礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2000年12月31日

「別の農夫たち」

井川 正一郎 牧師

マタイの福音書21章33−46節

中心聖句

41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

(41,43節)


始めに:

今日は20世紀最後の礼拝と言うことで、いつもと変わって聖書の歴史観について取り上げてみたいと思います。その上で新しい世紀を迎えるに当たり、時代や社会に対する正しい理解と、お互いの日常の営みとの関わりについてお話しいたしたいと導かれております。

先日、21世紀を迎えるに当たって何か良い書物を紹介して欲しいという依頼を受けました。そこで、一般の本ではありますが、堺屋太一氏の著書である「知価革命」と言う本を取り上げました。堺屋太一氏は、通産相官僚時代には万国博覧会などの企画に携わった方で、皆さんもご存じの通り最近まで経済企画庁長官として活躍された作家であります。

念のために申しておきますと、私は堺屋氏個人には特段何の感情を持っているわけではありませんし、氏の意見とは個人的に異なる見解を持っております。

しかし、この本に書かれている時代展望について、我々にも興味を持ってみることのできる内容があったので、ご紹介する次第です。

その内容を一言でまとめると、21世紀には知恵による価値が大きな比重を占める「知価社会」が到来するというものです。それが具体的に何を示すかは、ここで詳しく語るつもりはありません。

私が関心を持った点は、そのような次の時代が来ると氏が断言した理由です。その理由として、氏の歴史観が述べられておりました。

氏によれば、古代から現代にかけて、物財による幸福から知恵による価値を得る幸福に時代の流れがシフトしてきていると言うことです。むろんこの本に書かれていることを読むまでもなく、私たちも日常生活の中で何か世の中が大きく変わりつつあるのを実感しているお互いなのではないでしょうか?

では、さっそく聖書の歴史観にどのように触れるかについて、学んでみたいと思います。


1) 歴史の捉え方(教会歴史の理解方法)

歴史という言葉は英語ではhistoryと言います。このhistoryはHis story、すなわち 神様の物語と言う意味を持った言葉です。神様の物語とはではいったい何を指すのでしょう。

神の救済史(レムナントの歴史色)

聖書的理解によれば歴史とは、神による人間救済の歴史であります。それはまた、レムナント=「残りの者」の歴史でもあります。

より具体的にまとめてみますと、以下の三つの内容になります。

神を心から信じ、忠実にその生涯かけて従っていく者が残される歴史。

神の罪人に対する贖罪計画の遂行史。

それを人間側から見れば、罪の繰り返しの歴史であり、神に反逆しそれていく歴史。(下図参照)

一般的歴史観=波動史観

ここで、聖書的歴史観以外の一般的歴史観についても見ておきましょう。いろいろな歴史観がありますが、最も広く受け入れられているものの一つに波動史観と言うものがあります。これは、歴史は波のように動いていくものであるとする説です。

ある原因で物事が生じると、それは形成され、成長し、ある時波は頂点に達する。しかしそれは次第に衰えていく。そして次の新しい波がまたやって来る

というものです。(下図参照)

波動史観は日本では石井良助と言う人が唱えております。ちなみにこの先生は私の大学時代の先生の一人で、竿代主牧も大学時代には講義を受けたそうです。この人は別名「石井良付け」ともよばれておりました。なぜかと言いますと、この先生はなかなか優をつけてくれず、せいぜい良しかつけてくれなかったからです。(編者注:井川師、主牧はいずれも東大法学部卒)

波動史観は広く通説として受け入れられている反面、反対意見も多く存在しますが、しかしそれを越える通説というものもないと言えます。

種々の歴史観(歴史を捉える視点)

歴史というものは、それを捉える視点が異なりますと、全く異なる理解に導かれるものです。例えば宗教改革についてみてみましょう(「教会史」ケアンズによる)。

a)プロテスタントの視点:初代教会のスピリットへの復帰

b)カトリック側:ルターの結婚したいという不純な動機に基づく異端的働き

c)マルクスによる経済決定論・唯物史観:ローマ教皇が教皇制の物質上の福利のために、ドイツを経済的に搾取しようとの試みが産んだ帰結

このように、同じ歴史的自称も、その捉える視点によって全く異なるものとなってしまうわけです。

我々の持つべき視点

ですから、我々は信仰者として神の側に立ってしっかりと歴史を捉える必要があります。それは先ほども言いましたが、レムナントの歴史と言う聖書に基づいた視点です。

さらに言うならば、神の救済史・レムナントの歴史と言う視点に加え、波動史観を上手にミックスした形で歴史を理解すると良いでしょう。なぜならば、レムナントの歴史は、人間による罪の繰り返しの歴史でもあるからです。(下図参照)

(以下図の説明・編者による多くの補足を含むことに注意)

古代はユダヤ人・ローマ人・ギリシャ人などによって作られてきた時代であり、初代教会の時代でもありました。

その後北方ヨーロッパからゲルマン民族の大移動が起こり、古代ローマ文明が衰退します。このゲルマン民族がなぜこの時代に南下してきたかと言う問題には諸説がありますが、聖書的に見るならば古代ローマ教会の活動に疲弊と腐敗があり、それに対する神の審判が起きたと見ることもできるでしょう。

