礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2001年2月25日

「降伏しなさい」

井川 正一郎 牧師

エレミヤ書38章6〜23節

中心聖句

38:17  するとエレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。

38:18  あなたが、バビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」

(17-18節)


はじめに

1.エレミヤの人物像と時代状況

 エレミヤ書を開きました。涙の預言者とも言われるエレミヤが記した書物です。

 はじめに、エレミヤの人物像ですが、エルサレムの北東にあるアナトテ村(エルサレムから歩いて1時間半位)で生まれました。祭司ヒルキヤの子です。18〜20歳くらいの青年期に召命(エレミヤ書1章)を受けました。紀元前626年、ヨシヤ王の第13年より、約40〜50年間、奉仕を行いました。活動の時代は、ヨシヤ王からゼデキヤ王の時代で、特にエルサレム陥落前後の時代です。

 当時の時代状況ですが、ヨシヤ王の宗教改革はあったものの、それは線香花火的なものであり、効を奏せず、もはやユダ・エルサレムの罪は癒し難いところまでとなっていました。その解決は根こそぎ取り去って大掃除する、他に移してしまうような審判を下すしか方法がないところまで腐っていたのがユダの現実でした。

 ところで、エレミヤの奉仕は、王や他の宗教的指導者、民、また故郷の人々からも拒杏されたのです。しかし、エレミヤは神から受けた使命を果たさざるを得ないのです。

 彼の苦悩・嘆きは預言者として任命されたのが辛い・嫌だという思いからではありません。預言者として、民の減び・エルサレムの陥落・バビロンの攻撃・捕囚という神の厳しい審判のメッセージを伝えるとき、愛する同胞・仲間に聞いてもらいたい、悔い改めてもらいたいと思うのです。でも、全く耳をかさない民。その愛する者たちに必ず及ぶ審判を患うと……。預言者として自分が生まれてきたことさえ、呪いたくなるのでした。

2.エレミヤ書について

 エレミヤ書は52章ありますが、年代的に順序だって話が進んでいません。理解するのに、それほどやさしくはありません。でも、エレミヤ書は他のどの預言書よりもエレミヤ個人の預言者としての赤裸々な姿が描かれているのです。そしてまたバルクという預言を書き記す役目の書記がいたことで、理解する手掛かりはあるのです。(36章、45章、25章1〜3)

 エレミヤ書をあえて整理すると、次のようになります。

 (1)1〜25章=ユダとエルサレムに対する神の徹底的審判

 (2)26〜45章=エレミヤの自伝的記述

 「エホヤキムの治世の初め」(26:1)に臨んだ主のことばで始まり、「エホヤキムの第4年に」エレミヤがバルクに語ったことばで閉じられている。但し、30〜33章はもっぱら回復の希望と慰め。

 (3〉46〜51章=諸国民に対する預言

 (4)52章=エルサレム陥落を中心とした歴史記述、
    付録(U列王記24〜25章とほぼ同じ〉

 *エレミヤに臨んだ神のことば(王の順序で整理すると)

 (1)第一次 ヨシヤ王の13年(紀元前626年)から18年間

   ・1〜19章(20章=迫害)

 (2)第二次 エホヤキム王の時代の13年間

   ・25〜26章、35〜36章、45章、46〜49章

 (3)第三次 ゼデキヤ王の時代の11年間

   ・21〜24章、27〜34章、37〜39章
    (その後、40〜44章、50〜51(52)章)


本論

 今日の箇所の時代は、ゼデキヤ王の時代、エルサレム陥落直前です。エレミヤのメッセージに耳をかさない者たちがエレミヤを迫害し、エレミヤは穴の中に入れられ、泥に沈んだのです。その後、引き上げられ、ゼデキヤ王のもとに引き出されました。そこで、王に対して言った言葉の1つが今日のメッセージです。

38:17 するとエレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。だから目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

