礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2001年1月21日
「自分のをお買いなさい」
井川 正一郎 牧師
マタイの福音書25章1〜13節
中心聖句
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」 (9節) |
1.序論
1−1.はじめに(今日のメッセージ)
マタイの福音書、第25章9節です。
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」
私に個人的に与えられた新年の聖言は、「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2章10節)と「善かつ忠なるしもべ」(マタイの25章)のおことばです。
新しい世紀を迎え、次なる時代・社会への移り変わりへの大切な節目となっているこの時であります。すぐに終末というよりも、個人的には少なくとも、もう1段階、そういうものがあって、そして大きな信仰に対する迫害・困難を迎え、信仰者がゆすぶられ、ふるわれる時がある、そしてその後の終未かと思われますが、ともかく、死に至るまで忠実に歩みたい、と願っております。
そのようなことを考えました時、準備の大切さ、備えの必要を改めて示され、今日の箇所が導かれたわけであります。
今日の箇所は、個人的というより、お互いにとっての大切なメッセージが含まれていると思っております。
今日のメッセージは、一言でいえば、「自分のをお買いなさい」にまとめられるのです。
1−2.メッセージと説教の違い
神様のメッセージは「自分のをお買いなさい」の如く、一般に一言でまとめられるものだと思っております。
メッセージと説教の違いというものを私たちはよく教えられるものです。
説教はわかりやすく言えば、メッセージを正しく伝え、更に深く理解させるためのものです。なぜそのメッセージが今の私たちに必要か、その状況、背景、理由が示されていくのです。
例えば、「リンゴを買いなさい」とのメッセージがあった時、説教とは、「私たち、今このビタミンが足りないから、ミカンでなく、リンゴが必要なんです」、または、「栄養のバランスをとるためには今リンゴが必要なのです」というように、メッセージの意味をはっきりさせるものなのです。
1−3.主のたとえ話の箇所の一つ
イエス様はしばしば、メッセージをわかりやすくするために、たとえ話を用いられました。
25章には、3つのたとえ話がございます。10人の娘の話、タラントの話、羊とやぎが分けられるという話です。
文脈的には、マタイの福音書は、18章からずっと天の御国とはこういうものですという、たとえ話が記されているところです。天の御国のたとえ、終末について、特に「時の弁えとその備え・準備が大切です」と示されているのがこの文脈です。
きょうの10人の娘の話も同じです。花婿がやってまいりました。いつ来てもよいように準備して待っている賢い5人の娘たち。しかし、準備していなかった愚かな5人の娘たち。
1−4.たとえ話の意義
たとえ話とはそもそも真理を明らかし、わかりやすく理解させるためのものです。でも同時に、イエス様がたとえ話をされるのは、隠すためでもあると言われています。
弟子たちの質問に、主は答えられました。「あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない」。
即ち、心の準備ができている者にははっきりと分かるが、逆に、そうでない者には、わからない。そのような形で話されるのがイエス様であります。
1−5.この箇所のたとえ話の背景
今日の箇所のたとえ話の背景ですが、ユダヤの社会の結婚、または結婚披露宴が背景になっているのではないかとよく言われます。ユダヤの社会では、婚約が成立すると、法律上の結婚とみなされます。でも、一緒の生活はまだであります。約一年間ほどの婚約期間を必要とし、それが過ぎると一緒の生活がスタートします。そのスタートをお祝いするために結婚披露宴が行われるのです。
普通は披露宴は花婿の家で行います。花婿はその日、多くの友達といっしょに花嫁をその家まで迎えに行きます。そして花嫁と花嫁の友人たちもそこで加わって、娠やかな行列をつくるのです。そして花嫁の美しさをほめたたえながら、花婿の家まで歩いて行くのです。披露宴は何日も続くといいます。
このたとえ話は、それが背景となっています。で、この10人の娘たちはいったいどのような人たちでしょうか。花婿を迎える花嫁側の女友達のことではないだろうか、と言われています。
2.本論
今日のメッセージ「自分のをお買いなさい」について、大きく3つのことを申し上げたいと思っております。
1.何を買うのか
2.買うべきものものが、どういう性質・特徴をもっているのだろうか
3.買うべきものを、どうやったら得ることが出来るのだろうか2−1.何を買うのか
何を買うのか、それは、「天の御国に入る資格」だと言ってよいと思います。あるいは、「花婿を迎え、披露宴に出席できる資格」と言い換えてもよいと思います。
迎える側の姿勢として、灯火(ともしび)をともす明りが必要であります。そして、油がなくならないように、予備の油をも用意しておくことが必要であります。そして、いついかなる時にやって来ようが、それらを前もって用意しておくことの必要性も示されるのです。
聖書から教えられることは、天の御国に入る資格として、「新しく生まれ変わらなければならない」、あるいは「きよくなければ、神を見ること能わず」、言い換えると、キリストを信じる信仰、一時的なものでなく、生涯的、継続的なもの、最後まで全うされるものであることが求められるのです。
