礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年1月14日

「多くの実を結ぶ生涯」

竿代 照夫 牧師

ヨハネの福音書15章1−16節

中心聖句

16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる ためです。

(16節)


始めに:

1.昨週は年頭に当たって「キリストに留まること」、言い替えれば私達とキリストとの関係、生きた交わりの大切さをヨハネ15章、特に4節から学びました。そしてキリストに留まることが、実を結ぶ必要不可欠な条件であることも学びました。

2.今日は、もう一歩進んで、実を結ぶとは一体何を意味するのかその為に私達が何をすべきかを冒頭の16節に焦点を当てて学びます。

3.この節に記されている4つの言葉に焦点を当てたいと思います。


I選び

1.「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・ ・・」という言葉は、私達の信仰生活を見る見方に革命を与えるものです。

つまり、 私達は自分の信仰生活は自分の必要から始まったと考えがちですが、そうではなく、キリストが私達を選び、召して、遣わして下さった、つまり、キリストが主導権をもって私達の信仰生活は始まったのだという事をこの言葉は教えます。

私達がキリストをどうしても必要としている、つまり、キリストを離れては何事も出来ないという事は一方の真理です。同時に、キリストも私達を必要としておられる、つまり、実の結ぶためには(幹だけでは無理で)枝を必要としておられるということも真理です。

神であるキリストが私達を頼りとしていて下さるという事実は、私達の心に大きな衝撃を与えるものでなくて何でしょう。神は取るに足らない、虫に等しいようなこの私をも必要としていて下さる、何という光栄でありましょうか。

2.主がここで言われた背景には、ユダヤにおいては、弟子が教師を選ぶという風習がありました。サウロはガマリエルをラビとして選び、弟子入りしました。ヨハネや ヤコブはバプテスマのヨハネを先生と選んで弟子入りしました。その伝で、彼等も主イエスを教師として選んだと思っていたのかも知れません。

主は、それは違う、あな たがたではなく私が選んだのだ、と選んだ主導権を強調しておられます。実際この 「あなたがたではなく」という言葉は非常に強い言葉です。私がと言う言葉も「エゴ ー」と言う言葉を挿入するほどの強さで強調しておられます。

3.この言葉をもって、神は、ある人間を無条件で救いの為に選び、他の人を滅びに選びなさったという教理の根拠にするのは行き過ぎでしょう。そうではなくて主は、救いも含む私達の人生全部は、神の意思、神の目的、神の動きというものから始まったと強調しておられるのです。

4.私達はしばしば、私が私の目的や利益の為にキリストを選んだのだと勘違いして いることがあります。

それもきっかけとしては事実であるかもしれません。私達がキ リストをある人生の挫折や渇きや苦悩を通して求めた、つまり、私がキリストを必要 とした、ということは真理の半面にしか過ぎません。

もっと大きな半面は、キリストが私達を必要としておられた、という事実です。

この思想は私達の想像を絶するものです。なぜなら、私達は弱く、醜く、乏しかったからです。野球で言えばドラフトの候補にも挙がらない程役に立たないものでした。

でもこんな私を、主は「私の国の建設の為に必要だ」とおっしゃっておられるのです。その目的は実を結ぶことです。何と素晴しい、なんと光栄に満ちた思想ではないでしょうか。

イザヤ書の43章を引用します。4節には

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛して いる。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにす るのだ。」

とあり、7節には

「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

とあります。ここにおられる全ての人々は神の目に尊く、神の栄光を顕わすために神が心を込めて造られたのです。工場で大量に規格品として生産されたのではなく、皆異なるものとして、個性のあるものとしてお造りになったのです。その意味と重さを充分に自覚したいものです。


II 任命

1.「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」とありますが、 任命した、という言葉は文字通り(ギリシャ語のティセーミ)では「置く」という意味です。

この場合は「ある働きの為にその職に任じる」といった意味が籠められています。ただ、この文章では「何の職に」という言葉が欠けていて、ちょっと説明不十分のように見えます。しかしこの文脈では12弟子に語っておられるのですから、 「使徒として」という言葉は当然の了解事項として入っているように思います。

2.主は私達を選んで下さるだけではなく、働きの為に任命して下さるお方です。

私達みんなが使徒であるということはないでしょう。しかし、それぞれにふさわしい仕事や立場の分担が与えられています

エペソ4:11には

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師とし て、お立てになったのです。」

とキリストがその主導権をもって私達を教会の中の適 切な場所に填めて下さることが記されています。「私達は使徒でも預言者でも伝道者でも牧師でも教師でもない。」と失望しないでください

エペソ4章は「聖霊の賜 物」の完全なリストではなく、その他の新約聖書に照らし合わせると、この他にも多くの賜物があることが分かります。

3.要は、私達が自分に与えられた賜物を見つけ、それを最大限に活かす生き方をすることなのです。

同じエペソの2:10には

「私たちは神の作品であって、良い行な いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行な いに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

と記さ れています。

私達一人一人が私達の為に神が「あらかじめ備えてくださった」良い行いを見い出し、遂行するものでありたいと思います。

東大の総長を務めた矢内原氏 が、その最後の講演で「選び取ったものとしての人生でなく、選ばれた人生を歩みなさい。」と語られた事を思い出します。

自分が何をしたいかではなく、神が自分を通 して何をなさりたいのかを、良く静まり確かめて、その道を曲がらずに進んで頂きたいのです。


III 結実

1.「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり ・・・」

と主は結実こそが私達の人生の目的であると語られました。

この16節の文脈では、私達の奉仕を通して多くの救われる魂が興ることが強調されていますが、ヨハネそして新約聖書15章全体から見ると、結実とはもっと広い概念のようです。