38:18 あなたが、バビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」

 「降伏しなさい。そうすれば、助かり、生きる。しかし、降伏しなければ……。」

 「降伏しなさい」このことばに、3つの意味があるのです。今日はその3つの意味を学んでみたいと願っております。

1.「降伏しなさい」――それは、己(おのれ)に死ぬ、無条件降伏、明け渡すの意味 

 徹底的降伏。打ち砕かれよ。ペチャンコとなる。マナ枚のこい。煮ても焼いてでも、どうにでもしてくれ。任せる。明け渡す。委ねる。要は、自己否定を意味します。

 自己否定とは、いわゆる自分が全くなくなってしまうとか、個性も何もかもすべて失われるという意味ではありません。自己否定は苦行・難行ではないのです。

 正しい聖書的意味は、「神の喜ぶことを思い、考え、行うこと。即ち、神の御旨に合わせることを喜びとし、自分の思い・計画を脇に置く姿勢。神の意思に従うことが自分の最大の喜びとすること」なのです。神の意思と自分の意思がぶつかる時、自らが喜んで譲る姿。自分の考え・思い・計画をひとまず置いて、神の意思・ご計画を第一とする姿勢、神の御旨にチャンネルを合わせる姿勢のことです。

 バビロンの捕囚になることが、神の御旨なのです。エジプトヘ行ったり、あるいはエルサレムにじっととどまって、ここは神の都だから決して滅びない、平安だと言っていてはいけないのです。偶像・物質・あるいは神殿さえも、形に見えるものに最終的よりどころにする罪の心は徹底的に扱われねばならない。根こそぎ、その場所から切り離されて何もないところで、神と私とが一対一になるような場所へ移す必要があるのです。信仰はそのようにしないと、きちんと扱われないことが多いのです。

 言い訳、言い逃れ、神に従います、神を信じます、悔い改めます、と繰り返し告白していても、最後の一つの部屋は大事にとっておくことが有り得るのが、人間というもの。そこが手術しなければならないところであると、神は迫ってこられるのです。徹底的に打ち砕かれなさい。降伏しなさい。神の御手・御旨の中に落ち込みなさい。徹底的に扱われなさい。

2.降伏とは、ペチャンコになれということと共に、積極的姿勢をも意味

 立て直せ。新しく出発せよとの意味もあります。生きる、助かるとは、前向きな姿勢をも意味します。先にバビロンヘ連れて行かれた人たちに、エレミヤが励ましの手紙を書いたことがあります(29章)。そこには、降伏するというもう一面の積極的姿勢が示されているといってよいでしょう。

 バビロン捕囚は実は、バビロン王ネブカデネザルが攻め込み、エルサレムを陥落させた時に一気になされたのではありません。少なくとも3度に分けてなされました。

 1度目は、紀元前606年、ネブカデネザルが攻撃、エホヤキムを強制してバビロンに服従させ、神殿の聖なる器物の一部を運び去り、またダニエルら優れた青年等を人質にバビロンに連れて行ったのです。

 2度目は、その3年後、エホヤキムが、エジプトに頼ろうとし、バビロンに背き、貢ぎ物を拒否したとき再びネブカデネザルは攻撃(その最中エホヤキムは死に、その子エホヤキンが継ぐ)。そして、紀元前597年、若きエホヤキンやその母、更に1万人ほどの民をつかまえ、バビロンヘ。その中にはエゼキエルもいました。

 3度目は、エルサレム陥落のときでした。紀元前586年です。エルサレムの都の殆どが破壊し、そして、殆どの者が捕囚となったのです。

 ここで言われていることは、捕囚ですが、不思議にも、その枠の中で、ある程度自由な日常生活が許されているということです。その日常生活が許されている中で、改めて真の信仰を立て上げなさい。新しくしなさいと言われているのです。その場所に置かれるには、それなりの目的があるのです。そして、ある一定期間過ぎたとき、再びエルサレムの地に戻してあげる、回復するとの約束があることを心にとめなさい、という筒所なのです。

 具体的に日常生活の中で、新しくするようにと求められていることは何でしょうか。

 @逆境の中でも、どんな状況でも「堅実な、健全な日常生活を営むことができる」(29:5,6)

 A逆境の中でも、どんな状況でも「他人を顧みることができる」(7)

 B逆境の中でも、どんな状況でも「繁栄をみることができる」(7)

 C逆境の中でも、どんな状況でも「目にみえない、形もない、しかし実在・そばに居給う主がわかる、神にだけ頼るとの本物の信仰生活・日常生活が営むことができる」

 D逆境の中でも、どんな状況でも、「主をいっそう理解できる」、特に「主が真実で、約束をきちんと果たしてくださるお方と理解できる」

 以上の事柄は、降伏してはじめて可能なのです。38章に戻ります。

 「降伏しなさい」とは、以上2つの意味があることをお話ししました。

 今までの話の流れからすると、少しずれるかもしれませんが、大事なことなのでもう1つ付け加えたいと思います。それは

3.「神はほんとうに降伏する者を、決してバビロン捕囚のままで、見捨て給わない」  

 ということです。

 エレミヤは、穴の中、泥の中に沈んでおります。エレミヤの側から、これをお話しするならば、「エレミヤは、穴の中、泥の中に沈んで、これでおしまい、ということではない」ということです。