ゲルマン民族の大移動とともに、中世の時代を迎えます。この時代にキリスト教はゲルマン民族文化の影響を受け、中世期のキリスト教会が形成されます。

その後、イスラム教との対峙から十字軍の派遣を経て、イスラム文化の影響がもたらされ、航海術などの発展や異文化交流が活発化します。これによる経済活性化・文化革新がルネサンス活動に結びつきます。

同時期にコロンブスによる新大陸の発見がなされ、これを契機に大航海時代が始まります。多くの人や情報・物資の移動が盛んになり、新しい倫理観・文化体制が生まれます。

しかしこれと同時にローマン・カトリック教会の腐敗も生じ、これに対してスイスやドイツで宗教改革が行われ、プロテスタント教会が誕生します。この宗教改革に対し、スペインではイエズス会が結成され、世界各地に宣教師が送り込まれました。

宗教改革後、ローマン・カトリック教会から英国国教会を分離した英国では、ピューリタン革命による共和制の登場とその後の立憲君主制の確立を経つつ植民地拡大政策を図がられ、大英帝国の素地が形成されました。

1620年にはイギリスの宗教弾圧を避けるためにメイ・フラワー号に乗った一部のピューリタンアメリカに移住し、1775年には英国本国に対して独立戦争を起こし、アメリカ合衆国が誕生します。

また、この当時の英国の主要輸出品は繊維製品であり、これらの製品の大量生産が必要になりました。そのため、問屋制手工業やマニュファクチュア(工場制手工業)から脱皮して、大規模な工場制生産が行われるようになり、その要請に応えるような形で産業革命が起こりました。

フランスでは1789年ブルボン王朝の専制支配下における社会矛盾に対して民衆がフランス革命を起こし、以降フランス・キリスト教会の影響力は弱体化し、この影響は多くのヨーロッパ大陸諸国に伝播していきます。(編者はフランス革命を起点とする大陸諸国における信仰弱体化が、後の実存主義アンチキリストマルクス的唯物史観の土台となったと捉える)

同時期にイギリスにおける退廃した社会のなかで、ジョン・ウェスレーによる信仰覚醒運動が行われ、メソジスト教会が誕生しました。これによる新たな社会倫理の確立は、近代資本主義の土台となり、英国はまさに絶頂を迎えます。

ピューリタン的倫理観・厳格な信仰と民主主義・資本主義を基盤とするアメリカ合衆国も、南北戦争を経ながら拡大・発展していきます。

19世紀には蒸気機関を使った鉄道や自動車の発明もあり、人口や物資の大量移動の基盤が形成され、資本主義の発展が行われるとともに、最後の植民地拡大時代を迎えます。この時開国を迫られたのが日本です。

19世紀後半に活発化したヨーロッパ各国の植民地拡大政策も、20世紀初頭には峠を迎え、ついには植民地権益の争奪戦が列強間で繰り広げられました。この過程で、開国した日本もロシアと日露戦争を行い、この時のロシアの敗戦が一つの契機となって第一次ロシア革命が起こります。

さらに、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発し、これが契機となって第二次ロシア革命が起こり、共産主義国家ソビエトが誕生します。また、第一次世界大戦では航空機や通信技術の革新的発展が推進され、産業構造も一変し始めます。

第一次世界大戦で経済的な繁栄を見たアメリカ合衆国は、その後第二次世界大戦を経て、さらに強大化しました。一方イギリスは両大戦で国力を消耗し、また植民地を失って、長期衰退に入りました。

キリスト教会を完全に否定することによって発生したソビエトは、共産主義によりアメリカに対峙し得る唯一の超大国になりました。そして数十年の間、核兵器力の均衡に基づく冷戦が続くことになります。

ところが1990年代になるとソビエトも自己崩壊し、いわゆるポスト冷戦時代の現在の時代に入るわけです。

このように見ていただくと、ある文明・国家の繁栄・発展が、ある意味その時代時代に神に最も用いられている教会活動に反映されていることが判ります。近代国家の発展と衰退の歴史は、教会史と無関係ではないわけです。これはある意味で、レムナントの歴史ということができましょう。

現在は、ここに書かれているように、波動の谷に位置していると思われますが、新たなキリスト教会のパラダイムが形成されるかについては残念ながらまだはっきりいたしません。しかし、現在が何かが生まれつつある重要な時期にさしかかっている可能性は高いと思います。


2) 次なる時代・社会(文明・文化)への移行に関する理解

このような新しい時代展開が迫っているときに、私たちに必要とされることは、何を指標にしたら次の時代の到来を認知・理解できるかと言うことです。

堺屋氏によりますと、現状の学問の成果として、次なる時代・社会への移行となる分岐点・指標は、「人々の美意識と倫理観(価値観)の変化」にあるというものです。

たとえば、古代は「物財の豊富さに幸せを感じる美意識とその実現を可能とすることを正義と信じる価値観に基づく社会で、それは...ーこれは近代・現代に非常に近い意識と価値観。それに対し中世は物財をたくさん持つことに関心が薄い時代であった...」と堺屋氏は述べております。

人間の価値観はそれこそ千差万別であり、これをそのまま歴史転換の指標にするという考えは、若干理解しがたい面があります。しかし、その価値観の変化を与える諸要素は大体は意見が一致するところではないでしょうか?

