礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年1月7日

年頭講壇

「キリストの留る生涯」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書15章1−16節

中心聖句

4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

(4節)


始めに:

 新しい世紀に入りました。この世紀がどんな特色を持った時代になるかについては、色々な場所で語られておりますので、今日はそのことについては敢えて踏み込みません。ただ、科学技術の進歩の速度がどんどん早くなって、私達の生活がついていけなくなる程次々と新しいしくみが考え出されて、今私達が予測も出来ないような社会が出現するであろうということです。

 今までドッグイヤーなどという表現で変化の早さを表わしていました。それは、犬は1年で人間の7年分の年をとるそうですが、20世紀の終わりごろの時代は、犬が成長するように1年間で7年分の変化が起こったことを現しています。今はマウスイヤー(二十日鼠の様な速度で社会が動いていく)といわねばならなくなっているそうです。そのうち、さらにそれでも間に合わなくなってバクテリアイヤーなどということになるのでしょうか。

 このような激変している時代にあって、いやそれだからこそ尚、変わらない御方である、キリストに留まるということの大切さを益々感じる今日このごろです。

 この15章には留まるという言葉が11回もでてきます。まずは、こここでイエス様が「留まる」とおっしゃられた背景から見てみたいと思います。ヨハネ14−16章はイエス・キリストが十字架に架けられる前の告別説教です。

 今ナザレ会の人達が教会のホームページに毎聖日の説教ノートを掲載していますが、説教を再現するのはなかなか大変なことです。ヨハネはどうやってこの長い説教を覚えていて記録することができたのでしょうか。いよいよこれが最期ということで、語る側にも力が込もり、聞く側も心を込めて聞いたのではないでしょうか。

 このとき弟子達の心は揺れ動いていました。先生がいなくなってしまうらしい。しかも貴方達のうちの誰かが私を売ると、そして貴方達は私については来られないと予言され、…。そんな弟子達にとって「留まりなさい。」というのは大事なメッセージでした。

 ところで、これからいなくなるイエス・キリストに留まりなさいとは一見すると矛盾したメッセージのように思われます。しかし、イエス様は、私はいなくなるが代わりに助け主である聖霊をつかわすと言っておられます。つまり、「留まる」とは聖霊を通して主イエス・キリストに留まることを意味しています。

 今日は「留まる」とはどういうことか、3つの角度、つまりその大切さ、内容、留まった結果についてお話したいと思います。 


A その大切さ

 まずは、留まることの大切さについてです。

1.留まらないと・・・ 

a. 実を結ぶことができない(4節)

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 枝だけで木についていなければ実を結ぶことができないのは植物の道理です。

b. 何もできない(5節)

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 何もできないということはないのではないかとお思いになるかもしれませんが、ここでイエス様が言われているのは、永遠に残るような価値のある生涯を送ることはいっさいできないという意味です。

c. 捨てられる(6節)

15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

 美しい枝であれば生け花の材料などに用いる事もできるでしょうが、ぶどうの枝は実を結ぶというただひつつの目的以外には何の価値もないので、枝から離れて実を結べなくなったら捨てられてしまいます。これは永遠の裁きを描写しているものと思われます。

2.留まれば・・・

a. キリストも留まりなさる(4節)

 私達が留まるとき、一方通行ではない、神との生きた交流が生まれるのです。

 ヨハネの黙示録3:20には次のように記されています。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 「わたしが彼とともに食事をする」のと「彼がわたしとともに食事をする」のは同じ事なのですが、わざわざ繰り返されているところに親しい交わりが表現されています。恐れ多い言い方かもしれませんが、神様も私達とも交わりを通して喜ばれるのです。

b. より多くの実を結ぶ(5節)

 より多くの実とは、キリストらしい品性と、それを持った人々を再生産する伝道の実のことです。

c. 求めるものが与えられる(7節)

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

 この7節の前半をすっとばして、後半だけを都合よく解釈している人がいます。それでは神社でお祈りをするのと同じになってしまいます。

 このお正月に私は浅草に見学に行ってまいりました。お参りではありません。そこでは、お祈りの課題を受け付けておりました。多いのは「家内安全」、「商売繁盛」、「交通安全」、「受験合格」、「良縁に恵まれますよう」などでした。そこには大きなお賽銭箱が用意されており、皆一生懸命お祈りして、お賽銭を投げ入れていました。ある人は千円、ある人はたったの十円…(笑)。

 日本人の宗教観では、神様とは願い事を何でも都合よく聞き入れてくださる神様です。何でもはいはいと言うことをきいてくれる父親を、お砂糖のように甘いという意味で、シュガーダディと呼ぶそうですが、残念ながらイエス・キリストはシュガーダディではありません。

 願いがかなえられるためには一つ条件があります。それは「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」とありますように、イエス様の語った言葉を学び、神様が何を願っておられるかその御心を学んで、それが自分の願いとなることです。

 そうすれば自然とお祈りする内容も神の御心から離れたものになるはずがありません。「あの人が不幸になりますように。」と言った願いは出てくるはずがないのです。

 神の願いと私達の願いとがほとんど一致するまで、御言葉の中に留まり続けることが大切です。 


B.留まるとは

 イエスと伴に生きた弟子達は、目に見えるイエス様について行けば良かったのですが、私達のように目に見えるイエス様がそばにいらっしゃらないときに「留まる」にはどうしたら良いのでしょうか。

