礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年2月11日

ヤコブ書連講〔5〕

「試練に耐える人の喜び」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書1章12−18節

中心聖句

12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

(12節)


始めに:

1.前回は9節の「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」という聖句を中心に、自分の立場に対する積極的評価について学びました。

この「貧しい」という内容には経済的なもののほかに、社会的な圧迫・精神的圧迫も含まれたものであると述べました。

そのような中において、神様が私たちを栄光に満ちた存在として取り扱って下さる、という恵みについて取り上げ、その恵みに感謝しましょうと言うお話をいたしました。

2.今回は進んで、試練のもたらす幸いについて語ります。

ヤコブ書の対象は散らされたユダヤの民であり、苦しい境遇にいた者たちでした。従ってこの手紙は試練に会っている者たちに対する励まし、そして勧めが書かれております。

格別に今日は、先ずこの文節で語られている三つの大切な事を出来るだけ簡潔に概観し、その後で今日の中心である12節に戻りたいと思います。


A. 試練とその対処(12節):

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

1.試練とは?

試練(1章2節でもお話ししました)と誘惑とはおなじ言葉です。

「試練」と言う言葉は単純にギリシャ語でペイラスモスでテストといった意味です。それはある目的に適う者として承認するための積極的な意味での「試験」と、悪への誘いという消極的な「陥れ」という両方の意味を含んでいるもので、12節は前者に、13−15節は後者の意味で使われています。

前者は神様が我々の信仰を鍛えようとしてお与えになったものであり、後者は悪魔が我々の堕落を目的として与えたものであると捉えることができます。

この他に自分の罪や失敗の結果としての苦しみもあり、それも試練と言う言葉で表されることがありますが、これは区別しなければなりません(第一ペテロ2:20)。この関係をリストにしてみました。

   
出所 内容 目的
神ご自身 人生の苦しみ 信仰の成長 ヨブ、アブラハム
罪・過ち 人生の苦しみ 刑罰 ダビデの家
罪と死 滅び アカン

第一は人生の苦しみを通して、私たちの信仰を鍛えるために行われているものです。例えばヨブの受けた試練であり、アブラハムがイサクを捧げることを問われた試練であります。これは私たちには何の咎もないのに与えられることであり、例えば病気なども含まれるでしょう。

第二は自分の側にも何らかの落ち度があって与えられる試練のことです。例えば同じ病気でも、不摂生をして得た病気などが入ります。このような場合は悔い改め・反省をしなければ試練を通り抜けることができません。

ニクソン大統領の補佐官であるチャック・コルソンと言う人がいました。彼はウォーターゲート事件後に牢獄に捕らわれ、そこで悔い改めて回心した人です。この種の試練は最初のものと違って、試練を与えられる人に悪いところがあります。

私たちが神学校におりましたころ、笠原さんという方が病気の時に食事を持ってきて下さったのですが、「病気になったのは不摂生が原因でしょう。まず悔い改めなさい。」と悔い改めないと食事を与えてくださいませんでした。

ペテロはこう言っています。「罪を犯したから苦しみを受けるのは当然だ。」それは、当然の報いとして受け止め、その中で主が示される御心を知っていくことが大切です。

第三は我々の心の内側にある欲、これにサタンが働きかけて起きる試練であります。これは13節に詳しく出ておりますので、あとで詳しく述べます。

2.試練への対処

では、この試練にどのように対処したらよいのでしょうか?鍵となる3つの言葉を取り上げたいと思います。

1)喜び:試練を神からのものとして喜び、光栄に思う

私たちが原因でないのに、さまざまな困難に遭うとき、聖書は

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と言っています。なぜでしょうか?それは私たちがその試練に耐えるものとして神が認めて下さったからです。神は私たちに決してたえることができないような苦難をお与えになりません。このようなことは信仰によってしか理解することはできません。

2)信仰:神の善と愛とを絶対的に信じる

神様は良き事しかお与えにならない、と言うことを信じきる信仰です。全ての良き事は上から来るのであります。神は善にして善を行い給うこのことを単純に100%信じきる信仰を持たせていただきたいと思います。それを信仰というのです。