 神は、本当に降伏する者を決して泥の中に沈み切らせないお方です。

 そう、神はどんな状況の中でも、信仰者の使命目的がある限り、決して見捨て給わない、と申し上げたいのです。そういうお方として、神様を理解出来る、ほんとうに降伏する時に、それがたとえ捕囚であっても、主が自らの主として望んでおられるということがわかるということです。

 たとえ、穴の中、泥の中に沈むことがあっても、沈み切ることはない。なお使命がある。それを全うされるために、必ず目的の場所に信仰者を届けてくださる。旧約創世記のヨセフも穴の中に入れられました。ダニエルの友人たちも炉の中に入れられました。ヨセフは監獄の中にも入れられました。パウロもシラスも牢屋の中に入れられました。その中でそのままいつまでも見捨てておくことはなされませんでした。必ず、目的がある限り引き上げられ、生かされ、使命に立たされていくのです。

 たとえて言えば、主の弟子たちが湖の向こう岸に渡ろうとするとき、その真ん中で暴風にあい、おぼれそうになるとき、主の約束は向こう岸に連れていってくれることであり、暴風にあわないようにとか、おぼれそうにならないようにすることではないのです。暴風にあうかも知れません。おぼれそうな時もあるかも知れません。暴風の全くない安全、穴の中がない安全を約束しておられるのではないのです。

 でも、主は目的地には必ず届けてくださるのです。湖の真ん中でおぼれ、そして沈んでしまってそこで死ぬようなことはないようにして下さっている。それが約束です。改めて教えられます。まさに、そこが、穴の中であり、泥の中であっても。たとえバビロンに移されたとしても。そこは徹底的に降伏するため、扱われるための場所なのです。

 ところで、このメッセージは預言者の最悪の状況から述べられたものでした。神はいつも、時代が最悪と思われる中でも、真の預言者を送り、あわれみのメッセージを示してくださいます。また別の面から見れば、最悪と思われる中にあっても、信仰者は神のあわれみが尽きないことを悟るのです。また与えられたお仕事を果たすことができるものなのです。

 繰り返します。神は信仰者の使命目的が終わらない限り、決して泥の中・穴の中・バビロンの中にそのまま見捨ててしまわれるお方ではないということ。引き上げてくださり、生かしてくださるお方。そして言うまでもなく、そういう中で、神のみ前で降伏するとの経験を持つことの大切さが教えられているのです。

 「降伏しなさい」「へりくだりなさい」「打ち砕かれよ」――あますところなく徹底的に!このメッセージはエレミヤの時代だけでなく、今もダイレクトに語られているのです。

 主イエス様は私たち信仰者の模範となってくださいました。神であられるにもかかわらず、人となってくださり、十字架の死に至るまで徹底的に打ち砕かれ、その生涯を送られました。しかし、その後、高く揚げられて、すべての名にまさる名を得、主であられることはピリピ書に記されている通りです。


終わりに

 締括りに、降伏するとはどういうことか、実際的な適用を3つ述べます。

 (1)まず、当然ですが、正しい意味の自己否定です。神第1の姿勢をとりたいものです。罪を徹底的に打ち砕き、きよきの生涯を歩みたい。きよめの生涯とは神の御旨を最大の喜びとする生き方なのです。

 (2)それから、聞くこと。ヤコブ書でも学びましたが、聞くことです。

 聞くとは、受け身になること。下に自分を置くことになります。聞くとは、従うことです。

 よく何がみこころなのかという時、もとより最後は私と神との関わりで判断するのですが、必ず牧師や家族など周りの意見を聞くことです。そして意見が同じであれば、それでよいのですが、自分と違う場合、とどまってみる、止まることをしたいものです。しばらく置いておいてよく考え、祈り直すのです。その心の余裕。一致を見い出すような心の動きこそ、聞くということになるのです。降伏って、そういう意味があるのです。

 (3)泥の中・穴の中・監視の庭の場所であっても、そこがバビロンであってもいつまでも捨ておかれないことを弁えたい。徹底的に降伏、扱われ、そして、神の使命が残されている限り、生かされている限り、引き上げられていき、目的使命の道を歩み続けるのです!

 「降伏しなさい」――これが、今日のメッセージです。ご一緒にお祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2001.2.27