• 礼拝メッセージの要約
    (教会員のメモに見る説教の内容)


  • 聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

  • 2001年2月4日

    ヤコブ書連講(4)

    「貧しい者の幸い」

    竿代 照夫 牧師

    ヤコブの手紙1章5−11節

  • 中心聖句

    9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。

    (9節)


    始めに:

    1.クリスマス・新年と特別な事が続き、講壇もそれに沿って特別なものでしたが、 今日から普通の営みに戻って、2ヶ月程お休みしていたヤコブ書の連講を続けたいと思います。今日はその第4回目となります。

    2.ヤコブ書のヤコブの言葉は一貫した筋に沿ってというよりも、母親が子供を叱るように右に行ったり左に行ったりしていますが、その土台となっているのは主イエスの語った言葉です。主イエスの弟であるヤコブは、イエスが十字架にかかるまでは、兄に反発して信仰を持たなかったのですが、主イエスの教えをよく覚えて吸収しています。

     


    I貧しい者の誇り

  • 9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。

    1.貧しさの意味

     ここで用いられている貧しいという言葉(タペイノス)は、1)経済的に貧しい、2)社会的に低く、虐げられた、3)精神的に「圧迫された」などという場合に使われる言葉です。従って、単にお金が無いという貧しさ以上の意味が含まれています。

    2.対象となる人達

     この連講の第一回でお話しましたが、ヤコブの手紙の受取人は一章一節に記されているように、十二の部族(イスラエル民族のこと)ですが、エルサレム教会に迫害が起きて各地に散らされた人達のことを指しており、そのほとんどが日々の施しを必要とする貧しくて地位の低い人達でした。それは、パウロが世界中に呼びかけて、「エルサレム教会支援大募金運動」を展開する必要があるほどでした。もちろん中には、土地を売ってエルサレム教会に奉げたバルナバ、同じことをしようとしたけれども動機が悪かったので裁かれてしまったアナニヤ、イエスの弟子達の集会に自宅を開放していたマルコのお母さんなどの金持ちもいましたが、彼らは例外的な人達で、大多数は「日々の施しを要する」貧しい人々でした。そして、この事情はエルサレムから追放されて各地に離散するようになって、より厳しくなることはあっても、好転することはなかったと思われます。ただ経済的に貧しいだけでなく、クリスチャンであるとわかると、社会的にも虐げられて仕事にもつけない状況でした。ですから、ここでヤコブが「虐げられている人々よ。」と語りかける場合、それは読者の殆どに当てはまるものと考えていたことが想像されます。

     

    3.貧しい者の誇り

     こうした社会的に、経済的に、精神的に恵まれない人々ではありましたが、誇ることがある、それを忘れないように、とヤコブは語っています。それが9節のすすめです。この新改訳では「自分の高い身分を誇りなさい。」となっていますが、直訳しますと「彼の高揚(の事実)、高くされたこと」です。つまりそれは、彼らが「霊的に高くされた」ことを意味しています。決して、教会という集まりの中で偉くなったという身分の事をいっているのではありません。

     エペソの2章には、「神なく、望みなく…」とありますが、そのような罪の中に沈んでいた私達であっても、神は憐れんで、恵の故に活かし、キリストと共に天の所に座す者として下さったのです。神の子供として受け入れ、神の相続財産を受け継ぐものとされました。これがここでいっている「高い身分」です。

     ヤコブは、そのことを誇りとしなさいと語っているのです。

     皆さんの中にも世の中で厳しい状況におかれている人がおられるかもしれません。以前は一度就職したら定年まで落ち着いていられたのかもしれませんが、今ではリストラにあったり、例え残っても給与がカットされたりして、決してやさしい社会ではありません。あるいはクリスチャンであるがゆえにつまはじきにされることもあるかもしれません。ちょうどエルサレム教会から散らされた人達と同じように厳しい境遇におかれて、「私だけがどうして…」と自己憐憫に陥る人がいるかもしれません。しかし、例え社会にあっては虐げられていても、高い身分のキリストと伴にある素晴らしい恵みを感謝し、誇りとしなさいとヤコブは語っているのです。

     


    II富める者の誇り

    10 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。

    1.富んでいる人(少数派の金持ち階級)

     ヤコブは、クリスチャンの中では少数派であった金持ち階級の人々にもメッセージを伝えます。その人達には「低くされること」を誇りなさいと言っています。

    2.低くされることとは?

     ここで「低くされる」とはどういうことでしょうか?貧乏になることでしょうか?そういう可能性もあるかもしれません。確かに、自発的に持っているものを全部奉げて貧乏になった人が教会の歴史の中に無いわけではありません。

     例えば、ルカの福音書には金持ちであったけれども全てを奉げて貧乏になったザアカイの話しがでてきます。ザアカイはエリコの税務署の所長でしたが、ごまかして自分のものにした税金は4倍にして返したと記されています。全財産を奉げてしまったザアカイのその後はどうなったのか、気になるところです。実は伝承によると、ザアカイはその後伝道者になり、カイザリヤ教会の牧師になり、最後には教区長になったのです。ルカはルカ伝の資料集めにカイザリヤの教会に行ったときに、おそらくザアカイの証しを聞いたのではないかと思われます。

     また、アッシジのフランシスという人は大金持ちの家に生まれた道楽息子で、外国と戦争して牢屋に入れられたときでも牢屋の中でドンちゃん騒ぎをしたほど楽天的な人でした。しかし、彼は大きな病気をして、「神様、この病気を治してくださるなら、私は全財産を捨てて、貧しい人達のために生きます。」とお祈りしたところ、治ってしましました。そこで彼は家業の織物業を捨てて、乞食坊主のようになって貧しい人達と生活しはじめました。有名なお話です。

     金持ちがその富を皆捨て去って文字通り貧しくなることも意味されているようには思われますが、全ての人にあてはまるわけでは無いように感じられます。

    2)低い階層と同一視されること?

