聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
中心聖句
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 (10節) |
始めに:
主の年2000年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。
今日は、ベツレヘムの野原で羊を飼っていた羊飼い達に与えられた主の使いのメッセージから「大きな喜びのおとずれ」についておはなしします。
A 物語の背景
キリスト誕生という驚くべきニュースを最初に受け取ったのは、世の指導者達ではなく、学識経験者でもなく、金持ちでもなく、貧しい、ペーターとかジョンといったような名前も残されていない、当時は卑しいとみなされていた羊飼い達でした。
何故そのような人達に、このように大切な知らせの第一声が与えられたのか、その答えは聖書の中には記されていません。
聖書学者達はいろいろと想像を働かせますので、その理由の一つとして、彼らは普通の羊飼いではなくて、エルサレムに生贄として捧げられるはずの羊達の見張りをしていた羊飼いだったので、子羊のように世の罪を担うためにやって来られる方に特別に宗教的な関心があったという説もありますが、やや想像のしすぎでしょう。
また、ダビデはこの同じ野原で羊を飼っていたことから、彼らはダビデの子孫で、ダビデのような心をもって羊を飼っていたからだと言う人もいます。しかし、そうした理由はすべて想像の域を越えません。
ただひとつ言えることは、彼らは名もない、しかし職務に忠実な人々であったということだけです。
その夜彼らが夜番をして羊を守っている間に、人口調査のために旅人としてベツレヘムに訪れていたマリヤに赤ちゃんが産まれました。その赤ちゃんは、どこの宿屋も満員で休むべき所もなく、動物小屋の飼い葉桶に寝かされていました。そのニュースは誰にも知らされてはおらず、この羊飼い達に天使が告知するという特別な方法が取られたわけです。
そのメッセージが10−12節です。
2:10 御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』
このメッセージのうち、10節の喜びに焦点を当てたいと思います。
新改訳聖書で「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」と訳されていますが、直訳すると「私はあなた方に、この民全体に至るはずの大きな喜びを宣べ伝えます。」となります。喜びについての知らせではなく、喜びそのものを伝達します、というのが天使のメッセージの趣旨です。
ではその喜びの知らせとは何でしょうか。
B.喜びの知らせ
1.恐れではなく喜び
天使は先ず「恐れてはいけない」とかたりました。それは、天使の出現によって、羊飼い達が非常に恐れた、と記されているからです。いつものように職務をはたしているときに、突然光が現れて、大勢の天使が目の前に現れたのですから無理もありません。それを見て取った天使は、「恐れることはない。喜びの知らせをもたらしたのだよ。」と彼等の心を静めました。
我々も多くの恐ろしいニュースを見て心騒がされた一年を送りました。不況は続き、世界情勢も不安材料を多く抱えたまま今を迎えています。中でも、青少年が多くの重大な犯罪を重ねたことが、大きなできごとであったように思われます。これは社会が病んでいることの一つの現れのように思われます。
私達も、このように多くの恐れ、不安、心配に囲まれて生活しているかもしれませんが、もう一度私達にはそれらを乗り越えることができる大きな「喜び」が与えられているという事実にしっかりと目を留めたいものです。
2.キリストを主題とする喜び
「私はあなた方に大きな喜びをもたらしました。」と天使が言っていますが、その喜びの中心は他ならないイエス・キリストというお方です。しかもそれは、突然の出来事ではなくて、旧約聖書が書かれた始めからなされた神の約束と預言の成就そのものだったのです。それは、預言されていた救い主、やがて皆の罪の身代わりとなって十字架にかかり、復活し、今なお皆の中に生きて語りかけなさる主イエス・キリストがお生まれになった喜びです。
今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。人々は、何か楽しみをもたらすできごと、イベントがあってはじめて喜びを感じることができるようです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないなどのような外側のものに喜びの基礎があるのなら、いつも上がったり下がったりしてしまうでしょう。
一方、キリストの与える喜びは、イエス様との関係(person oriented)であり、イエス様が私達を支えていて下さる、伴に生きて下さるという喜びです。それは、彼が永遠的なお方ですから、永続的なものであり、栄光に満ちた言い尽くし難い大きなものです。
3.全ての民に与えられる喜び
10節に「私はこの民全体のためのすばらしい喜びを(あなたがたに)知らせに来たのです。」とあります。キリストの与える喜びは、民の全てに至るはずのものでした。ここで、「この民」と言っているのは、直接的にはイスラエルの民のことを指しています。では、イスラエル人以外は除かれるのでしょうか?そうではありません。聖書には、救いはまずイスラエル人に入って、やがて異邦人にも及ぶと書かれています。
それでは、この最初のクリスマスを皆が喜んでお祝いしたのでしょうか。残念ながらそうではありませんでした。ヘロデやその取り巻きはキリストの出現に強力なライバルが現れたと思って、恐れまどいました。また、ユダヤ人の大部分の人は彼を受け付けず、彼を退けました。大祭司、パリサイ人等の宗教指導者は彼の出現に脅威と嫉妬を感じて十字架に付けました。全ての人に及ぶはずの喜びに、多くの人達が「いらないよ。」、”No, thank you.”と言って心を閉ざしてしまったのです。イエス様が目指した「魂の救い」や「罪の贖い」は人々の期待していたものではありませんでした。
しかし、全体から見るとほんの一部でしたが、心を開いてそれを素直に受け入れた人にとって、それは大きな喜びでした。この喜びは全ての人に及ぶべきものですが、そを感じるための、ただ一つの条件は私達が心の扉を開いて、その喜びを信じて受け入れスイッチを入れることです。そしてこの羊飼い達は、素直に信じて立ち上がり、捜しに行って、見たのです。この喜びのかたまりを自分のものにするかどうかは、皆さんにかかっているのです。
15節には、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」とあります。自分のものとして体験しようということです。
16節には、「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」とあります。夜ですし、誰も道を教えてくれないし、大変だったと思います。また20節には、「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあります。彼らがこのできごとを言い広め、ニュースが広く伝わったのです。
私達も主を礼拝し、体験し、受け入れ、主ご自身の、またこの喜びの伝達者となりたいものです。エンジェル(天使)とは、「述べ伝えるもの」という意味です。羽根は無くとも、頭の上に輪は無くても私達は皆天使なのです。
しめくくりに第1ペテロ1章の5節から9節をお読みしたいと思います。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
現実の生活の中では「クリスマスおめでとう。」といって素直に喜んではいられない状況におかれた方もあるかもしれません。健康や仕事の悩みをかかえておられる方がいらっしゃるでしょう。しかし、天使が伝えた大きな喜びを、ただのお話、自分と関係の無いものとして片付けないで下さい。
では厳しい試練に満ちた社会の中にあって、どうやったら喜ぶことができるのでしょうか。
ペテロがその秘訣を語っています。
6節に「あなたがたは大いに喜んでいます。」とあります。何故でしょうか。8節に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とあります。
ペテロが語りかけている相手は、第2世代のクリスチャン達です。ペテロは彼らに、「あなたがたは実際にイエス・キリストに会ったことは無いけれども、そのお方は、信ずるもの中に生きてはたらいて、魂の救いを与えてくださるではないか。イエス・キリストはあなた方の内に棲んで、はげましていて下さるではないか。私達に最高の救いの完成を用意していて下さる方ではないか。」と喜びの秘訣を語っています。
私達もクリスマスにあたって、イエス・キリストを信仰をもって受け入れ、喜びに満たされて新しい年を迎えようではありませんか
お祈り致します。
Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2000.12.28