その諸要素には次のようなものがあります。

a) 衣食住などの生活・生命の維持のために不可欠となる土地

b) エネルギー資源ー森林・石炭・石油など

c) 技術・生産手段(道具):人間自体が労働力の時代から機械が生産(労働)手段となる時代へ(堺屋氏は、次なる時代は「高度な技術を持つ人間自体が生産手段となる『高度な中世的社会になる』という。これは本当かどうかは判りません。)

d) 人口(民族)大移動、人口の増減:これは、土地や食料の分配などに大きな響を持つ要素です(ゲルマン民族の大移動などの例)。また人間が動くと言うことは、違った価値観や文化の移入、情報の交換をともない、これに応じて社会が揺れ動く原因になります。

そして信仰者はこれとともに(否これだけでも)、心の問題が加わります。神と人の正しい関係=保たれるか、捨てられるか=諸要素と言うよりも、指標と言うべきものですが、これこそ信仰者にとって重要な指標と言うべきものでありましょう。

今日の聖書の箇所にある主イエスのたとえ話は、神から遣わされた預言者を繰り返し拒む人類の罪の歴史を暗示しております。

このように人々の心が神の方向からずれていくとき、もはやそれらの人間はレムナントの道上にはなく、それていってしまっており、やがて主の恵みであるぶどう園は、他の民に委ねられ、次の時代に移行していくことになるのです。


3) 次なる時代・社会の到来はあるのか否か

マタイ24章5-13説を見てみますと、主イエスによって世の終わりの時のしるしが描かれております。それらを整理してみますと、次の7つになります。

1.自然界の諸混乱・政治的激変・社会的崩壊

2.福音の宣伝が全世界的に展開している

3.多くの偽預言者の登場、不法の増大(「愛の冷化」と私は呼んでいます)

4.人々の激しい往来・人口大移動

5.患難の到来

6.偽キリスト・不法の人

7.日常の営みの中で突然に(ある特定の日に終末が訪れるという特定預言は100%まちがい)


まとめ

21節に戻りましょう。このぶどう園の話しは、神の監督下にある歴史の流れの喩えと捉えられます。主はある時代、特定の神の民にぶどう園を委せられ、その運営をじっと見守っておられます。レムナントはそれを守り続けますが、それていく者たちは神から見限られ、新しい民にそのぶどう園は渡されていくのです。

最後に、今日のまとめをしてみたいと思います。私たちは以下の点をしっかりと認識するべきであると、導かれております。

1.現状の認識:今の社会を正しく認識することです。今の世は正しいものはますます正しく、悪いものはますます悪くなる世の中ですが、これはまさに時代・社会が変わる大きな節目を迎えているからです。このことをまずしっかり認識しましょう。

2.特権と責任の認識:神様から恵みを頂くことの特権とそれに伴う責任をしっかりと認識することです。ぶどう園の喩えで言いますと、農園は農夫の所有物ではなく、神の所有物です。農夫はそれを特権的に任されている管理人なのです。管理人はこの特権を有するゆえに、また農園をしっかりと管理し、産物を決まった時期に収めるという責任も持っています。この立場をしっかりと捉えることが大切です。

3.神の期待の認識:前主牧であった蔦田真実先生が良く礼拝で二雄先生の言葉を引用していたことを思い出します。それは「後に生まれるほど良いぞ」というものです。後に生まれるものとはある意味、新たに農園を任される「別の民」のことを意味します。「良い」というのは、後の代ほど神様の期待が大きいと言うことを意味しております。

従ってこの期待に反するようであってはなりません。期待に反すれば、また次の者に農園は渡されることになり、レムナントとはなれないのです。

4.条件の認識:別の農夫が次にぶどう園を任されるためには、神の国の法則に従って管理を行い、決まった時期に期待される収穫を収める必要があります。

結果オーライというのではなく、それに至るプロセスも大変重要になってきます。このためには我々は礼拝出席やディボーション、日々の聖書の学びなどの恩寵の手段を有効に活用することが大切です。これからはずれる者は、エステル記の例のように容赦なくはずされていきます

5.As usual:これは以上のことをいつものように、日常的に進めていく姿勢を示しております。社会的な関心を持ちつつ、健全なバランスを持って、現在の延長線上をあくまで進む、そのような生活がレムナントの歴史を作っていくのです。このためには、自分たちは単なる管理人であるというへりくだりや謙遜も必要になります。また、聖言という法則に則っていくことも大切でしょう。

このような認識を持って新しい世紀、「別の民」=レムナントとしての自覚を持って進む我々とならせていただきましょう。

お祈りいたします。


Written by S. Ikawa and Edited by K. Ohta on Jan.2, 2001