• 礼拝メッセージの要約
    (教会員のメモに見る説教の内容)


  • 聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

  • 2001年3月4日

    ヤコブ書連講〔7〕

    「人を差別する人の罪」

    竿代 照夫 牧師

    ヤコブ書2章1−13節

  • 中心聖句

    1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

    (1節)


    始めに:

    1.ヤコブ書の連講の前回は、1章19-27節を学びました。その中心的な御言葉は22節の1行目の「また、みことばを実行する人になりなさい。」ということでした。ヤコブはヤコブ書において「行い」を強調しています。

    2.今回から2章に入りますが、この章から具体的な「行い」の問題に入ってまいります。本日は2章の前半から「差別することの罪」について学びます。

    3.1節から13節までが一つの思想の塊で、アウトラインを示しますと、

    1)差別扱いは罪である(1)

    2)差別扱いの実例:会堂での応対(2−4)

    3)差別扱いが悪い理由1:神の公平に反する(5−7)

    4)差別扱いが悪い理由2:神の愛の律法に反する(8−9)

    5)差別扱いが悪い理由3:一つの律法違反は全体の違反(10−13)

    となっていますが、今日はこのうちの7節で止めたいと思っています。

     


    A. 差別主義の罪:一般的声明(1節)

  • 1私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

    1.前提:主を信じる信仰

     ヤコブは、厳しい勧告をする前に、まず「私の兄弟たち。」という優しい呼びかけを行っています。牧会者としての心配りが充分に伺える言葉ではないでしょうか。人を叱らなければならないときに、敵対する態度ではなくて、このように優しい態度で行うことによって相手の心を開くことができます

     更にヤコブは、えこひいきの罪を糾弾する前に、クリスチャンとしての共通の前提を思い起こさせております。「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っている」それが共通の前提です。高く上げられた主によって罪の中から救われたもの、そのいと高きお方の前に僕にしか過ぎないもの、それがクリスチャンです。このお方の前では、誰が偉い、偉くない等という比較は全く愚かしいものとなりましょう。

    2.結果:えこひいきは不可

     ヤコブはここで、えこひいきは罪と断定します。

     ここでえこひいきと訳されている言葉は「プロソーポレームプシアス」(顔+受ける)と言って、文字通りには、「顔を受ける」と言うことです。顔、即ち外見で人を受け入れるということから、不公平な扱い、偏見、差別扱いを表すようになりました。

     人をその貧富や、人種や、性別や、教育などで差別することは神の最も嫌いなさることです。なぜなら、神は全ての人を創造されました。そして、

    天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

     それは何と広い愛でしょうか。その神は、

    かたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(使徒10:34,35)

     神は広い心をもって、差別をなさらないお方なのです。

     


  • B.差別主義の実例:会堂での応対(2-4節)

  • 2あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。

    3あなたがたたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。』と言うとすれば、

    4あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

    1.会堂とは?

     この会堂はユダヤ人の会堂であるシナゴーグという言葉です。シナゴーグはユダヤ人が安息日に集まる場所でしたが、通常は子供達の学校としても使われ、また裁判が行われる場所でもありました。 この手紙の受取人である世界各地に散らされたユダヤ人クリスチャン達は、かならずしもユダヤ教とキリスト教を切り離して考えてはいなかったようで、クリスチャンのユダヤ人も、一般ユダヤ人の会堂に礼拝と聖書の説教を聞くために集っていたのかもしれません。聖書学者のアダム・クラークはこれはユダヤ教の会堂だと言っています。

     その可能性もなくはありませんが、クリスチャン達は彼らだけの集会所シナゴーグを持っていた可能性もあります。エルサレムの中でも、その出身地別の会堂があちこちにあったように、散らされたユダヤ人クリスチャンも一般ユダヤ人の会堂とは別個に、集会所を設けた可能性もあります。私はこの方が自然であると思います。

