礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年2月18日

ヤコブ書連講(6)

「聖言を実行する人に」

竿代 照夫 牧師

ヤコブ書1章19〜27節

中心聖句

1:22  また、みことばを実行する人になりなさい。

(22節前半)

アウトライン:

みことばを実行することとは、みことばを聴き、みことばを受け入れ、同時に、みことばをよく聴いて実践することである。その際、みことばに耳を傾け、吟味したうえで、愛を持って実践することである。
 


はじめに

 前回は、12節の

1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 という聖言を中心に、試練の出所、試練への対処、試練に耐える人の幸い、について学びました。

 今回は「聞くこと」――特に、聖言に聞くことの大切さを鍵の言葉として、1章19〜27節を学びます。

 このヤコブの手紙と異邦人クリスチャンに宛てて書かれたパウロの手紙との顕著な違いは、ヤコブの手紙の中には異邦人社会の中に多く見られた不品行への譴責(けんせき)が余り見られず、傲慢とか形式主義といった過ちへの譴責が多いことです。受取人が(もともと真面目な)ユダヤ人クリスチャンであったこともその理由と考えられます。


A.聞くvs語る、怒る(19〜21節)

1:19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

1:20 の怒りは、神の義を実現するものではありません。

1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

1.二つの耳と一つの口

 ヤコブは先ず「愛する兄弟たち。」と呼びかけて、これから語る厳しい勧告が柔らかく受けとめられるように配慮します。そして、語るよりも聞くことの大切さについて話を切り出します。ある人は人間には二つの耳と一つの口が与えられているのは意味がある。しゃべることを抑えて、充分聞きなさい、と言いましたが、正にその通りです。

2.しゃべりすぎ=自己中心

 しゃべることが多く、聞くことの少ない人は、自分のアイデアは相手の人のアイデアよりもずっと大切だ、というメッセージを伝えます。ヤコブはこれをひっくり返せと語っています。私達は、時にはストップウオッチを使って自分のおしゃべりの長さを計る必要がないでしょうか。相手の話しを聞くことはその見方やアイデアに価値を認めることなのです。自分ばかりがしゃべるのは、はっきり言って、自己中心的スピリットの現れです。

3.喋ること=怒ること

 1)更にヤコブは論を進めて、喋ることと怒ることを結びつけています。急いでしゃべる人は通常怒りっぽい性格を持っています。逆に、他の人の話を注意深く聞く人はそんなに急いで怒ったりはしないものです。箴言15:1には、

箴言15:1 柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。

 と記されています。

 2)20節でこの怒りの問題が敷衍されています。ここで「人の怒り」と言っているのは正義の怒りのことではなく、自分の価値が認められなかった事の故の自己中心か ら来る怒りです。他の人が傷つけられた時の怒りは正義の怒りと言えましょう。しかし自己中心から発する怒りは神の国とその義の進展の妨げとなります。

4.悪を棄てなさい

 21節は、もう一歩進んで、これまでの勧めを一般化します。悪しきものを 全て棄て去って救いのメッセージを受け入れなさい、とヤコブは勧めています。「全ての汚れ」とは汚れた着物の事です。それを脱ぎ去りなさい、とヤコブは勧めます。 「あふれる悪」と言う言葉は邪悪さが飽和状態を過ぎ、溢れ出ている様を指しています。まさに現代の社会悪、政治腐敗、道徳的な退廃は飽和以上の状態と言えないでしょうか。

5.聖言を受け入れなさい

 ここで心に植え付けられた聖言とは18節の「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」という思想を引き継いでいます。

 それを素直に受け入れるとは、その聖言の示す方向に従った生活を送ることです。聖言は私達の心の中に植えられ、あるいは蒔かれています。マタイの福音書13章19節にも書かれています。

 それは私達を救う力があるとヤコブは語ります。その聖言とは、神について、正しきについて、福音についての真理を示す聖言です。その聖言を神のみ心として受け入れ、信じる時に新しい命が生まれます。

 第1ペテロ1:23には、

第一ペテロ1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 と記されています。

 マタイ13章の譬えでは、同じ福音の言葉でも、蒔かれた心の土壌によって、実を結ぶ場合と結ばない場合があることが示唆されています。私達はよく耕された柔らかい心をもって主の聖言を受け入れたいものです。さらに、聖言に示された生活の在り方を実行したいものです。


B.聞く:それだけでは駄目(22〜24節)

1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

1:23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。

1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

1.大切なのは実行

 神の言葉を聞くことは幸いです。しかしもっと大切なのはそれを行う事です。この点で、ヤコブの勧めは主イエスの教えに重なっています。マタイ7:21には

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 と記されていますが、ヤコブはそれを復唱しています。聖書の学びが私達の仕草や態度に反映されなければなりません。実践に現れない頭だけの信仰についてはヤコブの手紙2章は、具体的な実例を挙げて詳しく論じています。

2.自分を欺くな

 「自分を欺いて」(パラロギゾメノイ=真理に外れた理屈を捏ねること)とは、自分自身の言行不一致の状況に対して、上手な理屈を付けて言い訳をしないで、という意味です。

3.慌て鏡見

 1)聖言を実行しない人が、鏡で素顔を見るが、その顔を忘れて、汚れを取らずに立ち去る人に例えられます。この場合の素顔とは自分の心(「生まれつきの顔」とは誕生の時に持って生まれた、との意味)、鏡(当時の鏡はガラスではなく金属を磨いたものでした)とは聖書のことです。聖書は私達のこころのありのままを照射する鏡です。鏡は私達の顔の汚れや染みをありのまま写し出します。それと同じように、聖書の学び、聖書の説教は自分の罪深さ、性格の悪さや弱さ、直さなければならない悪癖等を思い起こさせます。