3)忍耐:その揺るがない信仰を持続する

試練に遭うと耐える人は幸いです」とあります。「耐える」ということばはおもしろい言葉が使われております。「ヒッポ・メンノー」ということばですが、「ヒッポー」は「下に」と言う意味で、「メンノー」は「留まる」と言う意味であります。カバのことを「ヒッポポタマス」と英語で言いますが、これは「いつも水の下の潜っている動物」と言う意味です。

また、この「幸い」と言う言葉は山上の垂訓を反映したものと言えます。

マタイ5:10−12「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

つまるところこの箇所は、重圧から逃げだそうとせずに留まって、これも神様が与えてくださったと信じてそれを甘受する、と言うことを意味しているのです。逃れる道は、主が用意して下さる、このことを信じ切って、たとえ何年続こうとも待ち望む姿勢のことを、この忍耐ということばは意味しているのです。

先日読んでいた本に、アポロ13号の船長の証が書かれておりました。彼がアポロ13号の宇宙空間に於ける事故に際して主に祈り、ほぼ絶望的な状態から地球に帰還することができたのですが、この時彼はその試練の下に居続けたわけです。素晴らしい証でありました。

3.耐えた者への報償:最高の冠

この12節の中に「耐え抜いて」と書かれていますが、言語にはこのような表現はありません。本来は「承認された人」と言うことばが入っていますが、それを強調するために入れられたと思われます。これはむしろ神様から「もうそれでよし」と承認されたと言う感じが正しいのではないかと思います。

私がアメリカで運転免許を取得したときの事ですが、教習所の先生は門を出る前に「もうそれでよし」と言って引き返させました。

神様も喜びと信仰と忍耐を保った人に対し、証人というハンコを押して下さいます。それは「命の冠」です。

冠とは最高の幸せを表すものです。神様は試練に耐え抜いた私たち一人一人にふさわしい冠を与えてくださいます。王たる者への承認である。ゼカリヤ書には

あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。

(ゼカリヤ書 6:11-12)とあるからです。


B. 誘惑とその対処(13-15節):

13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

15欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

1.神は誘惑を与えるか?No!

誘惑は、ペイラスモスという同じ言葉ですが、二つの意味があり、試練は神の与え給うものではあるが、誘惑までも神の与え給うものといって、罪を犯すことの言い訳にしてはいけない、とヤコブはここで警告します。13節は12節の但し書きのようなものです。

神が私達を誘惑なさるでしょうか否です。神は清いお方であり、私達をテストなさることはありますが、その清さの故に、誘惑を受ける事もないし、また、ご自分から(「アウトス」=「自分自身で」という言葉は強調されています)私達を誘惑することもなさいません。サタンに対して許容はされるが、積極的になさることはありませ ん。神の絶対的な良善を信じましょう。

誘惑は神によってなされたと言ってはいけません。これは内なるものによってなされることだからです。神は絶対的に正しく、聖い存在であり、そのような誘惑の源泉ではありません。

2.誘惑の由来:内なる欲望

私たちにはさまざまな欲望があります。このような欲は全て悪いもの・罪なのでしょうか?そうではありません。さまざまな欲も、本来的には自然なもので神が与えられ良き存在であります。この欲とは中立的なもので、人間本来の性質に根ざしたものです。それ自体は悪ではありません。

どういう時にそれが罪になるかというと、その欲望が聖霊の支配から離れて、その欲望自体が私たちの行動の源泉になる場合です。言い換えますと、それを私達が放置しておいて膨らませるときに罪が発生します。

したがって、内なる欲望が大きくなる前にコントロールして潰す必要があるのです。しかしそれが聖霊と理性のコントロールを越えるときに悪しき欲望となってしまうわけです。

ヤコブが述べている欲とは、そういった「聖霊の支配から逸脱したものとしての自然的欲求」であり、それが罠となり、それにはまると罪になると言っているのです。

ここで「引かれ」とか「誘き寄せられ」とは、動物や魚を取る時の罠のための餌を示唆する言葉です。そして、この場合は特に性的な罪を示唆しています。ダビデがバテシバに誘惑され罪を犯していった過程がこの言葉で描かれています。