    2.金持ちへの特別扱い

     そういうクリスチャンの集会にお客さんとして、金持ちが入ってきた、というのがヤコブの想定です。でもこれは仮の話ではなく、実例としてあちこちで起きていたようです。

     ウェスレーは質素を薦めた人でしたが、それを知っていたある人がきんきら金の洋服を着た貴婦人を教会に連れてきたそうです。そしてウェスレーがそんな贅沢はいけませんといって説教するのを期待して、その貴婦人をウェスレーに合わせたところ、ウェスレーはただ一言「きれいな指をしていらっしゃいますね。」と言ったそうです。ウェスレーの機転の良さがうかがわれるエピソードですが、きれいな洋服を着ているからといって人をさばいてはいけません。

     さて、ユダヤ人クリスチャンの集会に「金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来」ました。ここで言っている金の指輪とは、男性のローマ貴族が着けるもので、そこにはマークが彫ってあって印鑑の代わりに使用されていたものです。立派な服装とはトーガの様なものであった、と想像されます。いずれにせよ、男性の高い地位の人、長官とか総督といった人であることがその様子から一目で分かりました。

     その金持ちに対して、アッシャーの立場にあった人が、さあどうぞと言わんばかりに、良い席を案内したのです。ユダヤの会堂には上席、椅子席が長老や書記のために備えられており、他の人は床に座るのが普通でした。恐らくこの描写もそれに倣ったものと思われます。

    3.貧乏人への蔑視

     さて、幸か不幸かこれと殆ど同時に、みすぼらしい格好をした人が入って来たというのです。金持ちには「目を留めた」のに、貧乏人にはチラッと目をくれただけで、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」といったとすれば、これは何という差別でしょうか。

     勿論、ヤコブはかなり極端な例を挙げているのですが、どうも私達の間で無意識に行われていることの本質をついているように思われます。

    4.その罪の大きさ

     ヤコブは、もしこれが事実とするならば、「あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」と叱ります。

     「差別を設ける」はディアクリノー(=区別する、識別する)という言葉です。勿論私達は皆違った特徴を持ち、それぞれに賜物を持っているのですから、それらを積極的な意味で生かして、用いることは必要です。そのための健全な識別は必要なことです。しかしここで言っているのは、人間にはどうすることも出来ないような立場や持ち物について、それがその人の価値を決めるものと考えて扱いを変えること、それが差別です。

     差別をすることは2つの意味で悪い事です。

     ひとつは、裁きをなさるのは神ご自身だけであり、人をこうだといって決めつけることは、その瞬間神の立場に立ってしまっているという間違いです。私達は日常生活でつい人を裁いてしまうことが何と多いことでしょう。日本の政治の世界でも「…おろし」といっておろしているあなた自身はどうなんだといいたくなります。私達はとかく人にレッテルをはりやすいものですが、裁くのは神ご自身のみがなさることです。

     2つめは、悪い考えで、正しい基準でなく外見で人を裁いている、偏見で人を判断しているということです。私達には大なり小なりそのような傾向があるのは事実です。大きな会社の社長さんに友達になろうと言われてうれしくないはずはありません。「…先生」といって頼めるコネができたと思う心はだれにでもあるでしょう。しかし、金持ちであることは必ずしも徳の高さを表していませんし、貧乏であることは必ずしも怠け者であることを意味していません。神は全然違った基準で人をみなさり、全ての人を等しく受け入れなさるお方です。

     

     


    C.差別の悪い理由:神の公平(5−7節)

    1.貧乏人への神の祝福

    5よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

     これは以下のマタイ11:5との関連で語られています。

    盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。

     貧しい人々は主イエスを信じ、救いを得ました。所が金持ちは主を馬鹿にし、無視し、迫害しました。キリストへの信仰を持った者達は、キリストによって最高の霊的な祝福を与えられ、天国に入る権利を得ました。貧乏人は人々からは馬鹿にされましたが、神からは高い評価を頂いたのです。

     この様な例はルカ16章の金持ちとラザロの物語など福音書に多く見られます。ある所に一人の金持ちと乞食のラザロという人がいて、二人が死んだときに、アブラハムの懐に行ったのは乞食のラザロであり、地獄に行ったのは金持ちであったというお話しです。

