礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年12月10日

クリスマス講壇(2)

「ベツレヘムから救い主が」

竿代 照夫 牧師

ミカ書 5章1〜9節

中心聖句

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

(2節)


はじめに

 アドベント第二の聖日を迎えました。今日はミカ書の5章、格別に第2節の聖言に焦点を合わせたいと思います。もう1度お読み致します。

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 今年は、キリストご降誕、2千年のお祝いの年であります。色々な特別な行事がなされていますけれど、世界の目がキリスト誕生の地、ベツレヘムに集まっています。

 ベツレヘムでは大きなお祝いが計画されておりました。大変残念なことでありますが、過去形であります。コンサートがアドベントの時に毎週持たれる予定でありました。あるいは、ロシアと米国から招待された聖歌隊もクリスマス・イブに公演をする予定でありました。また、多くの国々がクリスマス・イブの時にはベツレヘムで集会を開く予定でありました。しかし、それらは、全部キャンセルされてしまったと報道されています。

 ちょっとクリスチャン新聞の記事を読ませていただきます。

 「イスラエルとパレスチナ双方の衝突のため、ベツレヘムでの今年のクリスマス行事は行われそうにない。エルサレムから車でわずか10分のベツレヘムだが、現在そこに辿り着くのはそれほど簡単ではない。まず、西岸に入るための特別の許可証が必要になる。入ったとしても町のほとんどの土産物屋やレストランは店を閉じている。そしてベツレヘム市長でカトリック教会員のナッサーという人は、戦火がこの町におよぶことも十分あると考えている。町の中央の飼い葉桶広場はイスラム巡礼者の代わりに今はイスラム過激派の集会場としてよく使われている。ベツレヘムの近郊にある、夜を明かす羊飼いに天使がイエスの誕生を告げたベイトサフルの野は、今ではイスラエル軍などの攻撃によって破壊され、住居を失った家族の臨時宿泊所になっている。」

 大変残念なことですが、このような状況がベツレヘムの場所に展開されているわけであります。

 今日、私たちは、聖書をさかのぼって、クリスマス物語では欠けてはならない舞台となっておりますこのベツレヘムを、体をもって訪れることは出来ませんが、聖書の学びを通して訪れたいと導かれました。


1.クリスマスとベツレヘム

1−1.ルカの物語

 はじめに、ルカの物語に出てくるベツレヘムを見てみましょう。

@ヨセフとマリヤの旅

 住民登録によってヨセフとマリヤがわざわざナザレからベツレヘムに移ってその場所で主イエスを生んだ歴史的な背景が語られています。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよいう勅令が、皇帝アウグストから出た。

2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあった。

 この歴史を動かしたローマの初代皇帝アウグストについては、今日は詳しく述べません。ただ、神は預言の成就の為に、神を恐れない人物の心も動かしうるお方であるという一点を心に留めて頂きたいのです。

Aベツレヘムの郊外の羊飼いに天使が御告げ

 ベツレヘムの郊外で羊を飼っていた羊飼いに天使が御告げを与え、その羊飼いたちがベツレヘムの町に入って救い主を拝みました。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

1−2.マタイの物語

 次に、マタイの物語に出てくるベツレヘムを見てみます。

@東方の博士達の質問と答え

 ベツレヘムは、東方の博士達が聖書学者によって知らされたメシヤ誕生の起きるべき地でした。

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

A博士達の礼拝

 ベツレヘムは、博士達が行って救い主を拝んだ場所でした。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 この出来事はクリスマス生誕劇ではイエス誕生の夜に起きたこととして演じられますが、実際は違うようです。「幼子」「家」などの句が「飼い葉桶のみどりご」とは違いますし、星を見て旅行した博士の旅行時間や、次に述べる二才以下の幼児虐殺の事例から推察すると、誕生から数ヵ月は経った後のものと考えることが妥当でしょう。これにより、ヨセフ達はしばらくベツレヘムに滞在していたことが推察されます。

Bヘロデの幼児虐殺

 ベツレヘムは、ヘロデが幼児を虐殺した場所でした。

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

 その時にラケルの嘆きが再現したと18節に書いてありますが、そのラケル(イスラエル民族の父祖ヤコブの第一婦人)が死んだのは、何とそのベツレヘムだったのです(創世記35:19)。

