさい、というものでした。受身になって必死に耐えるというのではなく、勝利者としての喜びをもって通過しなさい、というのです。

B背後の神への信頼

 更に、試練を喜ぶのは人間性に反した事ではありますが、それが可能なのは、神の御心が明らかだからです。私達がそれ程までに神に信頼されているという事実に対する感謝ではないでしょうか。

 どうしてこんなに苦しい目に?という疑問を持ちたくなるとき、「こんな試練をも耐えるものと私達を信頼して下さった」と気持ちを切り替えて感謝することはとても大切です。

 神は私達の一人一人が負える筈の重荷の限度を知っておられ、それ以上の荷物は加えなさいません。言い替えれば、大きな試練を与えられたら、それは神が私の試練受容能力を高く評価して下さったしるしなのです。こう考えることはそう易しいことではありません。しかし、試練の背後におられる神を見失うことのないように、しっかりと主を見続けたいものです。


3.試練の目的

3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

@信仰の試し

 試練の目的の第一は、主に対する盤石の信仰です。それは、私たちが試練の中を通らなければ体得出来ないところの信仰ではないでしょうか。

 先聖日も語られましたが、すべてのことが順風満帆のようにガリラヤ湖の上を行ってしまったならば、そうした意味の信仰は学べないのではないでしょうか。ですからこそ、主は試練を用意して下さるのです。

A忍耐の結実

 信仰の姿勢が私たちの習性となり、それが忍耐という特質となるのです。それは、ちょうど、お金が利息を、耕作が結実を、労働が報酬を生み出すように、ある原因がある結果を生み出すといった関係です。

B人格の完成

 「あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とは、一言で言いますならば、品性、性格、性質がキリストに似たものとして形づくられていくというクリスチャンの成長、完成に向かって私たちが作られていく、ということであります。


 私たちがキリストのようになるということは、私たちが期待されているひとつひとつの品徳というものが、正しい位置にはめられてバランスを持った人格として形成されていく、そしてそのために、試練というものをお許しになるということなのです。

 ペテロもまた、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第一ペテロ1:6,7)と語っています。


結論

 締めくくりたいと思います。

 今私は、この場所では、皆さん一人一人がどんな試練の中にいるのかはわかりません。けれども、家庭において、職場において、生涯、何の試練もないという人は恐らくおられないでしょう。あるいは、現在、様々な試練に遭って苦しみ、打ちひしがれている方がおられるかも知れません。

 どうぞこの御言葉によって励まされて、試練を許しなさった、試練の源であります主を見上げたいと思います。その背後に神のご愛があるということを信じたいと思います。

 その背後に神の目的があることを思いまして、その目的にかなった生き方をさせていただきたいと思います。

 この朝、もう1度、主に対する信頼を新たにさせていただきましょう。神の深いご目的を見ながら感謝し、喜びましょう。

 2節をもう1度、ご一緒にお読みさせていただきたいと思います。

2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 もし私が言葉を付け加えるとするならば、「『信仰によって』喜びと思いなさい。」ということです。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2000.11.19