私はきよめられているから大丈夫と安易に考えてはいけません。誘惑は絶えず存在しますし、私達が聖霊に導かれた生活から離れるとき、罪に陥る可能性は何時でも存在するからです。

これらの欲望は、聖霊のコントロールによってのみ、神の栄光を賛美することにつながるのであります。

3.失敗の結果:罪ー死

クリスチャンの中でも、聖められたクリスチャンであっても、罪に傾く性質が残っていて、御霊の導きから外れてしまいますと、罪がはびこってしまう可能性がいくらでもあるものです。

悪しき欲望(=聖霊のコントロールから離れた欲望)、これがはびこって大きくなってくると罪が生まれ、そして行き着くところ「死」という永遠のさばきという結果になってしまいます。

その過程が子供の妊娠という例えで語られています。小さな胎児が驚くような早さで増殖していくように、小さな罪でも火遊びをしていると、コントロールできないほど大きくなってしまうのです。

4.罪への言い訳

私達はしばしば、罪を犯すことに対して色々な言い訳をし易いものです。例えば:

1)それは他の人がやったこと
2)仕方がなかった
3)皆がやっている
4)ちょっと間違っただけ
5)誰も完全ではない。
6)良く分からなかった
7)そうせざるをえなかった。
8それが悪いと分からなかった。
9)神が誘惑しておられる。

自分の失敗を、神が誘惑したからと責任転嫁してはなりません。クリスチャンはその行為について神の前に責任を取るべきです。

私たちは頭の上にカラスが飛んでいることをどうすることもできません。しかしそのカラスが頭の上に宿って巣を作ってしまうことを防ぐことはできるのです。最も私の場合はカラスが巣を作れそうもありませんので、この点は感謝いたしております(笑)。


C.神の絶対的善(16ー18節):

最後にヤコブは「だまされてはなりません」と言っています。

16愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

18父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

これは何を意味しているかと言いますと、試練が神様が意地悪でこのような試練を与えている、と考えてはならないと言うことです。

1.全ての恵みの源

第一にすべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって」と神様が良き存在であることを強調しております。

神に私達の罪の責任を転嫁するような誤った考えを持たないで、神の良善を信じようというのが15節の意味です。

神は何時でも私達に善を計画し善を与え給う方です。神は全ての恵みの源です。良いと呼ばれる全てのもの、清いもの、明るいもの、卓越したものは皆神から来るものです。

2.神は(影日向のない)光の父

神は光の父です。物理的な光と共に霊的な光(恵)を創造された方です。自然界の光は、明るいときもあり(雲とか日蝕や月蝕によって)陰るときもあります。四季に依る変化もありえます。

しかし、神に於いてはその区別がありません。神はどこにでも存在し、誰にでも恵を与えるお方です。彼に隠れる存在もなく、彼ご自身に依怙贔屓もなく、移り変わりもありません。

もし神に陰りがあるとするならば、一重に人間側での罪であり、神から隠れようとする態度の為です。丁度蝙蝠が洞窟の中に生活して光から避けて生きているように、です。

3.善の目的で創造し、救われた

善である神が、その善を人間の創造において表しなさいました。私たちを被造物の「初穂」として下さったのです。被造物はいわば神の世が到来するまでの産みの苦しみにあえいでいるのです。神様はその苦しみを救う初穂として私たちを造られたのです。

言い換えれば、その神の善の受取人として人間を否私を造り給うたのです。この私達とは具体的に言えば教会です。

この初穂から始まって、あらゆる人がキリストによる救いを受け、さらに私たちの罪によって堕落してしまった被造物全体が、キリストの救いによって初めに造られた状態に回復された運動が始まっているという、非常にスケールの大きな内容が書かれているのです。


結論:

私たち個人個人はさまざまな苦しみの中に生きて、うめき苦しみ、涙することがあるかも知れません。しかしその中において、神の最終的目的は試練を通して私達に勝利をあたえてくださることであると信じさせていただきましょう。

また私達をご自身の清さと愛において似たものとして作り上げるのを目的としておられます。試練の中にある人々、その試練を喜び、耐え抜く力を求めようではありませんか。

お祈りいたしましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by K. Ohta on Feb.14, 2001(revised on 2.15)