 2)でもそれを見たと言うだけで、忘れ去っては、心を照らされた意味がありません。自分の罪深さを感じただけで、何の処置もせず、その場を立ち去り、しかも日常生活の忙しさの中でそんな自己反省すらも忘れてしまっている人が如何に多いことでしょうか。

 現代医学で言えば、CTスキャンとかレントゲン写真に例えらることができます。それによって病状が分かったなら早速手術なり何なりの処置をして貰わなければなりません。ああ如何に多くの方が、鏡を見るだけでキリストの元を去ってしまうのでしょうか。

 とても残念です。聖言の実行とは、単に良いお言葉を聞いて、「そうだ、それを実行しよう」と言ってできるような単純なプロセスではありません。それが説明されるのが次の25〜27節です。


C.聞く:良く聞いて実践せよ(25〜27節)

1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

1.完全で自由の律法をじっと見なさい

 1)「完全な律法、すなわち自由の律法」=自由をあたえる律法とは矛盾した言葉に聞こえますが、福音の真理を衝いた言葉です。この場合の律法とは神の法則、命令、道という意味で、規則という意味ではありません。それは信じる者が自由な気持ちで神の戒めを行える様に造り替えられる福音です。しかも私達を全く救うという点で 「完全な」律法です。

 2)その律法に照らして、自分の魂の状態を吟味しましょう。神の恵と神の御心、光栄に満ちた神の約束に心を向けましょう。それも、ある瞬間に慌ててというのではなく、聖書に照らして心を吟味する行為を続けなさい、とヤコブは言っています。丁度、婦人達が鏡の前で充分な時間を取る事と大変似ています。聖言の前に座り、心を照らして頂く充分な時間を私達の生活の一部として確立しましょう。

 3)「すぐに忘れる聞き手にはならないで」という言葉は前の文節を思い起こさせます。自分の心の状態が聖言によって写し出されても、それがなかったかのように、生活態度を変えない人のような軽薄さ、もっといえば頑固さを持たずに、ということです。

2.実行しなさい

 さらに積極的には「事を実行する人」(原語では、働く実行者)になりたいものです。心を変えられた者として、示された神のみ心を生活の中に働かせるのです。神の御心を行い、その栄光を表す生活を通して、私達は祝福を受けるのです。

3.「真の宗教」の特徴

 1)舌のコントロール

 ヤコブは、こうした生き方を「真の宗教」という表現で現します。「宗教に熱心である」と思いながら、その行いでそれを否定している人々が戒められます。この人々は、宗教的な人間、宗教的な義務を行うのに熱心で忠実な人であるかもしれません、しかし、言葉を正しくコントロールしていないならば、その宗教は何の役にも立っていないと厳しく「おしゃべり」に警告を発します。

 ヤコブは3章で

3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。

3:3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。・・・

3:5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。・・・

3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 と語ります。ここでもまた自分を欺くことが警告されていますが、自分の一貫しない行動への理屈付けへの警戒です。

 2)孤児・やもめたちへの世話

 ここでは、真の宗教の積極面が語られます。「孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし」「世話をし」とは、単にお金を上げることではなく、実際に寡婦や孤児と個人的なコンタクトを持つことを示唆しています。

 3)「この世から自分をきよく守ることです。」それが清くないものを齎す筈がありません。純粋で汚れが無いとは、ダイヤモンドのイメージです。傷もなく、曇りもない状態です。

 真の宗教とは魂の飾りのようなものです。真の宗教の効果とは人生の飾りです。

 やもめと孤児への配慮は、真の宗教の現われです。愛と憐れみに表われないものは真の宗教ではありません。偽の宗教でもそれに似た行為はありうるでしょうが、動機が純粋でない場合が多いのです。

 纏めて言えば、真の宗教とは純粋であり、神の真理と神の愛から成っているものです。


結論

 今日は聖言を実行する、ということに焦点を当ててヤコブ書を学びました。復習の意味もかねて、それを4つのステップに纏めてみましょう。

1.聞く

 第一は聞くことです。これなしに聖言を実行することはできません。聴くだけのものではなく、と言われてはいますが、聞くこともしなかったらどうにもなりません。毎日聖書を読み、説教を聞く習慣はどれだけ身に付いていることでしょうか。

2.吟味

 聖言の前に心を開いて、自分の心を吟味し、照らしていただくことです。ちょっとだけ聖書を読み、ちょっとだけ説教を聞いて直ぐに忘れるようであってはなりません。

 その前に留まるのは時には苦痛である場合もあります。しかし、その苦痛を乗り越えて神に扱っていただくまで、聖言から離れてはなりません。聖言の前に座り、心を照らして頂く充分な時間を私達の生活の一部として確立しましょう。

3.約束の把握

 そのみことばに示された救いの約束を握ることです。21節には、

1:21 すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 とあります。その救いの関係をしっかりと保つことです。

4.愛の実践

 聖言の中に示された兄弟への愛を実践することです。心を変えられた者として、神のみ心を生活の中に働かせるのです。実際に弱い立場にある人々と個人的なコンタクトを持つことです。私達の周りに神の愛を必要としている人は大勢います。私達はどのようにその人々に神の愛を表しているでしょうか。


Messege by Teruo Saoshiro, Compiled by Kenji Otsuka. Feb.23rd,2001