すなわち、救い、きよめといった霊的経験の確かさ、そしてそれが一時的なものでなく、生涯的に、継続的に最後まで全うされていくこと。それが天の御国に入る資格、天の結婚披露宴に出席できる資格であると言って間違いありません。特に、油とはしばしば、聖霊を象徴致します。「きよくなければ…」、聖霊経験の大切さを教えられるのです。
2−2.買うべきものものが、どういう性質・特徴をもっているのだろうか
3つの性質があります。
@個人的な性質
天の御国に入る資格は、きわめて個人的であります。救いもきよめも、神の賜物といったものは代わりがききません、そのような性質、特徴をもっています。
それで、皆さん、このたとえ話ですが、「花婿、昼間にやって来ればいいのに、夜にやって来るなんて非常識だ」、それから、「油を持っている人が持っていない人に分けてあげればいいのに、分けてあげないなんて、かわいそうではないか、意地悪ではないか」という疑問が持たれます。
この疑問に対する、過去に多くの回答がなされて来ました。
「これはあくまでもたとえ話であって、中心は時を正しく弁えること、そして、そのための準備をしておくこと。ただ、それだけであって、他のことは問わないものだ」。このような回答がございます。正しいことだと思います。
あるいは、「この賢い娘たちの言葉のように、まさに人に分け与えるには十分なものでなかった。人に与えては両方共倒れ!」
言うまでもなく、霊的経験、もしくは、天国へ入る資格はきわめて個人的なものです。分け与えたいのはやまやまですが、それが出来ないことがしばしばあるのです。代わってあげたいと思うのですが、それが出来ないのです。女の人の出産の生みの苦しみ、学校のテストも同じです。
そして、今日もう1つ付け加えたいことを申し上げます。「その準備・用意について、十分な時が与えられていたにもかかわらず、それをしなかった」という点を考えるべきではないかと思っております。
例えば、都内の有名ホテルで結婚披露宴を挙げるには、半年、1年前から予約申し込み、準備が必要なのです。直前になって慌ててもだめなのです。
「自分のをお買いなさい」、きわめて個人的であり、排他的であるということを申し上げたいと思います。
A協同的でもある性質
2つ目の性質は、矛盾するような言い方ですが、協同的でもある、ということです。5人、5人。その数に意味を込める必要はありませんが、あえて意味を込めるとすれば複数ということです。
天の御国に入る資格、互いに励まし合って、そこを目指すことができるのです。そして一人一人がたしかにその宴に間に合うことができたならば、どんなに幸いなことでしょうか。
B時限的(時に限りがある)な性質
3つ目の性質は、時には限りがあるという性質です。
時とは、神様が人間世界に与えたものです。もともとは限りはありませんでした。永遠でした。でも、罪の故に人の命の長さに限りが生じたのです。時間が入りました。そして、その時間はずっと許されるのではなく、終りがあるのです。
時間とは神様のあわれみの期間です。何時締切りが来るかわかりません。今のうちに備えるのです(13節)。
2:13 だから目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
これは難しいことではありません。だれでも出来るのです。
予備の油を買うための店は、お昼の時間は開いているでしょう。ヨハネの福音書を開いて下さい。
ヨハネ12:35 イエスは彼らに言われた「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、光がある間に歩きなさい。」
店じまいが近づきつつあります。でも、今なお、救いの日、恵みの時、あわれみのチャンスが残されています。
準備・用意をしておきたいものです。この時間は悠に与えられております。
2−3.(結論)買うべきものを、どうやったら得ることが出来るのだろうか
結論として、それを得る条件とは何でしょう。当たり前のことです。「買うこと」です。
買うために、2つのことを意識しなければなりません。
第1に、「自分には無い」との意識です。他から頂くものなのです。
第2に、「支払い」が意味されています。代価・贖罪です。しかし、支払いは既に済んでいるのです。
では買うとはどういうことでしょう。「ただで買う」ということです。要は、「受け取りに行けばよい」ということです。
これは、誰でも、何時でも、どんな時でも、買うことの出来るものなのです。恵みが目の前に備えられているのです。これが今日のメッセージなのです。
「自分のをお買いなさい」という時、今備えられている恵みを受け取りましょう、ということなのです。しかし、決して単純な受け身ではなく、積極的に出ていって、「買いなさい」との意味です。「私にはダメです、買えません」、ということはありません。支払は済んでいるのですから。
この1年は、救い、霊的な経験を整理し、ホーリネスの恵み、ホーリネスの生涯を点検して整理をするチャンスであります。
そして、お互いが「買う」という姿勢を持ちながら、天の御国にまで、神様の恵みを勝ち取っていく、そのような1年間でありたいと願っております。
今日のメッセージは、「自分のをお買いなさい」です。
ご一緒にお祈り致しましょう。
Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2001.1.22