     あるいは、クリスチャンになったことで貧しい人達が集まる教会の一員となり、低い階層の人間と同一になったと見なされることでしょうか。これもありえましょう。

    3)神の前に謙ること?

     しかし、この文脈ではもっと心の在り方、精神的にへりくだることが強調されているように思われます。つまり、キリストの十字架の下に助けなき罪人として跪き、彼のもっている富やそれに伴う地上の栄光は何にも役に立たないものとの自覚を言い表すもの、それが本当の幸いです。

     イエス様は金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴に入ることより難しいと語っていますが、不可能とは言っていません。そのためにはへりくだることが大切です。

     例え大金持ちであっても、教会にあっては皆と同じ一員として、謙遜な状態であることを示していると思われます。日本で最初に開かれた国会の議長さんだった片岡謙吉という人は、熱心なクリスチャンでしたが、教会ではいつも下足番をしていたそうです。それは彼にとってごく自然な事であったそうです。私達は何かの理由で世の中で高い地位、名誉、富が与えられるかもしれません。今のところその可能性はあまりありませんが(笑)。仮にそうだとしても、そのことを誇らず、教会にあっては世の中の区別を持ち込まないでどれだけへりくだっていられるか、それが彼らの誇りだとヤコブは語っているのです。

     私達はこのどちらの境遇にあてはまるでしょうか?どちらだとしても、もし神様が豊かな恵みを注いで沢山の富や地位を与えて下さっていても、そのことの故ではなく、自分が罪人の頭であることにへりくだりなさい。またもし、経済的、社会的に圧迫された状態にあっても、逆に神の素晴らしい御業に感謝し、それを誇りとしたいものです。

    3.金持ちへの警戒

     ヤコブはこの手紙で金持ちについて他にも二カ所程警戒を述べています。

    1)特別扱いの要求(2:1−8)

    2:1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

    2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。

    2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、

    2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

    2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

    2:6 それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。

    2:7 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

    2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。

     ヤコブはここで金持ちであることが教会の中での特別扱いの理由になってはいけないことを説いています。世の中の差別や人間関係を教会に持ち込んではなりません。例え社会にあっては社長でも一番の下っ端であっても、教会に来たら社長扱いする必要は無いのです。ここでは皆兄弟姉妹なのです。

    2)傲慢と贅沢と圧迫(5:1−5)

     ここでは金持ちの陥る傲慢と贅沢と貧しき者への圧迫を警戒しています。

    5:1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

    5:2 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、

    5:3 あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

    5:4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。

    5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。

     金持ちが陥りやすい傲慢、贅沢に対するとても厳しい弾劾のように聞こえますが、一方でヤコブは彼らを「兄弟達」とも呼んで救いの道を示しています。敵視しているわけではありません。

     

    4.富の不確かさ:熱風の前の草花

     10節後半と11節には、移ろいゆく富についての描写が、記されています。

    10 …。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。

    11 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです

     ここでは富みとは変わりやすい、信頼できないものであることを熱風に例えて述べています。

     東風を伴って上って来る熱風は、忽ちに草を枯らしてしまいます。それは私が宣教師として赴任していたケニヤのような暑い国ではよくあることです。

     富は決して永続きしないものです。移ろい行くものです。それを私達の人生の拠り所としたなら、とんでもないことになってしまいます。

     今の日本は借金だらけで、国民一人あたり300万から500万円の借金をかかえているそうです。本当ならいてもたってもいられないはずなのに、それに慣れてしまって平気な顔をしています。ある評論家がそのぐらいの借金はインフレが来たらすぐに帳消しになると語っていました。インフレが来たら確かに国債は返せるかもしれませんが、大事に貯め込んできた貯金も同時に減ってしまいます。戦前の大恐慌や戦後のインフレなど、そのようなことは歴史の中で何度も繰り返されて来たことです。

     インフレが来たら紙くずになってしまうようなものの上に私達の人生を乗せていて良いものでしょうか?そうではない、私達の人生を乗せるものは変わりたまわない主ご自身であるとヤコブは語っているのです。

     


    終りに:

     しめくくりに、このヤコブの勧めをもとに、次の3つの質問を私達の人生に当てはめて考えたいと思います。

    1.私達は今の境遇をどう評価しているでしょうか?

     学校や職場でおかれている境遇をどう評価しているでしょうか。私達は、人間的に見て厳しい状況にあるかも知れません。しかし状況が厳しくあればあるほど、それとは全く違った基準で、神が私達を愛して下さること、キリストと伴に高いところに引き上げて下さったことを自覚し、感謝し、誇りとしたいと思います。

    2.私達は人生の拠り所を何に置いているでしょうか?

     移ろいゆく富に私達の安心の土台を置いていることはないでしょうか。預金通帳の額や、会社組織の中での地位は決して永続的ではありません。

     私達は、変わり給わない活ける主に頼り、単純な信仰を持って日々を生かせて頂きたいと思います。

    3.私達は自分と違う境遇の人に対して理解しようと努力を払っているでしょうか?

     多くの場合私達は自分と違う境遇の人に対したときに、貧しい者は富める者を羨み、富める者は貧しい者を蔑むということになりがちです。しかしそのような関係は教会にあってはなりません。互いにその違いを受け入れ、愛し合い、助け合い、祈り合う本当の兄弟姉妹としての証が教会に立てられるように祈ります。

     

    お祈りいたします。


    Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on Feb.10, 2001