礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年11月26日

ヤコブ書連講(3)

「疑わずに信じて求めなさい」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書1章2−11節

中心聖句

5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

(5-8節)


始めに:

昨週は、「試練」の内容について2ー4節に焦点を当て、この中から試練とは何か、試練の目的、試練への対処を課題として取り上げました。

今日は「祈り」というものについての教えです。

ヤコブ書の構成は大変興味深いもので、ある一環した筋があるというよりも、一つのトピックから次のトピックへと脈絡無しに飛んでいる感じがします。

しかし、それらの内容が全く繋がっていないかというとそうではなく、一つのトピックについて論議している内に、その締めくくりの言葉から次のトピックが生まれるという、連鎖反応的な進み方をしているのが特徴です。

例えば、1節の「恵み」という言葉が、2節の「喜びなさい」という思想を生み出し、4節の「欠けた所の無い」から5節の「知恵の欠けた」という風にであります。

では今日は祈り求めるべき課題は何であるか、また誰に祈るのか、祈りの態度はどのようなものであるべきか、そして祈りが答えられないのはどうしてか、と言うことについてまとめてみたいと思います。


A.祈りの課題:知恵

「知恵の欠けた人」と言う表現がここで出て参ります。この場合の知恵とは、算数や理科の勉強における知恵とか、知能指数という世的な問題ではありません。ではどういうものかいくつかの角度から見て参りましょう。

天よりのもの

 「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」エペソ1:17

とありますように、知恵は神から頂くものです。聖書の知恵とは天からの知恵、弁別力のことです。

さらに、使徒6:3にもあなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。とあり、聖霊の満たしに付随したものが「知恵」と呼ばれるものだと言うことが判ります。


キリストの内にあった

このような知恵はまた主イエス・キリストに満ち満ちていたものでした。

マタイ13:54には

それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」

と書かれています。ここに私たちは、ガリラヤの大工の息子で、ごく普通の教育しかなかった主イエスが、聞く人皆に喜びを与える不思議な力をもっておられたことを見て取ることができます。

また、コロサイ2:3は「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」と述べています。

このような知恵は、私たちのような普通の人間にも与えられるものです。

そのような例としてステパノを挙げたいと思います。ステパノに反対して多くの者が激しい議論を吹きかけて来たとき、「彼は知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」(使徒6:10)のです。私達もこのような知恵を日常生活で、また、奉仕の生活で頂きたいと願います。


良い生き方

ここで語られている知恵とはまた、普段の当たり前の生活の中に分かち与えられるものです。その中に「あの人はなんだか違うようだ」と思われるようなものが光り輝くのです。

ヤコブは3:13で「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。」と実践的な生活で示されるべき事を示唆しています。

クラークはここを解説して「一般的に言えば、知恵とは最善の目的とそれに到達するための最善の方法についての知識である。しかし、聖書的な意味では、真の宗教、神について自己について救い主についての全き知識をさす。」と言っています。

他の注釈者は「私達に与えられた機会を清い生涯の為に活用すること」と定義しています。

すなわち知恵とは、正しいことを正しく行うための思い・ことば・行いのことであり、それがパターンとして与えられることをさすわけであります。

私達はこうした知恵を必要としていますが、実際、知恵に欠けたものであると反省させられます。ですから、自分は知恵の欠けた人間であるというへりくだった自覚こそが、本当は知恵に至る道なのです。


B.祈りの対象

次に祈りの対象についてみて参りましょう。

神ご自身

まず、祈りは知恵の出所である主に求めなければなりません神は全ての知恵の源で在り給うからです。

ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」


「気前の良い」神

この祈りの対象となる主は、「気前良く」私たちの祈りに答えて下さるお方です。良きもの全てを持ち、全ての必要を求める者に与えられます

ここで「与える神」(tou didontos theou)と、与えることが神の特質であるような書き方がなされています。神は、お年玉を気前良く与える金持ちのおじさんのように、与えることの大好きな気前の良いお方です。

詩篇2:8「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」

とおっしゃる方は私達の祈りに答えようと待ち構えておられるお方です。私たちはこのことを確信していなくてはならないのです。

咎めること無くとは、何の条件も付けずにということですが、この場合は、私達の過去の罪について、現在のふさわしさの欠如にも拘わらずということです。

昨日の特別役員会では、会堂問題に積極的にまた信仰的に取り組むべきことが全員の一致をもって決議されました。詳しいことは12月の教会協議会で説明されますが、私達のただ一つの望みの根拠は「与えることを好みなさる神」ご自身です。