 こう見て行くと、聖書とは何と面白い縦糸と横糸で織られたものすごいドラマであるかがお分かりでしょう。


2.ミカの預言とベツレヘム

 今度はミカの方に戻ってまいります。

2−1.ミカ

 ミカという人(預言者)は、女性ではありません。日本語では何となく女性のような気がしますが、男性です。紀元前8世紀に生きた人で、別名「貧しき大衆の預言者」と言われています。

 また、イザヤと同時代の人物で、北イスラエル王国の滅亡と南ユダ王国の衰退を目のあたりにした時代に、神の審判と希望とを語った人です。

2−2.ミカ書5章全体

 この5章は、当時の世界帝国であったアッシリヤとそれに続くバビロンによるイスラエル侵略とその中からの回復が預言されています。詳しい1句1句の解釈は非常に複雑な歴史知識を要することで、本日の説教においては、敢えて触れません。その回復を齎す人物が「イスラエルの支配者」(2節)「牧者」(4節)であって、メシアを指すものと考えられます。

2−3.メシアの特徴

 そのメシアの特徴は

 ・ ベツレヘムから出る
 ・ 神の為に働く
 ・ その出現は永遠の昔から定められている
 ・ 神の力とその権威で群れを飼う
 ・ 平和をもたらす
 ・ その威力は世界中に及ぶ

 何と素晴しいメシアの予言でありましょう。主イエスはこれらの要素を皆兼ね備えた御方として登場されました。今日はこの中で、特に「ベツレヘム」について考えてみたいと思います。

2−4.ベツレヘムについて

 このメシア像の中で、ミカだけの特徴は、その誕生地の予言です。そこで名指しをされているベツレヘムについて、少し歴史を遡って考えます。ベツレヘムとはパンの家という意味で、地味の肥えた穀倉地帯であったことが伺われます。

@ラケルの葬り

 さきほども述べましたが、これはラケル(ヤコブの第一婦人)の葬られた場所として覚えられていました。(紀元前1900年)

Aカナン占領時にユダ族に

 出エジプトの民がカナンを占領した時、ユダ族の一部となりました。只、ゼブルン族に割り当てられたベツレヘムしかヨシュア記には記されていません。ユダの中のベツレヘムは名前が記されていないほど重要性が薄かったのでしょう。(紀元前1400年)

B士師イブツアン

 士師の時代にイブツアンという男が7年間イスラエルを治めたという記事がありますが、その男の出身はベツレヘムでした(士師記12:9,10)。

C不法の祭司

 同じ時代ベツレヘム出身の若い男が金儲けの為に不法の道で祭司になった記事もあります(士師記17:7)。

D女性にまつわるスキャンダル

 もっと恥ずかしいのは、ベツレヘム出身の一人の女性が国中を騒がすスキャンダルの台本になったということです。士師記19章にはその詳しい物語がのっていますが、読んでいて赤面させられる程の不道徳、残虐、破廉恥な話です。ですから、ミカが名もない、小さな町ベツレヘムと言ったことには意味があるのです。

Eルツ物語

 幸いベツレヘムの名を回復したのはルツでした。神に対する信仰と互いの愛に包まれた美しい物語の舞台がこのベツレヘムでした(ルツ記1:1,2,19、4:11,17)。そしてそのルツがダビデ王の曾祖母になったのです(ルツ記 4:21,22)。(紀元前1200年)

Fダビデの誕生と羊飼い

 ダビデが生まれた(紀元前1000年)のは他ならぬベツレヘムにおいてでした(サムエル記第一16:1)。また、ダビデが飼っていたその野原で千年も後に天使が他ならぬ羊飼い達に現われたことも、歴史の偶然ではないでしょう。

Tサムエル 17:15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。

Gミカの預言とその期待

 ミカが行ったメシア誕生地の預言(紀元前700年)はイスラエル民族の中に脈々と受け継がれました。それが民族の期待の拠り所でもありました。ヨハネ7:42には「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」と人々が語った事が記されています。


3.私たちへのメッセージ

 さあ、ベツレヘム物語はこのぐらいにしておきまして、今日の締めくくりをしたいと思います。

 まず第1にこのミカ書の中から教訓として覚えさせていただきたいことは、「いと小さきものであるけれども、その中から救い主が出る」ということであります。

 もう1度、ミカ書に戻ります。

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

 救い主は政治の中心のエルサレムでもなく、その他の大都市でもなく、ユダ族の中でも取るに足らない、ヨシュア記の中でも名前すら落とされてしまったような小さな町から生まれて来られました。ここに私たちが第1に捉えさせていただきたいメッセージがあるように思います。

