礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年12月3日

クリスマス連講(1)

「イエス・キリストの系図」

井川 正一郎 牧師

マタイの福音書 1章1−17節

中心聖句

17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

(17節)

<アウトライン>
クリスマス講壇の第1回目として、イエス・キリストの系図を取り上げる。

マタイの福音書第1章の系図の意味は、
(1) イエス様がキリストであり、救い主・メシヤであること。
(2) イエス様が、まことの神であると同時に、まことの人間であること。
(3) 神様の祝福の流れであるということ、
(4) そして、思いがけない始まりと広がり、であるということである。


始めに:

新約聖書 マタイの福音書の第1章17節をお読みします。

マタイ1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

イエス・キリストの系図であります。きょうは、申し訳ないような思いもありましたが、司会の小林兄に、カタカナをずっと読んでいただきました。こういう個所は案外音読しないものでありますが、間違いなく、敬けんに読んでいただき感謝であります。黙読もよろしいのですが、時折音読してみますと、今までと違う、気がつかなかった点に光が与えられることが多いのが音読というものであります。良きめぐみを与えられること間違いないものであります。

このマタイの福音書第1章の系図は、聖書をはじめて読む人にとっては、「なんじゃ、これ?」と読む気をなくしてしまうのです。

それ以上を読まなくなるということが多い書き出しであります。別にマタイに責任があるわけではないのでありますが、きょう、改めて、この系図の意味を考えつつ、クリスマス講壇一回目のメッセージに耳と心を傾けたいのであります。

で、この系図の意味を、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと、4つの意味があることを思い巡らしながら、4つのことを神様から学ばせていただきながら、私たちの霊的な糧としたいと思っております。


さて、まず第一の意味ですが、それは、(1)イエス様がキリストであられること、メシア(救い主)であられることを示す、であります。

(A)別の言い方をすれば、旧約聖書の預言の成就・実現であります。旧約聖書で預言されたメシヤは、このイエス様であるとの宣言であります。預言され、伝えられてきた救い主は、このイエス様。このお方こそ、キリストであります。

キリストとは、救い主・メシヤの意味でありますが、もともとは「油注がれた者」という意味であり、また、イスラエルに救いをもたらし、御国を建設する者のことをいったのであります。

そのメシヤはイエス様。アブラハムからはじめる理由は、主が約束の民ユダヤ人、神に選ばれし民よりメシヤが、という思想であり、また、ダビデとの関わりでは、王として、ダビデのすえにメシヤが登場されると預言をしております。

イエスが王座を継ぐ者であり、王座を占めるものであるという意味もあります。約束と契約の民であるユダヤ人を納得させるのは、このような表現が必要なのであります。


(B)配列を見て見ますと、3つに分けることができます。まず、1節から6節前半まで、つぎに、6節後半から11節まで、そして、12節から16節まであります。

1つのグル−プはすべて14代、全部で41人の名前。ダビデが2度数えられ、捕囚が分割の1つの点になり、また、そこにいくつかの名前が省略されています。

それは、記録が誤っているのではなく、意図的に省かれた物であります。4+6+4、「14」という数字にこだわったようです。

まず第一のグループですが、アブラハムから始まり、ダビデ王まで。最初の子の部分は、いわば王国前の、族長・士師時代のことであります。

特記するべきことは、全部で4人いる婦人のうち、ここに3人出てくることであります。タマル、ラハブ、ルツ、次の段落に、ウリヤの妻・バテシバ。メシヤの系列に異邦人の女2人と、罪を犯した女2人が入っています。私たちは、神様の驚くべき憐れみをここで知るのであります。

第二のグループは、王国時代であります。ここでは、4人の王が省略されています。 アハジヤ、ヨアシュ、アマジヤ、エホヤキムであります。14にすることに固執しているのでしょうか?「生まれ」は、必ずしも、その父から生まれたという身体的誕生だけでなく、ただ、直径というか、法的流れを意味しています。

第三のグループは、ほとんど知られていない名前であります。王国後の、異邦人支配の時代であります。 そこで、マタイによる系図は、しばしば、ルカによる系図と比較されるのであります。


(C)第1節の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」という言う宣言は、約束の民・契約の民であるユダヤ人を納得させるのに必要なことであります。では、どうしてこのような系図から執筆をはじめたのでしょうか?

それは、この福音書の読み手が主にユダヤ人−すなわち系図を重んじるユダヤ人を対象にしているからであります。旧約聖書・歴代誌第一 最初の9章にある系図、あるいは捕囚語にあるレビ人たちの紛失もあります


さて、この系図の意味ですが、第二番目として、(2)イエス様が真の神であると同時に、真に人間である、という意味があるのであります。

(A)イエスとは、人間の名前であります。21節をお読みします。

マタイ1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

そして、当然といえば当然ですが、アブラハムの子孫・ダビデの子孫といわれているのは、人間であるという意味であります。

人間の世界に入ってこられたのがイエス様であります。アリの問題を本当に扱い解決するためには、人間のままでは本当に解決しません。アリになって、アリの世界と同じになってはじめて、アリの問題を解決し、アリの世界で通用するのであります。それも一つの罪のないものとしてであります。

マタイは、イエス様が人間の世界に入ってこられたことを、しかも罪の救い主として入ってこられたことを、子の系図で示しております。しかし、そのお方−イエス様−が神であられることも、すぐ後の記事で示しておられます。


(B)キリスト教の中心のテーマは、イエス・キリストがまことの神であり、かつまことの人間であるからこそ、救い主なのであります。 どちらかでも否定すると、救い主に成りえないのであり、異端であります。


さて、この系図の意味の3つめですが、(3)神様の祝福の流れ、であるといえましょう。

では、系図がなぜ重んじられるのでしょうか? それは、メシヤの流れに自分も入り、それによって神様の祝福の流れに入ると考えたからであります。なんとか、その祝福に預かりたいとの思いが強かったのであります。


では4つ目の意味ですが、それは、(4)思いがけない始まりと広がり、であります。

(A)この系図にはいっていいのだろうか?と思われるような人が系図の中にあります。

とくに、タメル、ラハブ、ウリヤの妻・バテシバであります。

道徳的にはどうかと思われるような婦人、思いもかけない人、思いがけない人も、神の祝福の流れに入るのであります。まさに、神様の驚くべきめぐみであるといえましょう。

(B)「系図」の本来の意味は、創世記第1章にあるように、「はじめ」、はじまりのことであります。

始まりは。、始まりで泡終わらず、広がりを示すものであります。

救いは、ユダヤ人だけに限らず、異邦人にも、男も女も例外ないのであります。

(C) ユダヤ人は拒否しましたが、異邦人が受け入れました。救いは、いつも思いがけないものであります。すなわち、

・思いがけない人、
・思いがけない方法、
・思いがけない内容

のことであります。

そして、誰でも例外なく、それも、「信仰」という条件を果たすならば、みな、神の祝福の系図、信仰の系図に加えられるのであります。

旧約聖書・マラキ書3章16節に、マラキ 3:16「そのとき、主を恐れるものたちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。」とあります。また、新約聖書・ヨハネの黙示録 22章11節にもあります。

黙示録 22:11 「不正を行なう者はますます父性を行い、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ないなさい。聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。

そして、この記事を書いたマタイ自身のあかしでもあります。


Message by Rev. Shoichiro Ikawa; Compiled and edit by Kenji Otsuka
Dec.6th,2000