     それでは貧しい事=良い事なのでしょうか。聖書は単純にそう語ってはいません。ただ、貧しいが故に神の恵みをへりくだっていただく備えができやすいというだけです。天国に行くためには貧乏にならなければならないなどということはありません。神様の前で一番大切なのは心のへりくだりということです。貧乏な人達の方が心のへりくだりを学びやすい環境にあるということは言えるでしょう。金持ちの人の方がへりくだることが難しいというだけで、絶対的なものではありません。

    2.金持ちの圧迫と暴虐

    6それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。

    7あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

     どうかこの場所からマルクスが労働者を煽って革命に向かわせたような革命の思想を持たないで下さい。金持ちを逆差別してはならないのです。人を等しく扱うことが大切です。

     これは迫害の事実を表しています。ローマの世界にはキリスト教徒に対する迫害の嵐が吹き荒れていました。その迫害を行った多くは金持ちでありました。これは残念ながら歴史の中で起きた事実です。

     ここでヤコブは金持ち達に対する反感を煽っているわけではなく、金持ち達が陥りやすい事実を述べて、だからそんなに金持ちにしっぽをふる必要はないのだと説いているのです。

     


  • D.差別の今日的課題

    1.現代社会における差別

     差別は現代においてはどのような問題となっているでしょうか。

     いちおう人間が平等であるという公理は少なくとも建前としては憲法にもうたわれており、皆によって受け入れられています。昔と比べたらずいぶん良くなってはいますが、それでも差別意識、差別待遇は社会に根強く存在しています。人種、性別、地位の上下、貧富の差、学問の有無、生い立ち、身体的な能力の差、等によって人を区別し、違った扱いをしやすいものです。私自身も振り返って見ると、子供の頃には気づかずに人に対して差別的な言葉をしゃべっていたことが思い出され恥かしく思います。

     日本は、徳川3百年の間、士農工商の厳しい身分制度と鎖国制度に生きて来ました。それが撤廃されてもう150年も経ちますけれども、未だに、身分とか性別とか人種の違いを強く意識し、違った扱いをする風習が色濃く残っており、鎖国の思想に根ざした外国人に対する差別もあります。差別問題は世界共通の問題ではありますが、日本のそれは大変厳しいと私は感じています。

     さて教会こそ、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)と、真の平等が確立されるはずの場所ですが、ともすると、差別主義と差別扱いが入り込んでしまします。社会では社長でも、教会では兄弟姉妹です。でも教会の外でえらい人に対しては教会でもそのような扱いをしてしまいがちです。

    2.私達の「内にある」差別観

     問題は、頭では分かっていても、気づかない面で差別をしてしまう、私達の心の問題なのです。もっと言えば、私達の心に巣くっている罪なのです。罪の中心は自己中心です。それゆえ人よりも高い地位に立ちたいと願い、また高い地位の人を見ると自分をさげすんでしまうのです。それらは全て自己中心のうらがえしの行動です。

    3.キリストによる克服

     これに対して本当に私達の内なる差別意識をうち砕いて下さるのはキリスト以外にありません。

     彼の私達に示して下さった愛の大きさを見ましょう。何の価値もない罪人を愛して死んで下さった大きな愛を覚えましょう。

     またキリストの模範を見ましょう。地上の権威、地位、富を全く無視して、へりくだりの極致を実行された主を仰ぎましょう。

     そしてキリストの力を信じましょう。私達の内にあるどうしようもない罪の固まりを砕いて、事は終わったと宣言された完全な救いを受け入れましょう。

     自分は差別とは無縁だと思っている人ほど差別にとらわれてしまうことが多いものですが、そのことを認め、主の力を信じ、主に従い、主のご愛を受け入れつつ進ませていただきたいと思います。

     お祈りいたします。


    Written by I. Saoshiro and Edited by T. Maeda on March 11, 2001