 私たち1人1人も取るに足らない者であるかも知れません。いと小さい者であるかも知れません。否、それであるからこそ、私たちを大切な者と思って、私たちに恵みを注いで下さるところのお方であることを覚えたいと思います。

 パウロは何と言ったでしょうか。「私はつき足らぬ者だ、使徒と呼ばるに足らない者だ、役に立たないどころか、害を与える者だ、しかし、神様はこのような者をもあわれんで下さって、これから後、イエス・キリストを信じる人々の模範となるように、私を救いに導いて下さったのだ」。この模範というのは、いい人物ということではなくて、「あんな人物でも神様はあわれんで下さるのか」という意味の模範であります。

 私たちの名前が主都中央教会の名簿から仮に間違って落とされ、誰も気が付かなくて、3年後くらいに「私の名前、どうなっているのでしょうか」「ああ、申し訳ありません、そう言えば・・」というような存在であったとしても、神様は私たち1人1人を大切な者と見なして下さる、主の大きな顧みをこの中に見出すことが出来ないでしょうか。これが、今日私たちが捉えたい第1のメッセージであります。


 第2に、似た様ですけど、ちょっと違うことは、「このベツレヘムが背負っていた過去の恥ずかしい歴史というもの、それらを神様は取り替えて栄光の場所へ変えて下さる」ということです。

 ベツレヘムの歴史は、士師記を見てみますと、取るに足らないどころか、恥ずかしい出来事の起きた場所として、人々の間に覚えられている場所でありました。しかし、主が生まれて下さったという出来事の故に、世界の人々が注目する、栄光のある場所に変えられた、これはすばらしい恵みであると思います。これは私たちに何かメッセージを語っていないでしょうか。

 1人1人の生涯を顧みてみる時、「ああ、こんなことは忘れてしまいたい、こんなことは思い出すだけでも顔が赤らんでしまうというような、どんなに恥ずかしい過去を私たちが背負っていたとしても、私たちの心に主イエス・キリスト様が生まれなさる時、ベツレヘムが恥から栄光へ変えられたように、私たちの生涯も変えられることを、物語っていないでしょうか。


 第3に、私たちが覚えさせていただきたいことは、「主の約束は必ず成就する」ということであります。

 ミカという人は「救い主は、ダビデの家系から生まれる、ベツレヘムで生まれる」という預言を致しました。ところがダビデの家系は捕囚という出来事によって、あちらこちらにバラバラになってしまったのです。しかし、それらを元に戻す特別な措置が取られたのです。それがローマの初代皇帝であるカイザル・アウグスト、先ほどルカの第2章で読みました。

 彼が全世界に対して住民登録をしなさいという命令を発しました。親切でやったのではありません。税金を取るため、また、徴兵のためだったのです。支配者の権力欲から発せられた住民登録でありました。みんな本籍地へ帰りなさい、という命令だったのです。

 その命令の故に、ガリラヤの北の方にいたマリヤとヨセフが、お腹が大きいのに、ベツレヘムへ行き、そこでイエス様が生まれました。

 皆さん、これは偶然だと思いますか。目的を成就しようという、大きな歴史の支配者としての神様の御手を、私たちは見ることが出来るのです。

 私たちの人生の中に困難や問題、課題が沢山出て来て、いったい神様の約束はどうなってしまったのだろう、と思わざるを得ないような、そんな状況に直面しておられる方があるかも知れません。けれども神は支配者であられます。歴史を動かして、その御業を成就される方であります。このベツレヘムの出来事はそのような意味において励ましを与えてくれるのです。


 どうぞ、この主をしっかりと信じて、人生の旅路を歩ませていただきましょう。また、このお方をまだ受け入れていないという方がありますならば、どうぞ、この2000年のクリスマスに、キリストはベツレヘムならぬ、私の心に、救い主として誕生して下さったという証が出来るクリスマスであっていただきたいと思うのです。

 これから歌います歌は、「ああベツレヘムよ」(402番)という歌ですけれど、最後の4節の歌詞の中に、「このベツレヘムのように、何の取柄もない汚れた私の心ですけれども、主よ、私の中に生まれて下さい」という祈りをもって締め括られている歌です。この歌を私たちの祈りとして讃美したいと思います。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2000.12.13