C.祈りの態度

祈りの態度についてみてみましょう。

信仰をもって

信仰をもって信じるとは、神がおられるという信仰、神は善であるという信仰、そして、神は私達の必要を喜んで満たして下さるという信仰をもって、と言うことです。


疑わずに

少しも疑わずに(meeden diakrinomenon=他の道にたゆたわずに)信じ願うことが大切です。ここで言う「疑い」は、普通の疑いではなく、「フラフラする」と言うような意味の言葉です。つまり、信仰と不信仰の間を行ったり来たりするような状態を言っているのです。ということです。つまり、信仰と不信仰の間を行き来しないことです。

このことを説明する喩えを紹介しましょう。ある男の子が「山よ動け」とお祈りいたしました。山は動きませんでしたが、この時男の子は「やっぱり動かないや」と思いました。

この「やっぱり」と言うのがイケナイのです。これこそ疑いの心であって、こういう心で祈りをするべきではないのです。祈るならそれが成就すると信じきってしなければならないわけです。

すなわち、神の存在、善、力を疑わないこと、また、私達が真実にまた熱心に求める時にそれを無下にはなさらないと信じることです。私達が神を信じすぎるということは決してありません。

答えられてもそうでなくてもどちらでもと言う中途半端な態度ではなく、どうしても御霊に満たされ、知恵に満ちるものとないたいと願うことはクリスチャンにとって大切なことです。私達はそのような 真実な信仰を告白したいものです。


D.「答えられない」祈り

これまで祈りについてみて参りましたが、実際に祈ってみますと、なかなかその祈りに答えていただけないと言う状態がままあり、中にはこれに躓く人もおります。このことについて最後にまとめてみたいと思います。

疑うもの=海の波

疑うものが海の波に例えられています。このkludooniとはさざ波のようなものではなく、海の大波のように押し寄せてくるものです。

神に求めるならば与えられるという事を確信できない人は海の波に似ています。それは安定せず、風に動かされます。希望と絶望が錯綜した状態です。


二心の人

大波に揺れる人は言い換えますと、「二心の人」と言う存在になっております。

神の十分さと自分自身の欠けとの間で心が二分されている人は、祈りはするけれども信仰が無く、従って答えも与えられません。このような人を二心の人(aneer dipsucos=二つの魂の人、4:8も参照)と呼びます。

海に浮かぶ船に縄を投げる状態を考えてみて下さい。船が絶えずフラフラ揺れていると、せっかくこちらに引き寄せようと、縄を投げようと思ってもねらいが定まらず、いつまで経っても縄が船に届くことはありません。

これと同じように、神様の側は一生懸命に祈りに答えようとされておられても、受け取る私たちの方がフラフラしているために、それを受け渡すことができない状態になっているのです。

こういう状態の人間は、一つの魂は地上に向き、他方は天に向いています。そしてその両方から保証を得ようとしています。地上の物も完全に放棄はせず、かといって、天国への望みも失いたく在りません。こんな性格の人はいわゆる優柔不断で何事も完遂することが出来ません。

そのような人は神から何も受けられません。信じつつ疑うということは言葉の矛盾ですが、実際は私達の心の中に起きてしまう現象です。

ヤコブはこのように腰が落ち着かない人は、人生の全てが不安定であると語っています。そしてそのような態度を改め、「疑わずに」求めなさいと勧めています。信仰と不信仰の間を行き来してはいけないのです。

信じますと口には告白しても、心の底で、もしかしたら神様は聞いて下さらないという不信仰が混じってはならないのです。


終りに

この勧めを読むといつも思い出されるのがてんかんの子供を持った父親の話です。

彼は主イエスに対して、もし出来るのなら子供を直して下さい。といいました。主は、出来るのならというのか。信じるものにはどんなことでもできる、と答えられたのです。

その時父親は、「信じます。この不信仰な私を助けて下さい。」と叫びました。信じ切れない自分をさらけ出して、主の助けを仰いだのです。

しかも、信じる方に一歩進んだのです。私達も不信仰との戦いを経験しているかも知れませんが、一歩信じますと進んで、祈って、告白しようではありませんか。


それでも祈りが答えられないときは、どうしたらよいのでしょうか?

この時は神様が最善のものを最善の時に与えてくださる、ということを思い出しましょう。子供がせがむからと行って、子供に包丁を渡す親はいません。然るべき年になったら包丁でも渡してあげることができるようになります。祈りが答えられないのは、ただ私たちがその状態にいないからなのです。

最後に6節をもう一度読んでお祈りいたしましょう。

6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on 2000.11.28