1.外側の結びつきではない

 それは組織的なつながりのことではありません。教会のメンバーであり、集会に出ているからつながっているとは言えないのです。体がここにあっても心はここにないかもしれません。

 外側の結びつきは、確かに大切なものです。しかしそれはイエス様とのつながりを補強するものではあっても、保証するものではないのです。

2.接がれる必要がある

 イエス様に留まる第1のプロセスとして、接木のようにキリストに接がれる必要があるということです。生まれながらにしてつながっている人はいません。

 エペソ2:1〜3には次のように書かれています。

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 「死んでいた」とは神との断絶を表しています。また、「世の流れに従い、」とは、神様という絶対的な基準がないために、皆がやっているから、というのが行動の基準になっていることを示しています。

 日本の宗教観の欠点は絶対者である神へのおそれが乏しい事です。八百万(やおよろず)の神々は都合の良い時の神頼みだけに出てきます。後を絶たない汚職事件は、うまく嘘をついてごまかせば済むという考えに端を発していますが、皆根は同じです。生ける神をおそれ、それに従うという態度が乏しいのです。

 「自分の肉の欲の中に生き」とは、欲望のままにやりたいことをやるということです。

 このようなキリストに接がれる前の過去の姿を正しく理解し、きちんと断絶する必要があります。そのためにキリストに接木をされる必要があるのです。

 エペソの続きを読むと、8節に以下のように書かれています。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 私達にあるのは信仰のみであって、自分自身の正しさといったとりえは何も持っていないのです。

3.内容的に言えば

a. 信仰に留まる(4節)

 留まる(ギリシャ語でメノー)とは、文字どおり一箇所に居続けることです。キリストを受け入れたその信仰を継続することです。

 私の救いは本当だったのかと疑い、自分自身の力量、才能、自信、知恵などにより頼んで生活してはいませんか。日曜日に教会に来た時だけイエス様により頼み、月曜日から土曜日の間は自分の力だけに頼んで生活し、というように行ったり来たりしてはいませんか。

 そのような落ち着かない環境では植物もうまく育ちません。私は植物が好きで、特に宣教師時代ケニアにいたころには、ブーゲンビリアの花を集めて育てたものです。道路沿いの庭先にその美しい花をみつけると車を止めて、その家の人に話しかけて、「お宅の庭きれいですね。」「美しい花ですね。」と盛んに誉めておき、ころあいを見て「ところで、」と切りだし、(これがポイントです)「枝を一本とっても良いですか。」とお願いしていただいた枝を挿し木したものです。その花色はピンク、白、紫、ピンク、オレンジ、青、ゴールドなど15種類も集めました。挿し木した根にとって大切なのはその状態をそっとしておくことです。どの位髭根が出たかを確かめる為に、しょっちゅう抜いたり挿したりしていたのでは枯れてしまいます。

 同じように私達も信仰と不信仰の間を行ったり来たりしていたのでは、実を結ぶことができません。

 信仰に留まるとは、歯をくいしばって、満員電車から振り落とされないように必死にしがみつくようなものではありません。謙虚に自分自信の無力さを認めて、自然体でイエス様にゆだねることです。それは異様な心の持ち方ではなく、自然な心の在り方なのです。

 そして、問題があったとしても移らずに留まる事です。

b. 聖言に留まる(7節)

 7節に、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」とありますが、御言葉に心を向け、イエス様が何を望んでおられるかを理解することです。そしてそれをさせてくれるのが聖霊の働きです。

 毎日御言葉を学び、養われ、聖書の思想が自分のものとなるまで咀嚼することが大切です。

c. 愛に留まる(9節)

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 10節に愛に留まるための条件は「戒めを守ること」とありますが、それは様々な規則をきちんと守ることではありません。イエス様は「互いに愛し合うこと」だけがただひとつの戒めだと述べられています。何と素晴らしく、また簡単なことではないでしょうか。

 まずは教会内で互いに愛し合いましょう。そしてそれは外にも広がっていくものです。アンドリュー・マーレーという人は「キリストに留まりなさい」という本の中で、「互いの愛を学ぶのが教会という学校である。」と述べています。

 先日フリーメソジストの大会で、アンドリュー・マーレーの言葉を引用して、「不快に思う人をも愛することができるかどうか愛のテストである」と述べましたところ、野田先生が終わってから、「いつも主都中央教会でこういう話し方をされるのですか?」と質問されました。大先輩ですし、大変含みのある言い方なのでドキッとしました。続けて「先生は『不愉快に思ってさえもいけない。』とは説かれないのですか?」と質問されましたので、私は「人間なので不愉快に思うことはありえます。」と答えましたところ、「安心しました。」とおっしゃられました。

 不愉快に思うことさえも無いというのは非現実的です。当然馬が合わない人もいるでしょう。それでいいのです。しかし、それでも、主イエス様が与えて下さる愛によって、愛し合うのが教会であり、それがキリストの教えです。

C.留まる結果

では留まった結果どんな実を結ぶのでしょうか?

 残念ながら時間が迫ってまいりましたので、この続きは来週にしたいと思います。

 いいところで来週になってしまい、まるでテレビドラマのようになってしまいました。どうかお許しいただいて、来週を楽しみにしていただきたいと思います。

 私達は実を求めがちでありますが、その前にイエス様とどんな関係でつながっているかを絶えず吟味して求めつつ、この一年間勝利をもって歩ませていただきたいと思います。

お祈り致します。

 


Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on 2001.1.12