2.結実とは、ある木の持っている性質が目に見える形で現われる事です。

マタイ 7:6には

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、 いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」

という自明の真理が語られています。

1)その内の一つの実は「悔い改めの実」と呼ばれるものです。

マタイ3:8には

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」

心の悔い改めが真実であっ たならば、それにふさわしい行動が出てくるはずだ、とヨハネが言っているのです。その行動とは、税金取りが不正な利を貪らなくなること、兵士がその権力を乱用して 民を苛めなくなること等です。

私達も悔い改めが徹底しているのでしたら、それにふ さわしい行動が、クリスチャンになる前とは違った生活態度、習慣、行い、言葉遣いという形で出てくる筈です。もしそうした変化が一向に認められないとすれば、悔い改めが本物であったかどうかをもう一度吟味しなければなりません。

2)もう一つの実は「品性の実」です。

幹であるキリストの品性が枝である私達クリ スチャンの品性として移し替えられていくこと、これがクリスチャン生活の最大の目標ではないでしょうか。

ローマ6:22 

「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷とな り、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」

ガラテヤ 5:22ー23

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔 和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

エペソ5:9

「光の結ぶ 実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」ピリピ1:11「イエス・キリストによっ て与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますよ うに。」

ヤコブ3:17

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛 容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけの ないものです。」

正にこれらはキリストの性質のリプロダクション(再生産)です。

これらが結ばれていくことを私達の信仰生活の最大の目標としようではありませんか。逆なりに言えば、信仰生活がどんなに長くても、一向にキリストらしさが身についてこないとすれば、何かがおかしいのです。

ペテロは

「これら(信仰、徳、自 制、知識等)があなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私た ちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になるこ とはありません。」

(2ペテロ1:8)と警告しています。

ヨハネ15章の2ー8までに 記されている「実」は主としてこのような内的な実を指していると考えられます。

3)もう一種類の実は「伝道の実」です。

私達の証しや伝道の働きを通して主に導かれる人々のことです。

これについては、パウロが

「あなたがたは、主にあって私の働 きの実ではありませんか。」(1コリント9:1)

とコリント教会の人々に語っています。[ピリピ1:22,ローマ1:13でも同様な表現があります。]

伝道の実は品性の実と別々なものではなく、双方ともキリストらしさが焦点です。キリストらしい品性が私達 の内側に再生産されること、それが聖霊の実であり、それが外側に再生産されるのが伝道の実といえましょう。

勿論私達がキリストのコピー人間になることでもないし、私達のクローンを外に作り出すことでもありません。個性の違いを十分保ちつつも、内側のエンジン、動力は同じなのです。

特に私達が継承した罪の性質から切り離されて、聖霊による新しい命に生きるという点が共通項なのです。昨年の働きを振り返って、私達の教会の目に見える結実は決して大きいとは言えません。

私達は主の憐れみを乞い、この年多くの実を期待したいと思います。勿論外に現われる結果で不必要に一喜一憂すべきではありませんが、主のご警告には真摯に反省をし、新たな助けを頂きつつ今年の働きに臨みたいと思います。


IV. 行くこと

1.結実を齎すためには、「行かねば」なりません。

この文章では、主が弟子達に、その小さな共同体の中に閉じこもっていないで、外に果敢に出ていきなさい、と励ましておられます。

15章前半では「留まる」事の大切さを学びました。留まることはクリスチャン生活の静かな一面です。これを忘れてはいけませんが、留まるばっかりでもいけません。留まるという営みを基礎にしつつではありますが、行く必要があります

主イエスは朝早くデボーションを持っておられたとき、「人々があなたを求めています。」という声を聞かれました。

その時すぐに立ち上がって

「(さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスをを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜して おります。」と言った。イエスは彼らに言われた。)「さあ、近くの別の村里へ行こ う。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

(マル コ1:35ー38)と言われ、

「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会 堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」(39節)

のです。

2.主イエスは、宣教の大命令として「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさ い。」(マタイ28:19)と語られました。

もし、旧約の宣教のキーワードを「来たれ」とするならば、新約の宣教のキーワードは「行け」でしょう。

エルサレムに来て、礼拝の民に加わりなさい、という姿勢が旧約時代の宣教とすれば、新約の宣教は、世界に出て行って宣べ伝えなさいです。待っていないで、人々のいる所に行って伝えるのです。

違った言い方をすれば、それは積極的行動のことです。

待っていないで証をすることです。若者には若者にふさわしく、中年のビジネスマンにはそれにふさわしく、主婦にはそれにふさわしく、高齢者にはそれにふさわしく、アウトローの様な人にはそれにふさわしく、出て行きましょう

さらに、日本という枠の中だけではなく文化の違いを乗り越えて出ていくこと、が導きであるならば思いきって出ていきましょうそれぞれに導きに従って、しかし積極的に行動すべきです。

3.私達が行くとき、神は伴う印をもって私達を助けて下さいます(マルコ16:2 0)。特別なご臨在をもって助けて下さいます。その実が残るように働いて下さるのも主ご自身です。(私達の側でのフォロアップとか牧会という努力を否定はしませんが、実を残らせて下さる主導権は主ご自身です。)


終りに:

どうかこの年、私達の生涯を通して、多くの豊かな実が実りますように、労 し、祈りましょう。それこそが主のお喜びであります。

お祈りいたします。


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on Jan.15, 2001